第26話 感謝

 華愛は波乱の展開となった説教から解放され、家路につこうと一人トボトボと歩きながら下駄箱に向かっていた。

 音葉は「お母さんが心配しちゃったかも知れないから先に帰るね」と言って先に帰っていった。


(何もできなかった)


 先程の出来事を振り返り、華愛はそう心の中で呟く。

 せっかく友達や仲間と呼べる人達ができて、一緒に曲を奏でて喜びを分かち合うことの素晴らしさを教えてもらったのに、その仲間が苦しんでいる時に一言も意見を言えなかった。

 華愛は自分がどうしたら良いのか分からなかった。

 でも、同時に当然だと思った。今まで人と関わりを持つことを避けてきたが為に、こういう経験自体が華愛には乏しかった。

 自分の不甲斐なさをひしひしと感じながら、それでも自分に何かできないかと考える。

 

 ふと、自分の視界に光る存在を捉え、一直線に走り出した。今まではその存在に縋って、自分の想いしか見えていなかった。でも、今走っている華愛の心は別の感情でいっぱいだった。


「鈴鹿先生!」


 立ち止まり振り向いた先生の顔は、少し驚いたように思えた。しかし、すぐに柔らかい笑顔を見せる。その表情に胸がキュッと締め付けられる。でも不思議とその感覚だけに支配されてしまう自分はもういない。


 華愛は先生に言うべき事があってこうして立っている。それは今、自分の恋愛感情よりも優先するべき言葉なのだとはっきり分かっていた。

 今は自分の為ではなく、仲間の為を思って一生徒という立場で先生に向かうべきなのだと。


「先生、ありがとうございました」


 真剣な眼差しでそう伝えた後、華愛は頭を下げた。

 自分が出来ずにただ傍観するしか無かったあの騒動を、先生は上手く収めてくれた。律のどこかフッっきれたような表情と、響の安心したような表情が今も頭から離れない。


「桜木は変わったね」


 ハッとして頭を上げる。

 少しは変われたのだろうか。もしそうだとしたらと華愛は考え、出てきたその続きの言葉を真っ直ぐに口に出した。


「みんなのおかげです」


「そうか。桜木もやっと自分の居場所を見つけたんだな」


(自分の居場所……)


 心の中で反芻した先生の言葉が、暖かい熱を持って華愛の体を駆け巡っていく。今まで感じた事のない体験に戸惑いつつも、その感情を華愛はしっかり心の中で掬い取って大切に抱き寄せた。絶対無くすまいと強く思いながら。

 今までは先生への思いしか入っていなかった心に、その感情はまるで虹色の光を放ちながら浸透していく。


「みんながそれぞれ色々な悩みを抱えながら本気で頑張っている姿を見て、私も本気でぶつかっていかなきゃって思ったんです。本気でバンドに、音楽に向き合おうって」


「良い事じゃないか。それでこそ高校生、それでこそ青春。今しか見る事のできないその景色を、しっかり感じ取りなさい」


 向き合うといっても、具体的にどうすれば良いのか今はまだ正解は分からない。不安や焦りもある。

 でも、今しか見る事のできない景色がそこにあるのなら、みんなと一緒に見てみたいと思った。色彩の失われた、諦めと孤独の世界ではなく、すべての色で埋め尽くされた本当の世界の中で、先生の言う青春の景色を全身で感じてみたいと思った。


(先生は私にとってヒーローであり、道標なんだ。あーやっぱりどうしようもなく先生が好きでたまらない)

 

「桜木がもっと成長していくのを楽しみにしているよ」


「でも、先生への思いは変わりませんので」


 これだけは言っておきたかった。

 みんなと出会って様々な感情を知って、確かに変わっているのかもしれない。でも、この気持ちだけは変わらないし、譲れない。その思いはむしろ単純に突っ走ってた頃よりも深くなっていた。


 みんながそれぞれ自分の曲を、気持ちを聴いて欲しいと思いながら必死に頑張っている。


『じゃあ自分は誰に?』


 その答えは一つしかなかった。私は自分のたどり着くその先の音楽を、先生に聴いて欲しい。華愛はそう思っていた。


「突然呼び止めてすみませんでした。失礼します」


 自分自身もこの騒動を機に何かが吹っ切れたように感じた。

 たとえどんなに頑張っても肝心な人にその思いは伝わらないかもしれない。でもそれはみんな同じだし、仮にそうだとしても最高の仲間と最高の音楽を作り上げられたのなら後悔はないだろう。

 そう思えるだけで、華愛は気持ちが軽くなったように感じた。

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