第36話 夜明け

 夜中の午前四時。

 血相を変えた父に叩き起こされ、音葉は寝ぼけ眼で車の助手席に座っていた。未だにこれが夢なのか現実なのかも分からない。ただ、今日は文化祭当日だということは意識がぼんやりする中、何故かはっきり認識していた。


「お父さん、今日文化祭だしもうちょっと寝てたいんだけど」


 思い瞼を擦りながら、隣で車を運転する父に問いかける。が、何も言葉が帰ってこない、徐々に覚めてきた頭で嫌な予感を感じながら、ゆっくりと父の顔を観た。

 泣いていた。

 父の泣く顔など今まで一回も見た事がなかった。その瞬間、音葉の脳がある可能性を察するよりも先に、瞳から涙がこぼれ落ちた。


「ごめんな」


「うそ……嘘よ……」


 父の謝る声が震えている。音葉の良い耳はその声に含まれた感情を嫌でも読み取ってしまう。

 ありえない。

 考えたく無い。

 この先に行きたく無い。

 そう願っても、夜明け前の車が全く走っていない静まった道路を、父の運転する車は真っ直ぐ走っていく。

 いつもは音楽を必ず流しながら運転する父だが、今日は何も聞こえない。ただ、音葉の鼻を啜る音だけが車内に流れる。

 音葉は父に言葉をかける事ができず、自分の運命に抵抗する事もできず、ただただ静かに涙を溢していくことしか出来なかった。




 母の姿は、いつもの見慣れた病室にあった。昨日来た時と全く変わらずそこに居るのに、笑顔で出迎えてくれる母はもういなかった。あれだけうるさかった色々な機械音も今はなく、母に繋がれていた機器類が一掃されている事に気付いてしまう。

 

「おかあ……さん?」


 そう声をかけながら、ゆっくりと近づいていく。いつもなら寝ていても返事をしてくれるのに、今は不反応だ。

 そして、目を閉じ眠っている母の手を取り握る。


「お父さん、お母さんの手あったかいよぉ……」


 父は少し赤くなった目を細め、音葉の手ごとその大きな手で包み込むよう、母の手を優しく握った。


「ああ、そうだな……。あたたかいな」


 父の目からはもう先ほどのような涙は出ていなかった。


「母さんは、本当に頑張ったな。本当に、自慢の奥さんだよ」


 そう言ったお父さんの顔は寂しげで、優しげで、どこかスッキリしたような雰囲気を纏っていた。

 音葉は改めて母の顔を見る。目を閉じ、いつもより更に透き通るような肌になった寝顔を見つめる。


「音葉の歌ってる姿、見せてやりたかったな」


 ふと、隣から響いた父の声が、音葉の鼓膜を揺らした。

 スッと入ってきたその言葉に、音葉の感情が堰を切ったかのように溢れ出していく。

 あんなに母が楽しみにしていたライブは、もう数時間後に迫っていた。母の夢を一緒に叶える為に、みんなと一緒に今日まで頑張ってきた。それなのに、天はその夢を目前にした母を連れて行ってしまったのだ。


「お母さん……今日ライブだよ? 楽しみにしてたでしょ? ねぇ……お母さんってば……」


 必死に母に問いかけるが、返事はもちろん返ってこない。こんな事あってはならないと、そう心の中で何回も繰り返し叫ぶ。

 いくら母に言葉を伝えてもこの状況は変わらないと言うことを、高校二年生である音葉は充分理解している。だが、理解できたとしても突然の別れをすぐに受け入れられるわけでは無い。


「音葉、母さんを許してやれ。今日までよく頑張ったよ」


「うわぁぁぁぁぁぁ」


 深夜の病棟の一室から、音葉の叫ぶような泣き声は、日が昇り外が明るくなるまで続いたのだった。

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