第7話 母の夢

「ふぅー……」


 音葉は横開きの白いドアの前で息を吐いた。

 目を瞑ると様々な機械音、人が歩く足音、鼻をくすぐる消毒液の臭いを感じる。

 何回訪れた場所だろうと、音葉は毎回ここで足を止める。目の前のドアはとても冷たく感じ、軽い力で開くはずなのにまるでとても重いような圧を感じる。


(ここは何回来ても苦手だ)


 心の中でそう呟く。音葉の後ろを通りかかったピンク色のナース服を見に纏った人が、不思議なものを見るような目線を音葉に向けている。

 ここに止まっていると悪目立ちしかしないと思い、覚悟を決めて右手でドアをスライドさせた。


 中の部屋にはベットが六床あり、それぞれのスペースを分けるためにクリーム色のカーテンがその周りを囲っていた。

 音葉は真っ直ぐ部屋の中に入っていき、一番奥の窓側のベッドに迷わず向かう。


「ママ、入るよ? 今日の調子はどう?」


 そう声をかけた後、ベッドを囲っているカーテンを手で少しだけ開けた。

 今さっきまで寝ていただろう母は、すでに上半身を起こして微笑んでいた。

 いつもと変わらない笑顔。なのに、明らかに母の体はその力強い笑顔と不釣り合いなくらい痩せこけていて、音葉は目を逸らしたくなる衝動に駆られた。


 音葉の母は三年前に乳癌を患った。余命宣告も受けている。

 しかし、その事実を知った父は、母に余命宣告の事を秘密にしておく選択肢を選んだ。その選択が間違っているとは思わない。

 実際、母は治る可能性を励みに手術を受け、その後も放射線治療や抗癌剤の治療を頑張っていたし、ここ一ヶ月前までは治療をしながらも自宅で普段通り過ごしていた。音葉も母が余命わずかな人には到底見えなかったし、あれは何かの間違いではないのかと疑ったりもしていた。

 しかし、その選択が今になって音葉に牙をむき出すことになる。


 現実は突然急加速して押し寄せてきた。

 と言うのも、最近母が遂に入院したのだ。入院生活をし始めてから母は日に日に痩せていく。顔色も優れず、母の体調が悪化している事が音葉にも目に見えて分かった。

 そんな状況にもかかわらず、母は音葉の前では常に笑顔でいる。弱音も一切吐かない。今日も変わらぬ笑顔で笑っている。


「調子はいいよ。音葉は今日学校どうだった? 何か変わったことあった?」


 頭の中に見覚えのある男子二人の顔が浮かぶ。心の中で虫を払うかのように音葉はその情報をかき消す。


「えーっと。そんなことないはず」


 心当たりがガッツリあったがなんとか誤魔化す。無意識に右手で自分の髪の毛をワサワサと触る。

 そんな様子に本当かなーと言いたげな表情で母が見つめてくる。その視線に耐えられなくなった音葉は、自分のスマホをポケットから取り出し、画面を見せながらヒラヒラ動かして見せる。


「そんな顔してると新曲聞かせませんよーっだ」


 少し子供っぽく意地悪じみた声であっかんべをして見せた。そしてどうだと言わんばかりににやけて見せる。

 母も少し頬を膨らませ目を細めて対抗して見せたが、誘惑に負けたらしくため息を一つついて微笑んだ。


「意地悪に育ってしまったものね。誰に似たのかしら」


 そう言いながら両手の掌を上にして戯けて見せる。それはもちろん目の前のあなたに似たのではと音葉は心の中で呟いた。

 そんな娘の心の中を察したのか、母は意地悪っぽい笑顔を見せた。と思ったらいつもの笑顔に戻っている。時々音葉の気持ちを見透かしたような行動をとる母には、毎度ドキッとさせられる。

 しかし、本人はその後普通に別の話を振ってきたりするものだから、音葉はいつも拍子抜けしてしまう。


(策士なのか? それともただの天然なのか?)


「さてと、今日も聞かせて欲しいな、音葉。あなたの歌は私の一番の薬だから」


 母はこうやってお見舞いに来る音葉に毎回歌を聞きたいという。しかし、病室の中では歌うことは当然出来ない。

 そんな母のために、音葉は自分の歌を動画としてサイトにアップしておくようになった。母がいつでも聴けるようにと。


 始めた頃は視聴できる人を制限していたが、母が友人にも自慢したいから公開して欲しいと強く言った為、音葉は悩みぬいた末、動画を編集し身バレを防ぐことで一般公開することにした。

 が、思いの外視聴回数が伸び、今では現役女子高生シンガーとしてほんの少しだけ有名になっている。まさか、同じ学校でその動画を見ている人がいるとは思っていなかったが。


 今日もいつものルーティンで、動画をアップする前の新作を母に聴いてもらう。

 音葉は自分のスマホで音楽データの入っているアプリを起動させ、愛用しているヘッドホンを自分の首から外し、母に渡す。受け取った母がヘッドホンを耳に当てた事を確認し、自分の新作データを指でタップした。


 母は目を瞑りながら音葉の歌を真剣に聞き始める。どうやら曲が再生され始めたようだった。音葉はそれを確認すると、ベッドの隣に置いてあった面会者用の椅子に座った。

 聞き入っている母の様子を見て少しホッとする。この時間は音葉にとって救いの時間でもあった。


 母と話せる時間が限られていることは分かっている。

 しかし、母の変わっていく姿を目の前にして、普段通りの会話ができず、そのぎこちなさで母に死期が近づいていることを悟られないだろうか。もしくは母が自分の病状を聞いてくるのではないかと不安で仕方がない。

 余命宣告を本人に伝えないと決断してから、罪悪感と不安で心が締め付けられる日々を送っている。そしてそれは母の病状が悪化するに従って、より一層強くなっていた。

 母に歌を聞いてもらっている時は会話に気を遣う心配がない。だからいつも通りの流れに今日も安心する。


 隣で幸せそうに聴いている母の体は、リズムをとっているのか左右に少しだけ揺れ動く。そんな姿を見ているだけで音葉は十分幸せな時間を感じる。


 母は音葉を生む前まで、ミュージカルダンサーだった。某テーマパークで踊ったり、有名ミュージカルにも出演していた。

 独特の声とキャラクターですごく重宝されていたと、母の昔の舞台仲間はよく音葉にその時の話をしてくれた。


 そんな母が音葉に歌やダンスを習わせる事は必然だった。ダンスも歌もどちらも好きだったが、初めてのミュージカルオーディションで挫折し、ダンスを辞め、人前で歌う事が怖くなった。それでも歌う事からはどうしても離れられなかった。

 そんな折、母の病気が発覚して家のことでバタバタし始め、母と同じミュージカルの道に進む事は諦めた。

 今は完全に母の為と、自己満足のために歌っているだけだ。


「音葉。今回の曲も感情が豊かですごく良かったよ。ママ感動しちゃった」


「それは言い過ぎだって。そもそもそんな感動するような内容の曲じゃないんだけども」


 母のちょっと過剰な称賛に照れを隠すように、音葉は右手で自分の髪の毛をワサワサと触る。

 そんな姿を見てなぜか母は笑っている。何が面白かったのだろうかと首を傾げる音葉に、母は一言「分かりやすい子ね」と言って微笑む。


「音葉はいつか大きな舞台で歌ってみたい?」


 その問いに自分が大勢の前で歌っている姿を思い浮かべてみる。

 目の前を取り囲むたくさんの人達が、皆目を輝かせている。音葉はそんな群衆の前の一段高いステージに立っていて、今にも飛べそうな気分でなんだか気持ちがいい。

 いつもは想像してもそんな臨場感を味わえないのに、今日ははっきりと思い浮かべられた。それはきっと、その瞬間を手に入れられるチャンスが目の前にあるということを知ってしまったからだろう。


 すごく惹かれる。こんな場所に憧れる。強くそう思った。

 と同時にその分残り少ない母との時間を削らなくてはいけないという現実を見つめ返す。音葉はできるだけ母との時間を作るために、部活にも入らず、友人と言う友人も作らず過ごそうと決めていた。


(私はどうすればいいの……)


 揺れ動く自分の心をどうしたら落ち着かせることができるのか、音葉は困り果てていた。


「いつか音葉が生歌を披露して、それをその場で直に聞くのが私の夢であり、目標!」


 隣の母が突然元気よくそう言った。急な告白に驚き、母の顔をまじまじと見る。

 見つめ続ける音葉の瞳に、母は真剣な眼差しで答える。数十秒、いや数秒だったかもしれない。だが体感的は数分あったように感じた。

 母の言葉に深い意味はないはず。しかし、音葉の悩んでいることとあまりにもタイミングが良すぎて驚きが止まらない。

そんな音葉の様子に、母は少し申し訳なさそうに子供じみた声で


「そんなに困らせるとは思わなかったよ。そうだよね、こんな夢急に言われても困るよね、ごめん」


と、苦笑いを溢しながら言った。


「そんなことない! そんな夢があるなら早く言ってよ。ママの夢は私の夢! 私も大勢の人の前で歌ってみたい。だから、一緒にその夢叶えよう!」


 音葉は右手でガッツポーズをした後に、その拳を母の前に持っていく。母は涙ぐませながら、自分のか細い真っ白な拳を音葉の拳にしっかりと当ててきた。その感触に、音葉は母の思いをしっかりと受け止めた。


 その後、面会時間の終わりが来るまで、音葉は変なバンドメンバーの男子二人について母に話した。今までは何を話すか悩んで、不安で、一つ一つの言葉に注意を払って話していた。

 だけど、今は話したいことが止まらない。久々の普通に純粋な親子の会話。とても幸せな時間だった。


 本当はお出かけや美味しいものを食べて、いろんな話をして一緒に過ごしたい。だけど、母がいなくなった世界を考えたら、側でこうやって過ごせているだけで幸せなのだと音葉は思う。

 

(神様、多くを望まないので、どうかこの時間を奪わないでください)


 音葉は心からそう願った。

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