第45話 騎士たちの黄昏

 日が暮れて、辺りに宵闇と静けさが押し寄せてくる。白い息を吐きながら木陰を覗き込んでいたベオルフは、背後に足音を聞き取って顔を上げた。

 「何だ、エーリッヒか」

 「何だじゃありませんよ。随分探したんですよ」

同じように白い息を吐きながら近づいてきた青年は、ベオルフから数歩離れたところで足を止め、暗がりに沈む石畳の上に視線をやった。洗い落とされてはいるものの、所々に黒ずんだ血の跡がこびりついている。

 そこには、まだ一日も経っていない生々しい死の痕跡が残されていた。

 「――セルゲイの遺体に会って来たんです。あの人、娘さんと二人暮らしだったんですね。娘さんだっていう人が…かわいそうなくらい取り乱してて」

騎士の家族なら、任務中に不慮の事故で死ぬことは覚悟しているものだ。だが、それでも何も感じずにいることは難しい。まして、今回のような死に方では。

 「傷は正面からでした。ですが、真正面ではなく少し斜め方向から…」

エーリッヒは、ちらりとベオルフの見ていた茂みのほうに視線をやる。

 「ベオルフさんも、それを確かめに来たんですね?」

 「ああ。あいつほどの熟練者が、何の抵抗もなくやられるとは思えんからな」

だが茂みは浅く、木々が数本固まって立っている程度のものだ。死角はあるが、人が気取られずに武器を抱えて隠れていられるほどの深さはない。


 ベオルフは、溜息とともに灰色にどんよりと帳を下ろした空を見上げた。ちらちらと、細かな白い粒が舞い始めている。周囲には人通りもなく、雪のせいか、不気味なほど静まり返っていた。

 「これで二人…、何か手がかりだけでもつかめればいいんだが。」

 「この件は緘口令が敷かれているはずですが、町では、既に噂になり始めているようです」

 「噂?」 

 「近衛騎士が次々に殺されているらしい、と…。最強の騎士などというのはただの誇張で、実際は大したことはない、と。」

 「ははっ、そいつは愉快な噂じゃないか、え?」

口元だけは笑いながら、目と口調はちっとも楽しそうでは無い。彼は、じろりとエーリッヒのほうに鋭い視線を向ける。

 「――で、その噂。何処のどいつが流してるのか、調査はしてるんだろうな」

 「勿論です。ただ、出所は複数あるようです。突き止められたうちの一人は行商人で、既に町を去ったあとのようでした」

 「行商人…か」

二年前の建国祭。あの時、国王と王子たちを襲撃し、自爆した犯人もまた、行商人を名乗っていた。

 「…目的はわかりません。ただ、この犯行が我々、”国王を守る剣”への挑戦であることは明白です。噂など、事実をもってすれば覆せる。」

そう言って、エーリッヒは真剣な瞳をベオルフに向けた。

 「犯人が何者であれ、あなたが捕まえれば全ては収まるんです。近衛騎士”最強”の男と言われる貴方だけには、何があっても倒れてもらうわけにはいかない。」

 「はっ、望むところだ。だが、お前も来たってことは、オレ一人じゃ信用できないってわけだな?」

 「貴方には、死んで貰いたくありせんので。」

一瞬、ベオルフの表情が強張った。数日前、同じような台詞を聞いたばかりのような気がしたのだ。


 だが、ややあって、彼の表情が緩んでゆく。――誰に言われたのかを思い出したのだ。

 「イヴァンと同じことをいうんだな。」

 「ああ、彼なら言いそうですね。彼も騎士ではありませんから」

いつもの澄ました表情のまま、エーリッヒは、視線を通りの方向へと向けた。

 「気づいてないかもしれませんが…こう言っては失礼ですが、ベオルフ殿は、強いから心配なんです。人一倍”騎士道”にこだわりがあるから」

言いながら、彼の手は肩のあたりの弓弦にかかっている。騎士としての勤務中は剣だけを帯びているが、普段、何もないときは、エーリッヒは弓矢を常に携帯する。

 彼は元々、弓兵だった。剣術の腕前も人並以上ではあるが、近衛騎士の条件はおまけつきで満たしているに過ぎなかった。

 「お前が近衛騎士になってから、もう五年か」

 「もう、というか、”まだ”ですね。私にとっては」

 湖の別荘で二人の王子たちが襲われた、あの暗殺未遂事件の時、いち早く危険を察知して王子たちを連れて近くの森へと逃げこんだのが、当時見習い兵だったエーリッヒだった。

 まだ刀礼を受けておらず、帯剣も許されていなかった見習い兵が身につけていたのは、短剣と狩猟用の弓矢のみ。たったそれだけの武器で、当時はようやく十を過ぎたばかりでしかなかった彼は、同じように幼かったシグルズとスヴェインを一晩守った。その功績と忠誠を讃えられて――そして類稀な弓術の才能を買われて、地位を得たのだ。

 「あの”竜の爪”なるものが一般的になれば、これも無用の長物になりますね」

そう言って、エーリッヒは静かに弓に指を滑らせた。

 「ただ、そうなる前に勝負してみたい気もします。もし本当に、ミハイルやセルゲイを殺したものがそれならば、ですが。」

言ってから、彼はすぐに口の端をわずかに吊り上げる。「冗談ですよ。」


 冗談とは思えなかったが、ベオルフは敢えて何も言わなかった。

 エーリッヒとイヴァンは、ある意味で良く似ている。どちらも辺境伯家の出身。そして、田舎者の新興貴族と蔑まれようが、人に何と思われようが気にも留めない図太さを持っている。

 肩書きや使命よりも己の信じるものを優先する。そしてエーリッヒもまた、イヴァンと同じで「勝てない戦いはしない」性格だった。

 理由があれば、どんなに無茶でも、相手が何者でも向かっていくくせに、それ以外の時は肩書きも立場も気に掛けず、あっさりと退く。

 「少し、その辺りを見て回って来ます。」

そう言い残して、エーリッヒは粉雪の舞い散る通りの向こうへと歩き出した。辺りはもうすっかり暗くなり、街灯の灯が滲んで見える。体の芯まで冷えてしまいそうで、一度家に戻るべきかどうか彼は思案していた。

 まさか、連続して事件が起きるとは思っていない。だが、どうしても何かが気になり、去りがたく感じていた。

 (二人を殺った犯人は、まだこの町の中にいる――)

姿の見えない敵。民衆の中にいる得体の知れない存在。微かな苛立ちと胸騒ぎ。

 なぜこんなにも胸の奥が騒ぐのか、なぜエーリッヒにさえ微かな苛立ちを覚えているのか、それはベオルフ自身にも分からなかった。


 薄暗い通りの奥から、足音が響いてくる。

 それとなく視線をやったベオルフは、町のほうから寒そうに背を丸めてやってくる二人連れの少女たちの姿を見とめた。姉妹だろうか、良く似た顔立ちをしている。

 かじかんだ手に息を吹きかけていた、幼いほうの少女は、通りに立つベオルフを見つけると、はっとした顔になって慌てて年かさの少女の後ろに隠れようとする。年かさの少女のほうは、笑って「こんにちは」と小さく言った。ベオルフは、小さく頷いて視線を元に戻した。

 たぶん、王宮の下働きだろう。

 こんな遅い時間から仕事に出るとも思えないが、昼間の仕事で、何か忘れ物でもしたのか――

 「?!」

微かな異臭が鼻孔をくすぐった。反射的に、振り返ろうと体をひねった。それが、紙一重となった。

 パン、という乾いた音。

 焼け付くような痛みがわき腹を走り、ベオルフはとっさに剣に手をかけた。

 だが、周囲に期待した敵はいなかった。

 「…な」

武器を構えながら振り返った彼の目の前にいたのは、さっきの姉妹だ。年かさの少女のほうが手にした筒の先から、細く白い湯気が立ち上っている。

 少女は軽く眉をひそめただけで、手にした筒を足元に投げ捨てると、隣の幼い少女が差し出した次の筒を取り上げ、落ち着いた様子で胸の前に構えた。

 やられる、と思った。

 どうしてそう思ったのか、その時は分からなかった。距離はほとんどない。普段の彼なら、相手が動くより早く、腕を切り落とすことだって出来たはずだった。それなのに――


 目の前を、白い矢羽の軌跡が真っ直ぐに過ぎったのは、その時だった。

 どっ、という重たい音。遅れて、少女がうめき声を上げ腕を押さえるのと、筒が石畳の上に転がる乾いた音とが響く。

 「おねえちゃん!」

 「拾って、早く」

少女は、隣の幼い少女に命じる。

 「殺して。あんたももう使えるでしょう」

 驚いたことに、幼い少女は小さく頷いて言われたとおりに筒を拾い上げた。そして、覚束ない手つきながら、ベオルフのほうを狙おうとする。

 「止めろ…」

殺されるぞ、と言おうとした。

 矢が、二人目の少女の手を射抜く。

 「あうっ」

 「やめろ、エーリッヒ! 相手は子供だぞ」

 「だから何です?」

後ろから声がした。振り返ると、油断なく次の矢を番えたエーリッヒが直ぐ側の木陰に立っていた。

 薄青い色の瞳が、今宵はいつにも増して冷たく感じる。だが、彼の吐く白い息は間違いなく熱い。

 「貴方を殺そうとしたんですよ、この子たちは。警戒用の呼子を吹いて下さい」

 「だが、まだ子供だ…」

 「ミハイルとセルゲイを殺したんです。子供だから何なんです?」

 「……。」

 「早く呼子を吹いてくれませんか。こっちは両手が塞がってるんです」

ベオルフは、唇を噛んで気持ちを切り替えた。分かっている、エーリッヒの言っていることのほうが正しいのだ。

 血に汚れた手でマントの下から、首に提げている呼子を探り出し、口に咥えて吹き鳴らす。響き渡る甲高い音。すぐに近隣の警備兵が駆けつけてくるだろう。

 彼は、目の前で腕を押さえ、血にまみれて身を寄せ合って震えている少女たちを見下ろした。

 何の変哲もない、ごく普通の少女たち。――殺意もなく、怒りもない。だが、確かに彼女たちは、たった今まで、彼の命を狙っていた暗殺者なのだ。




 ティアーナから手紙が届いたのは、それから数日経った後のことだった。

 中身はクローナでのこと、事件を聞きつけたアルヴィスが王都に向かう予定だということ。ベオルフの身を案じている鉄板的な内容だけで、怪我のことには触れていなかった。

 ベオルフは、少なからずほっとした。王都からの知らせが北の果てのクローナへ届くには数日かかる。雪の降るこの季節に往復するとなれば、返事が届くのは、どんなに早くても一週間後だ。いずれ知られるにしても、それは傷が治ってからのほうがいい。

 「兄さんも気をつけてね、…か。ったく、どいつもこいつも、オレの心配ばかり」

口元に笑みを浮かべながら、だが、取り越し苦労だと笑い飛ばすことは今は出来なかった。寝台の上に横たわったまま、ベオルフは、包帯の巻かれた、わき腹に手をやった。

 傷は深くはなかったが、少しずれていたら致命傷になっていた可能性もあるという。

 あの時、風向きで一瞬早く気づかなかったら…クロン鉱石の臭気に覚えが無かったら、弾を避けそこねて、ベオルフも命を落としていたかもしれないのだ。




 「あの子たちは、ジラード侯の養女たちだそうだ。あの王都前の戦いで傷を負い、のちに死亡した反乱貴族の一人」

事件の後、見舞いに来たシグルズがそう言っていた。

 「目的は敵討ち。従者から、養父は”剣に金と銀を織り合わせた飾りをつけた騎士に殺された”と告げられていたそうだ。それで近衛騎士ばかりを襲っていたんだろう」

 「焚きつけたのは何者です? 奴らの残党がいるんですか」

 「それはこれから調べる。あの子たちはなかなか口が固くてね。今は、恩人の敵を討てなくなったことを哀しんでばかりいる」

 「……。」

言葉を失っているベオルフを見て、青年王は苦笑する。

 「気持ちは分かる。だが、その情けがお前の命取りだよ」

 「今回のことは…失態です。言い訳のしようもありません」

 「責めているわけじゃない。お前の情の厚さは良いところだ――ただ、弱みにもなる、ということだ」

ベッドの端に畏まって腰掛けているベオルフの脇をゆっくり窓に向かって歩いていくと、シグルズは、薄いカーテンの向こうに見えている”学者の小路”の通りに目を向けた。

 昼間の通りは、町の住宅街と同じように賑やかで、子供たちが通りで騒ぎ、主婦たちが雑談に花を咲かせている。

 「手を出せなかったのは、相手が子供だったからだろう?」

 「……。」

 「”騎士道精神”の制約だな。分かりやすい武器を手に殺気だって襲い掛かってくる相手には無敵でも、殺気もなくただ棒を手にしているだけの女子供には手を出せない。あの子たちは、自分たちが人殺しをしている感覚は無かったようだった。ただ、教えられたとおり道具を使っただけなんだ。それでも、人が殺せてしまう。

 …”竜の爪”はそれを可能にする武器だ。そういう時代になったんだ。時代が変わるなら、精神もまた変わるべきかもしれない。お前には認めがたいかもしれないがな」

ベオルフは頭を垂れ、低く呟いた。

 「…善処します。」

近衛騎士の使命は、国王とその家族を守ること。その使命のために、かつて自分が信じていた道、正々堂々と戦い、弱き者には剣を向けないという精神を変えなければならない。

 (もしも狙われたのがシグルズ様だったら、オレはあの時、あの子たちを殺せただろうか?)

シグルズが王宮へ帰っていったあと、ベオルフは何度も自問した。

 答えは出なかった。いつもと同じように、簡単に少女たちを射抜いて見せたエーリッヒの迷い無き瞳は、彼には理解しがたく、どこか恐ろしくさえあった。


 だが、本当は、エーリッヒの態度のほうが正解なのだ。

 向かって来る者は、何者であろうとも倒す。

 殺意があろうと無かろうと、剣を持っていようといまいと、気の向く戦いだろうとそうでなかろうと、誰かに命じられたものであろうとなかろうと…。


 わき腹に疼く微かな痛みとともに、彼は過ぎ去り行く騎士の栄光の時代を感じ取っていた。 

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