第43話 二年後、冬


 「…なんてことだ」

誰の口からともなく、小さな溜息が漏れる。

 どこか遠くで犬の吼える声が聞こえる。それ以外は静まり返った、薄雲の流れる夜だった。

 北門と呼ばれる王宮の通用口の前に息を呑んで立ち尽くすのは、十人ばかりの男たち。七人は警備の兵、一人は現場を目撃して通報して来た”学者の小路”住みの王宮勤めの役人。残る二人は、取るものも取りあえず駆けつけて来た近衛騎士たちだった。

 ベオルフは唇を噛んだまま、自分の肩にあったマントを乱暴に剥ぎ取ると、どす黒い池の中に横たわる仲間の近衛騎士の体を覆うように被せた。真っ白なマントは、あっという間に血の色に染め上げられていく。

 (ついに、この日が来た…か。思っていたより、早かったな)

声もなく、彼は呟いて腰の剣に手をかける。

 王国騎士団の最高峰に位置する、近衛騎士の一人。

 それが、名も無き一般人の手にかかって成すすべもなく斃れた。

 ――それまで知られていなかった、クロン鉱石を使用した武器の存在が世の明るみに出てから二年が経った。

 いつか来るだろうとクローナ公アルヴィスが予言した日は、あまりに性急に、誰もが予想した以上の早さで、王宮の心臓部である王都リーデンハイゼルへと到着したのだった。




 冷たい風に、イヴァンは思わず襟を立てた。

 「もうすぐ春だってのに、寒いなー今年は」

 「そうだな。王都でも雪が降るかもしれないらしい」

隣を歩くアステルも、イヴァンほどでは無いが寒そうに上着の裾を寄せ白い息を吐く。今年最後の授業は午前中で終わり、明日からはしばしのお休み。生徒たちはそれぞれに、帰郷したり、王都で休暇を楽しんだり、春からの生活の準備を始めたりするために散っていった。

 最終学年に達した彼らにとって、残る心残りは卒業試験の成否だけだが、それは今までに受けてきた進級試験に比べれば、大したものでは無いことが分かっている。やるべきことを終えた今は、気楽なものだった。

 「落第もせず、なんとか生き残れたな」

 「ああ。」

この学校に来て三年。試験が終われば春には卒業だ。

 そしてこの季節は、騎士学校の生徒たちにとっては、進路決定の時期でもある。


 通常は卒業試験の結果とともに進路が決まるのだが、今年は、既に試験前に進路が決まっている生徒も少なからずいる。

 というのも、二年前の事件以降、仕官の条件が厳しくなり、反逆した貴族たちの側についたことのある家や、親族が参加した者は、重要な官職からは外されるようになったからだ。

 お陰で騎士団も役場も人手不足の売り手市場で、ここ数年、騎士学校の卒業生は、在学中に特に問題を起こしていなければ、殆どが希望の職場に就けるほどの好景気だった。

 「そういやお前、結局、騎士団に入ることにしたんだったよな」

 「ああ。」と、アステル。「…父は喜んでくれた。最も、こんな低い敷居じゃ喜ぶ気にもなれないが」

 「何だよ、素直に喜んどけって。お前なら人手不足の時じゃなくたって普通に合格してたさ。エデルだって」

 「あっちは大変そうだけどな」

アステルは、ちらりと広場の向こうに立つ白い庁舎に眼をやった。

 今日も学校が終わるなり大慌てで出かけていったエデルが駆け込んだのは、そこのはずだ。会計監査院の建物だが、彼は、今年から新設される特殊な部署に配属される予定になっていた。年末のお休みも、ずっとそこで勉強漬けになるという話だった。

 「確かに大変そうだよな。就職前から勉強させられるなんてさー」

他人事のようなイヴァンに、アステルは呆れ顔だ。

 「…その仕事、お前が推薦人だって聞いたが」

 「ん? まぁな。会計が得意で成績のいい、口の固そうな信用できる奴が欲しいって言われたから紹介しただけだぜ。」

 「あの戦争で使われた武器を摘発するのが仕事だとか?」

 「そうらしいな。ま、でも表向きは一般の税務官吏ってことになるらしいから、そっちの勉強なんだろうな。お、ちょうど馬車が着いてるぞ」

白い息を吐きながら、イヴァンは乗合馬車の待ち合わせ場所に足を止めた。振り返って、アステルのほうを見る。

 「お前もこれに乗るんだろ?」

 「ああ、――っていうか、本当についてくる気か」

 「同じ方向なんだ、いいだろ? 途中まで一緒の道だしさ」

溜息をついて、アステルは四頭立ての質素な乗合馬車を見上げた。

 王都の東にある自宅に戻る時はいつも使っている馬車。

 休みには自宅に戻る、と言ったアステルの話を聞いて、途中まで道は同じだから一緒に行くと言い出したのは、いつものことながらイヴァンのほうだった。そして、明確に断る理由もなく、いつもの如く押し切られて今に至る。

 「実家に戻る奴が多いのに、女の家に行くとか…」

 「俺ん家は西の端だし、とても十日やそこらで往復出来る距離じゃねぇよ。それに今は、ナタリアに会いたいんだ」

笑いながら、イヴァンは先に席に乗り込んでいく。

 ナタリア、というのは、かつて反乱貴族側についた一人であるネイリス子爵の娘のことだ。アステルも一度会ったことがある。イヴァンやアステルよりは幾つか年上で、美人だがどこか芯の強そうな少女だった。あの事件の後も頻繁に連絡を取り合っていたのは、彼も知るところだった。

 「どこが良いんだ、あの子の。」

足元に荷物を置いて、隣の席に腰を降ろしながらアステルは何気なく尋ねる。

 「んー…なんだろうな。夏に家に戻った時に親父に言われたんだけど、もしかしたら、おふくろに似てたからなのかも」

 「おふく…お前のお母さんか?」

 「そう。俺の母親は、俺がまだガキの頃にお産で死んじまってさ、ほとんど覚えて無いんだ。けど、菓子を焼くのが巧かったって聞いてる。俺はそれが好きだったらしいんだけど…今じゃどんな味だったのかも覚えてない。けど、ナタリアがパイとか菓子とか焼いてるの見てると、なんていうか、確かに懐かしいような感じがする」

 「……。」

アステルは、思わず赤くなって顔を背けた。

 「聞くんじゃなかった。聞いててこっちが恥ずかしくなる」

 「あっ、何だよ。自分から話を振っといて!」

 「ていうか、親にはもう、付き合ってることは言ってあるのか? お父上は…サーレ伯は何て」

 「好きにしろってさ。ま、無責任なことをしないなら良いって。指輪を渡しにいくつもりなんだ。気に入って貰えるといいんだけどな」

イヴァンは、実にあっけらかんとした調子だ。

 「伯爵家の跡取りの話だってのに…、ほんと変わってるよ、お前ん家は…」

呆れた様子のアステルが背もたれに体をもたせかけるのと同時に、御者が大声で出発を告げた。

 馬車は微かに軋んで動き始める。二十人は乗れるはずの大型の馬車だが、乗っているのはほんの五人ほどだ。途中の町や村に寄って乗客を乗り降りさせていくから、始発の王都ではこんなものなのだろうか。

 馬車は広場をぐるりと周り、かるく揺れながら崖を降りる綴れ折りの道へと差し掛かる。出て行く人の列とは裏腹に、逆側の入ろうとする列は大混雑で、馬車は一台ずつ天井から座席の下まで調べられ、個人も馬から下ろされて荷物の中身を細かく調べられている。


 理由ははっきりしている。

 先日の、近衛騎士の殺害事件のせいで、王都への持ち込み物が厳しく監視されているのだ。


 「異常なし! よし、通っていいぞ」

馬車が動き出す。さっきまでの和んだ表情は消え、二人とも、まじめな表情になっていた。

 「ご禁制の武器、――か。まさか、近衛騎士が殺されるとはな」

 「予想出来なかったわけじゃない。ただ、それが早過ぎたってだけだ」

イヴァンは呟いた。

 いつかは、あの兵器が当たり前のように使われる日が来るかもしれない、と、アルヴィスは言っていた。そのために研究しておく、と――。

 彼の予測は正しかったのだ。

 そしておそらく、今となっては、アルヴィスの言っていた「もしものための備え」こそ、この事態を切り開くためのかなめとなっているはずなのだった。


 事件のあと、ほどなくして国王は全国民に、”製造・所持が禁止”される新たな品目を布告した。つまり、クロン鉱石と、それを利用した武器の存在が国民全体に明らかにされたのだ。

 それ自体は、臨時に開かれた前回の総会議で決定された内容で、元々予定はされていた。ただ、公表の時期が予定より半年ほど早められた。

 その準備不足による影響の一つが、この王都前の大渋滞というわけだ。

 「エデルの入る部署の稼動は、春からだったな?」

 「予定ではな。ま、今も何人かは先に活動してるらしいけど。エデルが冬休み返上になってんのも、卒業と同時に前線に立たせたい偉い人の意向だろうな。俺も卒業したら働かなきゃだな。はー、面倒くさい」

 「お前のほうは…まだ楽だろ?」

イヴァンは卒業後、リンドガルトとの橋渡し役として正式な任を与えられ、西方と行き来する予定になっている。

 「楽なもんか。全権くれるっつったって、要するに丸投げだぜ? 自分でどうするか決めなきゃならないし」

 「得意だろ、そういうのは」

 「まぁ、…うん」

ちょっと天井を見上げてから、イヴァンは、ちらりと隣のアステルに視線をやる。彼は王都を発ってからずっと、きちんと椅子に座ったまま、くつろいだ様子もない。

 彼はいつもそうだった。人前では、決してだらしない格好をしない。それは一種の才能であり、おそらくは、育ってきた環境から来るものなのだろう。

 「…学校にいた三年間って、長いみたいで短かったな。」

 「そうだな。」

 「卒業して西へ行ったら、しばらくは戻って来れない。お前らと毎日顔突き合わせてられんのも、あとちょっとか」

 「そう、いつまでもつるんでてもしょうがないだろう。ま、どうせまた会うこともあるさ。オレは王都勤めだからな」

ぶっきらぼうに言って、アステルはそれきり口を閉ざした。

 寂しくないと言えば嘘になる。だが、それを口に出して認めるのも癪だった。彼には良く分かっていた。もしもイヴァンと出会って居なかったら、そして二年前のあの事件が無かったら、今の自分はここにいないだろう、と。




 乗り合い馬車は街道沿いの幾つかの町を巡り、何人もの乗客が乗っては降りていく。

 順調に見えた乗合馬車の旅が突然止められたのは、王都から二日ほど行ったところにある街道沿いの村に辿り着いたあたりだった。予定にはない停車場だった。現われた御者は、申し訳無さそうに乗客たちを見回した。

 「すいませんね、お客さんがた。ここから先は雪が積もってるらしくて、行けるのはここまでです。街道はまだ雪かきが済んでなくて大きな馬車は進めないらしい」

 「マジかよ、あとちょっとなのに」イヴァンが身を乗り出す。「他に、この先に行く方法は?」

 「幅の狭い馬車か、馬に直接乗っていくんなら大丈夫だと思いますが…。」

 「馬かぁ。このへんで、馬を貸してくれそうなとこはあるかな…」

 「心当たりならある」

イヴァンの脇を通り過ぎて先に馬車を降りながら、アステルが言う。「ついて来い」

 荷物を抱えて馬車を降りると、積もったばかりの白い雪にブーツがくるぶしまで埋まり、イヴァンはぎょっとして思わず靴の裏を見る。

 「どうした」

 「いや、足元が妙な感じで…。こんなに雪が積もってるのを見るのは初めてだな」

 「そうか、西のほうは降らないんだったな。こっちは、ごく稀に積もることもある」

歩き出すと、足跡が点々と雪の上に刻まれていく。不思議なことに、降り出す前はあんなに寒かったのに、今はそれほどでもない。

 「ついて来い。案内する」

白い息を吐いて先を歩きながら、アステルが言う。

 「本当は次の停車場で降りるつもりだったんだが。まぁ、ここからでも歩けなくはない」

 「良く知ってんのか、このへんのこと」

 「ああ。うちの近所だし、昔、父さんが世話になってたこともある貴族の領地だったとこさ」

 「…成る程」

二年前の事件の後、没収された旧貴族領は王家の直轄地となったが、見た目や住民の暮らしが大きく変わったわけではない。通り過ぎるだけなら、特段何かに気づくこともないだろう。何かが変わったことを知っているのは、アステルのような、近隣に昔から住んでいる者たちだけだ。


 降ったり止んだりを繰り返す雪の中、アステルは黙々と田舎道を歩き続ける。何の目印もなく、あるのは既に通った誰かの荷馬車のつけた轍の跡と、うっすらとついた地面の凹凸で分かる道の境界くらいだ。轍の上を踏んで歩くブーツは、溶けた雪と泥で見る見る汚れ、冷たく湿っていく。

 「はあ、靴下までびっしょりだな」

イヴァンが呟くと、それまで黙っていたアステルが、ぽつりと呟いた。

 「家に着いたら、母さんに乾かしてもらわなきゃ」

 「母さん? え、ちょっと待てよ。この道って、お前ん家に行く道なのか?」

 「ああ。馬を借りたいんだろ?」まるで当然のような顔をして、彼は振り返る。「うちに一頭いる。冬は使ってないはずだから貸してやれる。」

 「そうなのか、なんか悪いな。」

 「――ああ、そうだ。それと、」

足を止め、アステルは、イヴァンが追いついてくるのを待った。

 「お前が辺境伯家の出だったてことは、なるべく隠しといてくれ」

 「何で…あ、そうか」

尋ねかけて、イヴァンも思い出した。

 アステルの父親は雇われの騎士で、よく雇われていた近隣の領主は国王に退位を迫った側の貴族だと言っていた。結局、二年前のあの戦には加わってはいなかったらしいが、立場敵にはイヴァンとは敵対する側だったはずなのだ。

 「わざわざ言わないほうがいいか。俺のことは、適当に紹介しといてくれ」

 「ああ」

それに、と言葉に出さずにアステルは心の中で呟く。友達のことを、爵位や家名で判断されたくない。




 行く手に、こぢんまりとした可愛らしい家が見えてくるまで、そう時間は掛からなかった。

 木立の向こうに建つその家は、イヴァンからすると、家族が暮らす家にしてはあまりにも小さすぎるような気がした。

 雪で真っ白に埋もれてはいるが、家の周りは畑になっているようだった。その中に、ぽつり、ぽつりと幾つかの家が建ち並び、凍りついた河辺には水車小屋がある。

 積もった雪を押しやって凍りついた垣根の門を押し開くと、アステルは、家の前の小さな庭に足跡をつけながら横切っていく。

 窓から外を覗いていた小さな人影が勢い良く引っ込んでいく。アステルが扉に手をかけようとするのと、その扉が中から開いて少女が勢い良く飛び出してくるのとは、ほぼ同時。

 「兄さまぁ! おかえりなさいっ」

 「わ、ゲルダ…」

アステルは、転ばないよう足をふんばりながら両手で少女の体を受け止める。十歳くらいだろうか、くりくりとした瞳の可愛らしい少女は、思わず微笑んでしまうほどアステルにそっくりだ。手製らしいヘアバンドをつけ、裾の長いワンピースを着ている。

 「手が冷たい! お外寒かった?」

 「寒かったよ。だから話は中に入ってからだ。それと、友達も一緒だから母さんに」

ぱっと顔を上げた少女は、イヴァンを見つけて真っ赤になった。慌てて兄の体から離れると、恥ずかしそうに両手を体の後ろに隠した。

 「ご――ごめんなさい。ええっと、は、はじめまして…」

 「それも中に入ってからだ。」

妹の頭をぽんと叩いて、アステルは家の中へ入っていく。少女は、もじもじしながら、長い髪を勢い良く振り広げて兄の後を追った。

 家の中からは暖かな空気と明るい光が漏れてくる。玄関はきちんと整えられ、狭いなりに整頓され、こまやかな飾りつけがされている。家の女主人が立派な仕事をしている証拠だ。


 入ったところは居間と食堂を兼ねた部屋になっていた。奥のほうに暖炉がある。

 先に入ったアステルは、奥の台所の前で母親らしき女性と話しているところだった。振り返って、彼は尋ねた。

 「イヴァン、今からだと次の町は難しそうだから今夜泊まって行くか?」

 「そりゃ、邪魔じゃなきゃ在り難いけど――」

 「もちろん邪魔なんかじゃないですよ。この子のお友達なら大歓迎」

そう言って、アステルの母親がイヴァンに笑顔を見せた。少し丸みを帯びた体つきをしていて、とても優しそうな女性だ。

 さっきのゲルダという少女は、母親の後ろに隠れるようにして、エプロンの端を掴んだままイヴァンのほうをちらちらと伺っている。

 「父さんは?」

 「雪かきを手伝いに行ってるの。夕飯には戻るはずよ、何しろ急に雪が降り出したもんだからねぇ。―-あ、濡れたものは暖炉のそばに吊るして頂戴。ブーツと靴下はひっくり返してね」

 「こいつに馬を貸したいんだけど、使える?」

 「ええ。でも父さんが戻ってから聞いたほうがいいわね。――ゲルダ、こっちへ来て手伝って頂戴」

 「はぁい」

和やかな家庭の雰囲気。暖かな空気が、外の寒さで強張った体をほぐしていく。暖炉の側に荷物を降ろし、濡れたものを脱いでソファで一息ついていると、アステルの母親が盆にカップを載せて戻ってきた。

 「暖かいお茶が入りましたよ」

 「ありがとうございます」

ハーブティーだろうか、変わった香りのするお茶がカップの中に揺れている。

 「イヴァンさんも、こちらに家があるの?」

 「いや、家は真逆。ちょっとした――まあ、親戚みたいな人の家に行くところで」

 「そうなんですね。急な雪で難儀されたでしょう。明日には止むといいんですけれど…あ、お食事、もうすぐ出来ますからね」

上品な笑みとともに彼女が去っていくのとほぼ同時に、戸口のほうで声がした。

 「ただいま」

 「あ、父さまだ!」

奥の台所にいた少女が、まるで子リスのように玄関へと駆け出していく。今度も、扉が開くのとほぼ同時に、入って来た父親に飛びついていく。

 「父さま、お帰りなさぁい! 兄さまと、お友達が来てるのよ」

 「お友達?」

アステルの父親が、玄関から居間のほうに視線をやる。目が合って、イヴァンは慌てて軽く頭を下げた。

 「あ、どうも…お邪魔してます」

騎士だと聞いてはいたが、アステルの父親は、とてもそんな風には見えなかった。痩せ身の長身で、いかめしい口ひげを生やしているほかは、品のよい商店の主、と言っても通るくらいの見た目だ。


 後ろ手に玄関を閉めながら部屋の中へ入って来た一家の主人は、二人の座っている暖炉の側に来て濡れた外套を暖炉の脇の壁に引っ掛けると、向かいのソファに腰を下ろした。。

 「こんなあばら屋に、ようこそおいでくださいました。わしはヨセフ・リオルネット。娘はもう、自己紹介はしましたかな?」

 「あ、いえ――」

 「なんと。ゲルダ、こちらへ来なさい」

 「は、はい」

ちょこちょこと少女がやってきて、畏まった様子でイヴァンの前に立ち、スカートの端をつまみながら軽く膝を折る。緊張しているのか、ほんのりと頬が上気している。

 「ゲルダ・リオルネットです。おはつに、おめにかかります。」

 「う、うん。よろしく」

宮廷でも最近ではあまり見かけないような、古風な礼儀作法だ。イヴァンは何か、むず痒いような気がしてちらりと隣のアステルを見る。アステルのほうは、ティーカップを手にしたまま諦めたような表情だ。

 「これが我が家流らしいよ。心配しなくても、誰が来てもこうだから」

 「騎士の令嬢には礼儀作法が必要だからな。さ、ゲルダ、お前はもう行って母さんの手伝いをしなさい」

 「はーい」

少女は再び奥へと消えていく。

 ほどなくして、台所のほうからは、女性たちのさざめくような笑い声が響いて来た。料理のいい匂いが、居間のほうまで漂ってくる。

 「ところでアステル、そちらのイヴァンさんも一緒に騎士団に入るのかね」

ヨセスは、ちらりとイヴァンが傍らに並べている剣のほうに視線をやった。

 「いや。こいつは西方出身だから地元に戻る予定だ」

 「西方騎士団か。地元で就職できるのなら、それも悪くは無い」

 「……。」

イヴァンは黙っていた。誤解だが、そう思っていてくれるなら嘘をひねり出さなくて済む。

 「しかし、お前が本当に中央騎士団に入れるとはな。王都の学校に出した甲斐もあったというものだ。これでお前も、春からは晴れて騎士を名乗れるわけだな」

 「ええ。とはいえ、最初は下っ端ですけどね」

 「例の近衛騎士殺しの件、犯人はまだ捕まっとらんのだろう。大きな政変があったばかりだし、気を抜かないようにな」

 「分かってます。それより父さんのほうはどうするんですか」

 「ん?」

 「この辺りの領主たちは皆、捕まってしまって――仕事は――…」

 「ああ。」

ゲルダの運んで来たティーカップを受け取りながら、ヨセフは神妙な顔をして言った。

 「そういえば、まだ言ってなかったな。騎士のほうは引退するよ。あとはお前に任せる」

ぽかんとして、アステルは直ぐに言葉が出てこない。その沈黙の合間を縫うように、奥の台所のほうから声がした。

 「お料理の支度が出来ましたよ。」

それで、会話は一端そこでおしまいとなった。イヴァンは、納得いかないというような憮然としているアステルの横顔を、不思議そうに眺めていた。




 食事の済んだあとのこと、食卓を囲んで話をしていたアステルが小さく声を上げて立ち上がった。

 「そうだ忘れてた。馬のこと、父さんに聞いとくんだった。」

つい学校の話などで盛り上がってしまい、肝心の話をし忘れたのだ。

 「あれ、そういえば、アステルの親父さんが居ないな。」

 「雪下ろしにでも行ってるんだろ。探して聞いておく。」

 「そうか、よろしく」

 「ねえ、ねえ、続きのお話は?」

アステルの妹ゲルダがイヴァンの袖を引く。

 「あー、ちょっと待ってな」

笑顔を見せながら、イヴァンは隣で身を乗り出す少女のほうに向き直る。ゲルダはイヴァンの故郷、西の国境の話に興味津々らしかった。遠出をしても王都までくらいしか行ったことの無い彼女にとって、遥か西方の見たことも無い土地の話は斬新なのだ。

 妹の声が廊下まで響いてくる中、アステルは、外套を羽織りながら裏口から外に出た


 外に出たとたん、冷たい風が身を切るように吹き付けてきた。もう日は、すっかり暮れている。物置を兼ねた厩は、猫の額ほどの広さしかない裏庭に繋がっている。その庭に、ランプの明かりが漏れていた。厩の中で人影が動いている。

 「父さん」

厩の中では、ヨセフが馬の毛をすいてやっているところだった。傍らの柱には、馬具がひっかけてある。

 「その馬、明日イヴァンに貸すつもりだったんだけど…」

 「ああ。母さんにそう聞いたから準備しておこうと思ってな」

 「なんだ、そうなのか」

ほっとして、アステルは白い息を吐いた。戸の隙間から吹き込んでくる風で、ランプのあかりがちらちらと揺れる。雪はもう止んでいる。

 「――騎士を引退するって、本当なのか」

 「ああ。この辺りじゃもう、お雇い騎士の仕事はやっていけないしな。それに、年も年だ。無理は出来ない」

 「それで、いいのか?」

戸口に立ったまま、アステルは、手を動かし続ける父の背中をじっと見つめている。

 「あんなに騎士の家柄だの身分だのにこだわってたのに」

 「何事にも、潮時というものはある。お前が騎士団に入るんだ、少なくとも、家族の中に一人は”騎士”がいる。そうだろう?」

 「そんなのでいいのか…」

ふいと顔を逸らし、厩を出て行こうとしたとき、後ろから声が続いた。

 「私が初めて人を殺したのは、二十五の頃だった」

アステルは、思わず足を止めた。

 「ちょうどお前が生まれる前年だったかな。遅い初陣だと思うかもしれんが、当時はまだ平和だった。剣を手にしていても、一生涯、そんな経験をしないまま過ごす者もいたくらいだ。――相手は話し合いの余地もない盗賊でな。討伐のために傭兵たちと一緒に雇われたんだ。既に何人もの村人を殺していた。それで幾らか気は紛れたものの、しばらくはものが食べられず、何日も気分が優れなかった。」

 「…そんな話、今まで一度もしなかったよな」

 「そうだな。故意に避けていたかもしれん。お前を幻滅させたくなかった…。騎士というのは、結局は人殺しだ。たとえ自分にその理由がなくとも、命じられれば人を殺す。命令こそが絶対だと思わなければ心が壊れてしまう。その命令をくれる主君が、常に入れ替わろうとも」

 「ばかばかしい」

アステルは首を振った。

 「心を殺して命令に従っても、本心は隠せない。オレは、自分の意志で戦う。命令されたからなんかじゃない」

 「だが、騎士というものは――」

 「父さんには忠誠心なんて無かったじゃないか。金で雇われて仕える相手を変えて、その時々の主の命令に従う。それは騎士じゃない。傭兵だ」

しん、とした沈黙が落ちる。風が吹いて、カタカタと戸が揺れ、ランプの明かりもまた揺らぐ。

 「…ごめん、言いすぎた。」

 「いや。お前の言うことはもっともだ。だがな…、私は、私が継いだものを、私の代で途絶えさせたくは無かった。」

馬の毛をすいていたブラシを置くと、ヨセフは、ゆっくりと振り返った。

 「お前だけは、私と同じ境遇にはしたくなかったのだ。騎士学校に入って、騎士団に勤められるようになれば、主君は国王となる。この近辺の小さな領主たちの気まぐれに忠誠を捧げるよりは、お国に捧げられたほうがずっといい。私のような紛い物と違い、お前は本物の騎士になるんだ。――そうだろう?」

 「……。」

アステルは俯いた。「分からない。今はまだ」

 「そうか。」

傍らに置いてあったランプを手に取ると、ヨセフは厩の外に出た。アステルもついていく。

 「噂を聞いた。騎士学校に、ひどく腕の立つ生徒が一人いると。――二年前の、あの王都包囲戦で名を上げた、”サーレの雄牛”。二振りの剣を角のように振り上げ、怒れる姿には、騎士も兵士も傭兵たちも、ただ逃げ惑うしかなかったという。」

 「……!」

 「私には戦友と呼べる者はいなかった。お前は、友達を大事にするといい。」

止んでいた雪が、再びちらつきはじめている。裏口に向かって歩いていくヨセフの手に揺れるランプの光は、雪の中に滲んで見えた。

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