第9話 私の歌を聞いて

 放課後、音葉は視聴覚室の前をうろちょろしていた。


 視聴覚室は一階の廊下がT字になっている角の部分にある。向かい側は図書室で3年生らしき人たちが勉強をする為か、今の時間は出入りが激しい。

 また、T字の上の棒に当たる廊下の向こう側はすぐ下駄箱となっており、昇降口とつながっている。その為、こちらも部活に行く人や帰宅する人でごった返している。

 そんな忙しない空間では、うろちょろしている姿も溶け込んでしまい、誰も気にしていない事が音葉には救いに思えた。


 視聴覚室は授業であまり使われない為、中に入ったことは入学説明会を含めれば3回ほどしかなかった。


「はぁ…………」


 今日の自分の大胆な行動を思い出し、思わずため息が漏れる。


(本当にこれでよかったのかな……)


 音葉は今になって不安に襲われていた。

 後悔はしていない。それは胸を張って言える。でもなぜか、とてつもない不安感が不意に襲ってくるのだ。


「そんな辛気臭い顔してないで入れよ」


 聞き覚えのある声が背後から聞こえた。振り返ると最近見慣れてしまった顔がそこにあった。

 響の背中には、ギターらしきシルエットの黒いものが見え隠れしている。

 バンドをやっていると聞いた時は「似合わない」と思っていたが、ギターを背負った姿を見ると案外しっくりくるものだと音葉は思った。


「俺がギター背負ってるとおかしいか? まーとりあえず入れよ」


 無意識で凝視してしまった事に気づき、恥ずかしさと申し訳なさで動揺する。


「うっうん」


 とりあえずそう曖昧な返事を返した。

 響はその返事を聞き終える間もなく、視聴覚室のレバー式になっているドアノブに手をかけた。防音のためか、ドア全体がだいぶ重量があるように見える。


 響はガチャッとレバーを下げ、そのまま押し進んでいく。その動作に合わせ、ドアがゆっくりと開き、眩しい光が音葉を襲った。

 ただ単に元々いた廊下が窓もなく暗かったため、窓のある視聴覚室が余計に眩しく感じたのだろう。なのに、その眩しさになぜか綺麗な異世界を初めて見たような感情が芽生え、音葉は思わず感動してしまった。


「何ぼーっと突っ立ってんだよ」


「ごっゴメン」


 また焦りながら返事をし、音葉は急かされながら異世界への一歩を踏み出す。

 中に入ると、向かい側は窓になっており、中庭で野球部が練習のためにせっせと準備をしている姿がよく見えた。

 すぐ右手にはステージのようにちょっとした段差があり、壁にはホワイトボードが設置してある。そして、ステージから少し離れた向かい側にはひな壇上に椅子がずらっと並んでいた。


「遅いよ二人とも」


「お前が早いんだよ。やる気満々だな」


 どうやらもう一人のメンバーである律は、すでにここで待っていたらしい。そんな男子のやり取りが音葉の耳に入ってくる。

 一通り話し終えた様子の二人が改まって音葉に向き直った。表情は普通の笑顔だが、その真剣な眼差しに思わずゴクリと唾を飲み込んだ。


「さてと、まずは自己紹介しなくっちゃな!」


「俺の名前は木下響。タメだし呼ぶ時は響でいい。だから俺も音葉って呼ぶからな! そして俺はバンドのリーダー兼、ギター兼、作詞、作曲、編曲、担当!」


 そう言って響は自慢げに胸に拳を当てた。

 そんな響には申し訳ないが「曲作りが出来そうには見えない」と音葉は心の中で思った。


「次は律だぞ!」


「はいはい。俺は三上律。ドラム担当だよ。結城さん、いや、音葉ちゃん改めてよろしくね」


 爽やかな笑顔が音葉に向けられる。自分だけに向けられたイケメンの眩しいその笑顔に、顔が反射的に紅潮していくのを感じる。こんな顔されたら「そりゃ人気なわけだ」と心の中で呟く。


「よっよろしくお願いします」


 音葉は赤くなった顔を隠すかのように頭を下げてそう言った。


「あー爽やかスマイルうぜー」


「なんだよ急に」


「おい音葉、こいつの爽やか笑顔は偽モンだから気を付けろ! 本当は腹黒だからな!」


「あははは……。人の秘密バラすの良くないよ。それともそんなことも分からない猿なのかな? ただでさえバカなのにね」


 冷たい感情のこもっていない声が、目の前の爽やかスマイルから発せられたことを理解するのに、音葉は数秒かかった。そして顔の熱が徐々に引いていくのを感じた。


「出た! ブラック律くん。こえ〜。その顔のまま放たれるから怖さ倍増」


 響は大袈裟に自分の腕を抱き、身震いをするフリをしながらそう言った。


「響が秘密言っちゃうから音葉ちゃん困ってるよ。ごめんね。でも響の言う通り、俺性格曲がってるから。でも気にしないで。後、このことは秘密ね」


 そう言って律は、自分の唇に人差し指を重ね合わせた。イケメンはキザな行動も様になる。


(多分、言った所で誰も信じてくれないなこれは……)


 音葉はそう思いながら、あまりの衝撃に言葉が出ずコクコクと頷くことで了解した事を伝えた。


「いい子だね」


 そう爽やか笑顔で言われた音葉だったが、何やら深掘りしてはいけないような圧を感じ取った。律の秘密を知ってしまった今、音葉は先ほどのように顔が火照ることはもうなかった。


「そうだ、音葉! 一回生で歌を聴かせてくれ! お前の実力が知りたい」


 目をキラキラと輝かせながら響が無邪気な笑顔でそう言ってきた。実力という言葉に、あまり自信がない音葉に緊張感が走る。今までの自分だったら「動画で聴いてたんじゃないの?」とか言って誤魔化していたかも知れない。でも、それでは勇気を振り絞り大切な時間を割いてここに立っている意味がない。

 音葉は拳にギュッと力を込めた。そして真剣で鋭い眼差しを響にぶつけながら尋ねる。


「何歌えばいい?」


 響が「待ってました!」と言わんばかりにニヤッと笑った。


(こうなったらお望み通り、この歌声いくらでも聞かせてあげるわ!)



 音葉は心の中でそう叫ぶ。

 響は曲のリクエストを迷っているようで、顎に手を触れたまま斜め上を見て考え込んでいる。そしてふと顔を音葉のほうに向き直した。


「そういえばお前の動画っていつもアカペラで、ジャンルもバラバラだよな。強いていうなら、ミュージカル曲が少し多いか?」


 確かに響の言う通り、配信サイトに上げている動画はミュージカル曲が多い。

 そもそも、ミュージカル女優だった母に見せるために始めたチャンネルだ。必然的にミュージカル曲が多くなってしまった。が、この頃は他のリスナー、特に同い年ぐらいの若い年齢層の人が多くなり、流行の曲なども動画に上げるようにしていた。


 そんな事に気づくなんて、一体どれだけ自分の動画を見ているのだろうか。なんだかすごく恥ずかしい気持ちが体を巡っていく。


「音葉ちゃん、ミュージカルとか好きなの?」


「へっ……あっうん。ミュージカルは私の原点だから……」


 律の問いかけに、思考が追いつかず変な声が出てしまった。なんとか声を調整し、問いに答える。


「へー意外だね。いつもヘッドホン持っているし、キャラ的にも陽気なイメージだったから、てっきりポップスとか洋曲とかの激しい曲が好きなのかなって思っていたよ」


「人は見かけによらないからね。私もこの頃すごくそれを思い知った」


 そしてを交互に見る。

 律はいつもの爽やかスマイルを崩さず「アハハソウダネ」と棒読みで言葉を発した。

 

(うん、コワイ)


 音葉はそんな思いを胸に、律と同様に「アハハハ…………」と棒読みで笑いを返した。そんなやりとりを全く気にせず考え込んでいた響が、ふと声をあげる。


「特にあの歌が好き。感情が入ってるっていうか、釘付けになる。確かドリームガールズってミュージカル映画でビヨンセが歌ってるやつ」


 その言葉に何回も観てきた映画のワンシーンが、頭の中に流れた。


「あの曲は自分の歌を聞いてって訴える曲なの」


「今の音葉ちゃんにぴったりだね」


「そうかもしれない。でも……」


「でも?」


 音葉はトラウマとなったオーディションを思い出す。


 アルファベットと番号の書いてあるゼッケンをつけ、大人達が前に並ぶ中、歌い始めたあの時。ダンスの発表会では緊張知らずだった音葉は、初めて頭が真っ白になった。歌い出しても声が震え、高音は音を外し、注がれていた視線がより重く冷たくなっていくのを感じた。

 その後の記憶は全くない。


 それから、人前で歌うことが怖くなってしまった。今でこそ動画配信をしているが、実際に人の目の前で歌う事は今だに抵抗がある。


「人前で歌うの苦手なの。その……緊張しちゃって」


「おいおい、俺らの前でダメだったらバンドが成り立たないぞ」


 確かに響の言った通りだと音葉は思った。これからバンドのボーカルとして活動すれば、人前で歌う事が多くなる。いつまでも動画に頼る訳にはいかない。それに、今トラウマを克服するチャンスを逃したら、一生後悔する様な気がした。


「そうだよね……。うん頑張ってみる」


(大丈夫、大丈夫。もう高校生なんだもの。幼い時の失敗なんてもう笑い話なんだから)


 バクバクと激しく跳ねる心臓を宥める様に、音葉は心の中でそう自分に言い聞かせる。


「おい律」


「分かってる」


「ふー。ぷぅ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜」


 音葉は目を閉じ、息を吐いて唇を震わせる。自分の感情が少し落ち着いたところでゆっくりと目を開け、二人の姿を探す。

 響と律は、なぜか窓際に寄りかかりながらコソコソと話している様子だった。


「準備できた」


 二人の様子に少し違和感を感じながらも、音葉は落ち着いた声で準備が整った事を伝えた。


「じゃーカラオケで歌ってる気分で軽ーく歌ってくれ」


「楽しめばいいんだよ、音葉ちゃん。緊張するなら目を瞑って歌えばいい」


「うん」


 音葉は律の提案に従い目を瞑る。

 鼻からスーッと息を吸い込んだ後、まるで吐息のように出だしの音程を奏でる。自分自身の声を感じながら、味わうようにメロディを紡いでいく。


 なぜか今日は、いつもより声が出る気がした。調子がいい。

 サビに向けて盛り上がっていく中、自分の感情を思いっきり歌に乗せてぶつけたいという欲求に駆られる。そして、声の調子の良さが後押ししてくれるように溢れ出す。


 自分の可能性を広げたくて、母との夢を果たしたくてこの場所にたどり着いた。

 強い意思を歌でぶつける。

 曲がさらに転調していく。ふわっと風が私を包むような感覚が襲った。


(気持ちいい!)


 音葉は無我夢中で歌っていた。人前で歌っている事を完全に忘れ、心のままに声を出していく。感情が昂り、歌詞やメロディに合わせて勝手に体も動いていく。

 歌う事が大好きなんだと全身で感じながら、音葉は最後まで走り抜けていった。


 歌い終わった瞬間、沈黙が音葉を襲う。

 空間に音葉の「はぁはぁ」と上がった息の呼吸だけが聞こえる。音葉は呼吸と早まった鼓動を落ち着かせる為に、ふーっと息を一つ付いて少しずつ目を開けていく。

 光に徐々に慣れてきた視界の先には、目を閉じる前とは違う光景が広がっていた。


「パチパチパチパチ!」

 

 拍手が鳴り響く。


「ヒューーーー!」


 口笛の音まで聞こえる。


「スッゲーーーーーー!」


「ヤバすぎ!」


「本当に同じ高二かよ」


「おい響、こりゃ違う意味でお前が惚れるわけだ」


「おう! うちの自慢のボーカルだ!」


「響、音葉ちゃんが固まっちゃってるよ」


 音葉の目の前には、窓から上半身を乗り出した野球部の人たちが集まっていた。そして、それぞれが音葉に言葉を投げかけている。母以外の人に生で自分の声を聞いてもらったのはいつ以来だろうか。

 多分、トラウマになってしまったミュージカルのオーディションが最後だ。

 何が起きたのか分からない音葉は、そんな事を考えながら感想をくれる人たちに返事もできず、ただぼーっと立っていることしかできなかった。


「お前に必要なのは経験と度胸だ!」


 不意に響がそう言い放った。


「どうだ。お前の声は十分すごいことが証明されただろ!」


 その響の言葉で音葉は自分の声が認められた気がした。熱いものがこみ上げる。

 あのオーディションの時に審査員、いや、自分自身が否定してしまった歌声が救われた。溢れ出した感情は止まることなく音葉の瞳から流れ出した。


「あー響が女の子泣かせた!」


「ダメ男だなー響は」


 男子たちが口々に響をからかう。


「違うの!」


 否定しなきゃと思った。ちゃんとこの気持ちを伝えなきゃと思った。


「ありがとうっ」


 音葉は溢れ出す涙を拭いながらそう言った。

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