第8話 決断

 一時間目の授業が終わり、休憩時間となった教室では授業から解き放たれた人達の話し声でざわめいていた。


「あー古典の授業だりー」


 そう言って、まだ重たい瞼を擦りながらあくびをする。


「響、もしかして昨日夜更かしした? 目の下にクマあるし。ゾンビにでもなるつもりなの?」


「さては彼女のこと考えてて眠れなかったとかか? 可愛いところあんな響くんは」


 友人二人が、響の周りの空いている席に腰掛け、安定のいじり加減で話しかけてくる。

 響はそんな二人に不満げに細めた目で視線を送りながら、自分の机の上で頬杖をつく。


「お前ら朝から俺を冷やかして楽しいか?」


「まー元気出せって! さっさと諦めて別の恋を探すんだな」


「おい律、こいつの誤解どうにかしろよ」


「あながち間違ってはいない助言だと思うよ」


「ぐっ……」


 きっと、どう抵抗しても二人には敵わないだろう。響はせめてもの抵抗を見せる為、二人から視線を外し窓を眺める。

 群青の空に、青々と茂り始めた銀杏の葉が視界を彩る。春が過ぎ、もう夏がすぐそこまで迫ってきていると響は感じた。


 季節は止まることなく過ぎていくのに、響の時はあの頃のまま止まっていた。

 しかし、自分の追い求めていた歌声をやっと見つけた今、その時が確実に走り出している。アイデアが止まることなく溢れ出してくるこの状況が、それを物語っていた。


(どうしてもあの歌声が欲しいんだよ……)


 自分の中から無限に湧いてくる強い感情と、上手くいかないもどかしさが響の心を掻き乱していた。

 友人二人が何かを言っているようだが、その言葉は聞こえてはいるものの、うまく頭の中に入ってこない。

 響は思わずため息を溢す。


「そんないじけるなって」


「いじけてねー」


 聞き取ることのできた言葉に、響は反射的にそう言い返す。


「あの子、結城さんだっけ? に、こだわらなくたってさ……って噂をすれば姫の登場だ!」


「そうやって俺を騙そうとしても無駄……えっ」


 響は目の前の光景に驚いた。

 律も、もう一人の友人も、後ろのドアに申し訳なさそうに立っている女子の姿を見ている。

 それは響が何回もある意味振られ続けた相手、結城音葉だった。

 一瞬周りの空気や音が止まったような感覚がしたが、すぐに周りの人たちが「あれが」、「噂の」、「何々泥沼的な?」などとヒソヒソ話す声が耳に届き、響は我に返る。

 きっと耳のいい音葉のことだ、しっかりその声が聞こえているはず。それに、クラスにいるほぼ全員の視線が小さな体に突き刺さっている。

 今にも震え出しそうな音葉の姿に、この状況を作ってしまった責任を感じ、響はちょっと申し訳なく思う。


「あの!」


 心地のいい声が鼓膜を揺さぶる。

 さっきまでクラスの空気を感じて萎縮していた音葉の体が、意を決したように前に歩みを進める。

 迷いのない足取りで、とうとう響の席までやって来た。

 周りの人たちも話すのをやめて、この出来事の行く末を固唾を飲んで見ている。


「どうした?」


 響は音葉に平常心を装って話しかけた。それもできるだけ優しく、少しでも緊張が解れる様に。

 きっと、こんな空気のクラスで注目される事を覚悟の上で音葉は現れた。なぜか目立つ事を避けている様子である音葉の事だ、リスクを負ってでも話したい大切な事があるのだろうとバカな頭でも容易に想像がつく。

 そして、ここに来る理由なんて一つしかない。音葉の決意を受け止めなければいけない。そのためにはちゃんと本人の言葉を聞きたい。響はそう考えた。

 だからあえて自分からはそれ以上は何も聞かず、黙って彼女を見つめた。それは周りの友人達も同じようで、彼らも何も発しなかった。


「私を……私をあなたのバンドのボーカルとしてメンバーに入れてください! お願いします」


 教室全体に響く声で音葉はそう言って頭を下げた。


「何回も誘ってもらって、断ってしまって……。ほんと、こんなこと言う資格はないと思ってる。私にそんな大役務まるのか自信もなかったし、他にも思うところが色々あって……。でもやっぱり私歌いたい! あなたの言っていたことは正しい。私はステージ上で歌ってみたいの!」


 力強い声だが、耳のいい響にはその声が微妙に震えている事が分かった。

 きっと、音葉は変化する事を決心し、怖がりながらも勇気を出して今この場所に立っている。


(自分もその覚悟に答える為に、全力を尽くさなきゃだな)


 響はそう心の中で思った。


「誰が資格がないって? 言ったよな、俺らにはお前の声が必要だって。そうだろ律!」


「うん。そうだね。結城さんが入ってくれるなら俺も大歓迎だよ」


「お前のステージ作ってやる! だからお前はその声を俺らの音楽と一緒に響かせろ!」


 音葉の足がガクッと崩れ、項垂れるようにその場に膝をついた。大きな瞳から、まるで天泣てんきゅうのように澄んだ涙をポロポロ零している。

 慌てて響が手を差し出す。差し出された手を見上げた音葉は、大粒の滴を頬に走らせたまま、満面の笑みを咲かせた。


「うんっ!」


 目を手で擦ってから彼女はそう答え、響の手をとって立ち上がった。

 野次馬となっていたクラスの生徒が「なーんだバンドの勧誘かよ」、「デマとかつまんない」そんな声を飛び交わせる。


「で、結城さんだっけ? 感動的なところ申し訳ないんだけど、もう予鈴なる時間だけど大丈夫か? 後、響もいつまで手にぎにぎしてんだよ」


「響はきっと離したくないんだよ」


「「なぁっ!」」


 まるでこの状況を楽しんでいて、おちょくっているような声が、二人の意識を現実に引き戻す。急いで手を離した響は、意地悪な友人二人の顔を恥ずかしさで赤く染まった顔のまま睨みつける。音葉は音葉で、授業が始まってしまう事に焦っているのか、響とは対照的に顔を青ざめていた。


「キーンコーン……カーンコーン…………」


 言われた側から予鈴が鳴り響く。


「やっば! 私行かないと!」


 音葉はそういって自分の教室に戻るべく足をドアへと向けた。そんな走り去っていく後ろ姿に、響は焦りながら声を掛ける。


「おっおい!」


「何? 私急いでるの!」


 不満げな顔で振り向いて立ち止まった彼女に響は伝える。


「今日の放課後、視聴覚室な!」


「わっわかった!」


 彼女は響の言葉に嬉しそうに笑いながら答え、手を振りながら響のクラスを後にした。


「授業始めるぞー」


 音葉と入れ違いで、前のドアから小太りの教師が入ってくる。

 苦手な古典の授業が始まる。しかし響の気分は窓の外に見える空ように晴々としていた。

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