第35話 パンフレット

「父さん……」


 いつもと変わらない朝の光景。リビングでコーヒーを片手に新聞を読んでいた父の背中に、律は声をかけた。


「なんだ」


 振り向きもせず、まるで事務処理のように感情のこもらない冷たい言葉で父が答える。

 思わずゴクリと唾を飲み込み、右手に持っていたを思わず握りしめる。前までの律ならここで行動を起こさず諦めていただろう。でも今の律には譲れない物があった。

 あの騒動以来、父とは二ヶ月以上全く会話をしていない。でも、今日だけはどうしても伝えなくてはいけない事があった。


 律は歯を食いしばり、滲み出る冷や汗を感じながら、父のいる場所に向かって歩き始めた。そして、父の目の前に握りしめて端にシワが寄ってしまったを差し出しだす。


「明日の文化祭に来て欲しい」


「…………」


 父は何も答えない。でもめげることなく、律は話を続ける。


「父さんは昔、俺の事を秀才だと褒めてくれたね」


「そんな事もあったな」


「周りの人も俺のことを秀才、あるいは天才だと言う。でもそれは違う」


「…………」


「俺は秀才でもなければ、天才でも無い。俺はただのドラムバカなんだよ」


 父は律の言葉に今日はじめて反応した。二人の目線がぶつかり合う。父の視線を真っ直ぐ受け止め、律はふっと頬を緩めた。


「やっと俺を見てくれたね。父さん、俺はドラムの為に今まで努力してきた。ドラムと出会ってなかったら俺は秀才でもないただの普通の高校生だったよ。それはあの賭けを受け入れた父さんも、本当はよく分かっているでしょ?」


 父は何も答えない。それでも律は自分の話を続ける。


「今までは父さんに自分のドラムを聴いて欲しい、理解して欲しいと思ってもどうやって行動すればいいか分からなかった。でも今は違う! 今の俺には最高の仲間がいる。そしてその仲間が俺を後押ししてくれる。だから、俺の、いや俺達の曲を聞いて欲しい! 父さん、お願いします。文化祭のライブを見に来て下さい」


「…………」


 頭を下げた律は父の反応を待つが、言葉が帰ってこない。律はゆっくりと頭を上げて父の姿を見る。いつの間にか視線を新聞に戻し、そこには普段と変わらない父の姿があった。


(今の俺では父さんの心を動かせないのか…………)


 少しは自分の気持ちが届いたのではと期待していたが、現実はそんなに甘くは無いらしい。苦いものを噛み締める思いで、律はリビングを出た。そのまま玄関に直行し、履き慣れたローファーを履く。そして玄関にあらかじめ用意してあった自分のスクバを手に持ち、改めてリビングに続くドアを見る。


(今までの何もできなかった自分からしてみれば上出来か……)


 そう心の中で呟いてふーっと長く息を吐いた後、顔の筋肉を引き締める。結果、父に届かなかったとしても、ライブを成功させたいという思いは変わらない。

 それに、響の作った新曲は、離れた場所にいる人にもこの熱い思いが届くような、そんな不思議な魅力がある。きっとあの曲なら仮に父が観にこなくても、何か伝わる物があるかもしれないと律は思った。

 律は勢いよく玄関のドアを開け、もう一度振り返った。


「行ってきます!」


 リビングにも聞こえるようにわざと大声で言い放ち、その後は振り返ることなく、力強く歩み始めるのだった。

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