第40話 酷い歌声

「本当に行かなくていいのか?」


 音葉は一旦父と一緒に家に帰って来ていた。夕方頃には母もこの家に戻ってくる予定になっている。

 心配そうに音葉にそう声をかけてきた父に、すっかり憔悴し切った顔で音葉は答える。


「いいの。そんなお祭り事できる状態じゃないでしょ。今から言ったところで間に合わないし。それに、お母さんに聞いてもらえないなら歌う意味ない」


「葬儀は明日だし、今日ぐらいいいんじゃないか? 頑張っていたんだし」


 父の言葉に決意した心が一瞬揺らぐ。


「まー音葉の勝手にしなさい。だけど、母さんは歌って欲しいって思ってるぞ、きっと」


 父はそう言うと、音葉の頭をポンポンと撫で、部屋を後にした。音葉は父が離れていく足音をしばし聞いた後に、腰掛けていたベットに体を倒し、膝を抱えうずくまった。


 音葉はもう何も考えたくなかった。

 夢を叶えさせてあげたかった母は死んでしまった。この数ヶ月必死にやって来たことが無駄に思え始めている。

 一方で、響や華愛、律と過ごした日々を無駄にはしたく無いとも思ってしまう。


 母が行ってしまう時が近づいている事は分かっていた。

 最近母は自力で起き上がる事が出来なくなっていた。痛みも酷くなっていたようで、普通の痛み止めでは効果が得られず、強い薬を使う事が多くなっていた。食事も固形の物はほとんど受け付けず、コンビニで売っているイチゴ味のかき氷を好んで食べていた。

 それでも、母は音葉の前では常に笑っていた。今思えば、無理していたのだろうと分かる。

 そんな母の心配をかけたくないという優しさに、音葉は無意識に甘えていた。状況は悪くなる一方だというのに、なぜか文化祭には来れるだろうと、確証のない自信を持っていた。


「私はバカだ……」


 時計が「チッチッチッチ」と、時を刻む音だけが聞こえてくる。チラッと壁にかけてあるその時計に視線を向けると、時刻は十一時を回っていた。

 予定通りであればライブも無事に終わり、文化祭を楽しんでいる頃だろう。バンドメンバーの顔がふとよぎる。申し訳なさと、絶望感が精神的に疲れ切っている音葉の心を更に追い詰めていく。

 音葉の心はどうやっても自分自身では立ち直れないところまで来てしまっていた。どうしようもなく心が沈んでいき、自分で掬い上げることはもう出来ない。

 自分の耳が意識し始めてしまった時計の音が、無性に怖く感じてしまう。音葉は我慢できず、思わず布団の中に潜り込もうとした。その時だった。


「歌え! 溢れ出した僕らの想い、群青に響き渡れ! 叫べ! 張り裂けそうな本当の言葉を今、全て伝えたいからー」


 音葉の耳に、明らかに聞き覚えのあるフレーズが飛び込んできた。距離があるようで、音量は小さい。それでも、音葉にはその歌がハッキリ聞こえた。

 叫ぶような声は震えていて、所々声が出ないのかつまる部分があった。ハッキリ言って酷い歌声だと音葉は思った。

 でも、絶望の中にいた音葉の心を掴み取るには、その歌声は充分だった。冷たくなった心がじんわりと暖かくなっていく。さっきまで枯れるほど泣いた筈なのに、音葉の瞳はまた涙で溢れていた。


 その後はもう衝動的に部屋を飛び出していた。寝起きのままで、髪もボサボサな事もすっかり忘れ、階段を駆け下りる。

 ドタドタとした音に、何事かとリビングから顔を出した父の前を走り抜け、玄関へとまっしぐらに走った。


「ガチャッ!」


 ドアノブを思いっきり押し開け、太陽の下に躍り出る。

 目の前には、口を大きく開いたまま固まっている響の姿があった。綺麗な二重の目は大きく見開き、音葉と視線がぶつかる。


「何で……ここにいるの……」


 言葉がうまく出てこない。音葉自身もこの状況に頭が追いついていなかった。そんな中、響の顔は驚きから無邪気な笑顔に変わっていく。


「音葉を迎えにきた」


「何で……」


「みんな待ってるから」


「何で……」


「俺らには音葉の歌が必要だし、音葉にも俺らが必要だと思ったから」


 同じ言葉しか出てこない音葉に対し、響は真っ直ぐな言葉を返す。弾かれたかのようにここに立っている音葉は、混乱していた。

 母が亡くなった悲しみ。

 自分の弱さに対する怒り。

 響達に対する申し訳なさ。

 自分を迎えにきてくれた事への嬉しさ。

 歌いたいという自分の本能の叫び。

 全てがごちゃ混ぜで、どの感情を優先すればいいのか分からない。何も言えず、音葉はその場に立ち尽くす。


「俺、前に言ったよな」


「……え?」


「俺らがステージを作る。だから、お前はその声を俺らの音楽と一緒に響かせろって」


 その言葉に、バンドメンバーに入ったあの日を思い起こす。母の夢を知って響達の元に自分の意思で訪れた。

 断られたらと思うと怖くて仕方がなかった。

 自分の歌に自信が無くて不安だった。

 そして、あの時も今と同じような台詞で音葉は解放された。思わずその場に膝から崩れ落ち、泣いてしまった事を昨日のように思い出せる。


「音葉!」


 力強く名前を呼ばれ、音葉はこぼれ落ちる涙を拭う事もせず、目の前にいる響の姿をただ見つめる。


「歌はどこまででも響いていくんだ! 喩え聞いてほしい人がすぐ近くに居なくても、地球の反対側でも、空の上でも!」


 響の言葉が音葉の心にズンと衝撃を与える。

 一人耐えがたい感情の中で殻に籠もっていた自分を、響の歌が引きずり出してくれた。酷い声で、距離があった為音も小さかった。それでも、音葉にはその歌に乗せられた思いをしっかり感じ取っていた。


『歌はどこまででも響いていく』


 その通りだと音葉は思った。自分ではどうしようもできないところまで来ていた音葉の心にも、響の歌はしっかり響いた。


「ひび……き、私……歌っていいかなっ」


 上擦った鼻声で音葉はそう響に問いかけた。響はそんな音葉に近づき、あの時と同じように手を差し伸べてくる。


「当たり前だろ! 音葉の歌、天国の母ちゃんに聞かせてやろうぜ!」


「うんっ」


 差し出された響の手を握り、そのまま響に近づく。身長の低い響の左肩に頭を押し当て、音葉は声を出し思いっきり泣き出した。響は少しおどおどしながらも、そんな音葉の頭を優しく撫でる。

 音葉は泣きじゃくりながら心の中で思った。


(やっぱり響には敵わない)


 しばらく経ち、落ち着いたところで音葉は重大な事に気が付き、思わずガバッと顔を上げた。


「ライブの時間!」


「それなら律達が任せてくれだと」


 音葉が何を言いたいのか察したらしい響が、そう答えた。そして、スマホをポケットから取り出した響は、電話をかけ始める。


「あっ律。そっちどうなった? こっちは大丈夫だぜ。…………………あーオッケー。じゃー今からそっち向かうわ。……おう。じゃっ」


 短いやりとりが男子らしいと思いながら、音葉はスマホから耳を離した響に視線を真っ直ぐ向ける。


「あっちも準備オーケーだと。それじゃ行きますか」


 そう言った響が乗って来たであろう自転車の元へ向かおうとした、その瞬間だった。


「音葉、制服に着替えて来なさい」


 後ろから優しげな低い声が聞こえて来た。反射的に後ろを振り返ると、そこには父の姿があった。


「話は聞かせてもっらたよ。学校まで車を出そう。その方が早い。それに、私も聞きたくなったよ。音葉達の歌」


「お父さん……」


 優しく微笑む父の顔を見て、声が漏れる。自分と同じ悲しみの中にいる父のその言葉に、音葉は先ほどにも増して覚悟を決めていた。


「着替えてくる!」


「おう! 音葉の親父さん、ありがとうございます!」


「お礼を言わないといけないのは、私の方だ。響くん、音葉を迎えに来てくれて、本当にありがとう」


 急いで家の中に戻る中、二人のやり取りが微かに聞こえた。音葉は少し照れ臭さを感じる中、自分の部屋へと続く階段を駆け上がっていくのだった。

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