第42話 約束
許可を得て獄中のネイリス男爵のもとを訪れたのは、学校が休みの週末のことだった。
牢獄は、王都の隅の崖に突き出した場所にあった。そんなところに施設があるということを知ったのは、許可が下りてからのことだった。案内の兵士に連れられてぐるぐると廊下を巡り、目的の部屋の前にたどり着く頃には、入り口から随分と距離を歩いていた。
「面会時間の終了時刻になったら呼びに来ます。その前に出たい場合は、扉を叩いてください。」
それだけ言って、兵士はイヴァンを部屋の中に残して出ていった。
背後で鎧戸に鍵の下ろされる重たい音がする。かすかな軋む音は、二重になっている外側の扉だろう。
イヴァンは、室内をぐるりと見回した。
地下牢とはいえ、半地下なだけで窓は地上にある。寝台と書き物机、物入れ。奥の扉は用を足すところだろうか。明るい日差しの差し込む広い部屋は、少し肌寒かったが、ナタリアの言ったとおり決して悪くはない部屋だ。
目の前には、老人が一人、部屋の真ん中で擦り切れたガウンを羽織り、両手で杖をついて日差しの中に立っていた。まばらな髪はすべて真っ白で、僅かに乱れた長い髭が顎の下を覆っている。
思っていたよりもずっと年上で、病的なまでの体の細さ。ひどく華奢なその体は、今にも折れてしまいそうに見えた。
イヴァンが驚いているのを見て、ネイリス男爵は小さく笑った。
「そんな顔をしなさんな。この年で、よくあんな若い娘がいると思ったのだろう? あれは思いがけない授かり物でな。引退生活に入ってから出来た子だ。だが、わたしに似ずに母親に似た。お陰で器量よしでな。どうだ、なかなかの美人だったろう?」
「あ、――ええ、まあ」
「君は正直者だな、イヴァン・サーレ。座ってもいいかね?」
「どうぞ」
笑みを浮かべたまま、老人は杖をついて書き物机のほうを振り返った。思わず手を貸したくなるほどゆっくりと、体を左右にゆすりながら歩いていく。机の前まで来ると、椅子をひいて腰を下ろした。
「すまんな。この年になると長いこと立っているのが辛いのだ。それで? このわたしに何の用かね」
「聞いてみたかったんです。あなたが、本当に反逆者の一人なのかということ。だとしたら、ウィルド・ネイリス、あなたは何故ヴェニエルの誘いに乗ったのか」
「なぜ他でもないわたしに聞く?」
「俺には、あなたが、ただ身勝手なだけの為政者ではないような気がしたから。」
イヴァンは、両手を体の後ろで組んで真っ直ぐに立っていた。
「ヴェニエルやマイレの言葉ではなく、ホランド夫人のような過激な言葉でもなく、あなた自身の考えを聞かせてほしい」
沈黙、互いの呼吸の音。
じっとイヴァンを見つめていた老人は、手元に視線をやった。
「勿論、領民のためを思ってのことだ。それはヴェニエルやマイレにしても同じだっただろう。建前だろうがな。――だが、わし自身は国王の退位など求める気は無かったし、アレクシス元国王陛下が通そうとしていた法案にも特に反対ではなかった」
イヴァンは内心、驚いていた。
「じゃあ、何故?」
疑問がそのまま言葉となって口から零れ落ちる。
「戦争を仕掛けて、負ければどうなるか分かってたはずなのに」
「分かっていなかったのだ」
ウィルドは、低くそう答えた。
「戦場というものを知ったのは、あの時が初めてだった。わたしは生まれつき体があまり強くはない。両親も、わたしに騎士のようなことをしろとは言わなかった。剣など持ったことも無い。領主の仕事といえば税収の管理、領民の争いごとの仲裁、議会への出席…」
「……。」
ぽかんとしているイヴァンの顔を見て、老人は笑う。
「君のような若者には、全く想像もつかないことなのだろうな。貴族の中には、わたしのような者は大勢いる。野蛮な仕事はお雇いの騎士か兵士にやらせて、優雅に午後のお茶を飲むのが仕事だと」
「けどそれじゃ、何かあったときに領地が守れない」
「何も起こらないのだよ。夜盗が出たなら騎士団を呼べばよい。足りなければ傭兵を雇うのだ。事実、王都の前にやって来た貴族の大半がそうしていただろう? わたしもそうだ。最も、連れて行ったのは二十人ばかり。近隣の傭兵たちは先にほかの領主に雇われていたから、近くの村から志願兵を集めたのだ。彼らには可哀想なことをした」
眩暈がした。それは、イヴァンが想定していた、どんな答えとも違っていた。
彼の知っているのは、サーレ領だけだった。他所は他所だと頭では理解しているつもりだったはずなのに、それでも、他領の実情が、そんなにも故郷とは違っているものだとは思っていなかったのだ。
いついかなる時も戦に備え、自衛を心がけざるを得ない辺境と。
太平の世にある王国の中心部と。
その間にある、見えざる大きな意識の隔たり――。
「…もう一回聞きます。あなたは何故ヴェニエルの誘いに乗ったんですか」
「近所づきあいのためだ。我が領地の周囲は、同じような身分の旧家の貴族たちに取り囲まれている。他の領主たちに睨まれれば、我が領地との取引は滞るだろう。傭兵を雇って嫌がらせをされるかもしれない。何しろ、うちは弱小の領地だったから…。」
声がか細くなり、僅かに咳き込んで言葉が止まった。イヴァンが近づこうとすると、ウィルドは片手を上げてそれを制止し、自分で卓上のコップを取り上げて水を飲んだ。
「…常時、私兵を雇っておくだけの財力は当家には無かったのだ。おまけに、娘の婚約者と定めた隣の領主は血気盛んな男で、早々にヴェニエル側につくことを決めてしまっていた。この老いた身で、わたしに一体何が出来る? せめて娘だけは、嫁に出してやりたかった。――それだけを思っていた」
「国王側が勝利するとは思っていなかったんですか」
「君は、国王側が勝つと思っていたかね」
「当たり前です。」
「わたしにはそうは思えなかった。数はこちらが多かった。騎士団の数は前もって分かっていたから、それ以上を用意したのだ。あの時集まった貴族たちには、それだけの財力があったから…ヴェニエルやマイレが使っていた新型武器については、あの時まで知らなかったが。」
ウィルドの言葉が途切れる。
窓の外で、鳥が飛び立った。四角く切り取られた床の上の光を、翼の影が横切っていく。
「逆に質問してもよいかね」
「何ですか?」
「君はなぜ、国王側についた」
「結果としてそうなっただけです。俺は、十年前にユラニアの森で起きた事件の真実を知りたかった。その件を調査していたのが近衛騎士で、事件を引き起こしたのがマイレ伯爵の手下だった。それだけです」
「成る程。領民に被害をもたらした側に付くわけにはいかない、か…。」
老人は、何か考え込むように手元の杖に視線を向けた。
「…マイレは手段を誤ったな。街道沿いで騎士団の眼を惹き付けるつもりなら、自領内で事件を起こせば良かったのだ。サーレに疑いの目を向けさせようなどと、欲をかいたのが間違いだった」
「あの事件が無かったとしても、うちは、ヴェニエルの味方にはならなかったはずですが」
「敵にもならなかったはずだ。もしもサーレが――いや、君が国王派についていなかったなら、あの戦いはおそらくこちらが勝っていただろうから」
老人は、イヴァンが訝しげに眉を寄せるのを見て微かに笑った。
「君は気が付かなかっただろうがな、あの時、わたしは戦場を駆ける君を見ていたんだよ。凄まじかったな。まるで猛り狂った牛が突進してくるようだった。上品な騎士でも、金のために働く傭兵でも、臆病な新米兵士でもなかった。
わたしはその時、"戦士"という言葉を思い出していたよ。今はもう殆ど出会うことのなくなった人種だ」
「………。」
「誇りに思うといい、君自身の力を。そして君を味方につけられた国王を、羨ましく思う。」
何も言い返せなかった。
自分にはそんな大それた力はない、と言いたかったけれど、それを言っても老人はただ笑うだけだろうと思ったからだ。
一体、どれだけの人がそんな風に自分を見ているのだろう。何もしたつもりはなく、今だって、何も出来るとは思えないのに。
そんなイヴァンの表情を酌んだのか、老人は自ら話し始めた。
「我がネイリス領は、中央と東方の境目にある、僅か十エローラにも満たない小さな領地だ。爵位があるだけの荘園主と大差は無い。王都周辺から先、我が領地の辺りまでは、そんな小さな領地が数多く残っている。家系を辿れば皆どこかで繋がっているような、そんな旧家ばかりの地方だ。子供が生まれると領地を分割していた時代の名残なのだよ。だからどの領地も作っているものはほとんど変わらない。家系の歴史は立派だが、実際は土地代と税収の他に収入もほとんど無い。――ただ誇りだけだ。あるものは」
ナタリアの、誇り高い瞳。両手を粉まみれにしながらも、彼女は全身でそれを表そうとしていた。
「あの法案が通ると通るまいと、我が領地の税収はさして変わりはしなかっただろう。ヴェニエルやマイレのような大きな
「その話、他の人にもしたんですか」
「尋問に来た近衛騎士には話したよ。信じてくれたかは分からんがね。」
背後で、扉の軋む微かな音がした。兵士が迎えに来たようだ。面会時間は終わりということだろう。
ひとつ溜息をついて、老人は顔を上げた。
「ナタリアはどうしている?」
扉を叩く音がした。
「時間です」
「最後にあの子と逢ったのは、二週間前だ。気丈に振舞ってはいたが、ひどく不安そうだった。家も土地も取り上げられてしまったのだ。ここを出られても、生きていくには――」
「ちょっとだけ待っててくれ」
扉の向こうに声をかけてから、イヴァンは老人のほうに向き直った。
「ナタリアはパイを焼くのが得意だった。彼女は、家でもずっと料理をしてたのか?」
「…ああ。召使いを雇う余裕が無くてな。家のことは、大抵娘がやってくれていた。我が領地はほとんどが果樹園でな。特産物を使った、りんごのパイが一番得意だった。」
それで、最初に会った時に「りんごパイ」と言っていたのか。
「君は、食べたのかね?」
「ああ。美味かったよ」
答えを聞いて、ウィルドは、何かを理解したような顔で笑った。入り口の扉が開き、兵士が入ってくる。
「また会おう、次期サーレ辺境伯殿。」
小さく頷いて、イヴァンは部屋の中に背を向けた。
季節が巡り、夏の盛りが訪れる頃、王都には「沙汰なしとなった貴族たちが解放されるらしい」という噂が駆け巡った。反逆罪で拘束されていた一部の貴族について、審理が終わったのだ。
イヴァンは、公園の隅の木陰に寝そべって、ぼんやりと空を見上げていた。木の葉が風に揺れるたび、ちらちらと光がきらめく。以前はじめてアルヴィスと出会った、あの場所だ。放課後や休日、特に予定もない時には、今でも良くそこに来ていた。
「本当に居た…」
頭のほうで声がした。半分閉じかかっていた目をこじあけて顔を向けると、かごを手に提げたナタリアが逆さまに立っている。
「何してんだ、こんなとこで」
「探しに来たの。学校に訪ねて行くわけにもいかないでしょう? そしたら、騎士団に来てたベオルフって騎士の人が、こんな日はだいたい公園にいるからって…」
「ああ。成るほどね」
勢いよく起き上がると、彼は頭についた草を払った。
「隣に座っていい?」
「どうぞ。」
ナタリアは、取り出したハンカチを草の上に広げると、上品にその上に腰を下ろした。
「今日はお礼を言いに来たの。今まで色々ありがとうって…それから、お別れのご挨拶」
ぴく、とイヴァンの動きが止まった。
「いつ発つんだ」
「明日。父は今夜解放されるらしいわ。一晩休んだら、明日の昼前にはこの町を出るつもり」
解放された全ての貴族たちは爵位を剥奪され、領地も没収される。ただ、規模が大きすぎない限り邸宅はそのまま残され、生活に困窮しない程度の土地の領有も認められる――。それが、国王シグルズの下した決定だった。
「りんご畑はね、残してくれるんだって。ちょうどもうじき今年の新しいりんごが成る季節だわ。家にも帰れる。…元々楽な暮らしじゃなかったけど、爵位が無くなるかわりにお国に支払う税金や義務も無くなるんだから、もしかしたら前より楽になるのかもね。あ、これ、食べていいわよ」
差し出されたかごの中身は、焼きたての大きなパイだ。
「野菜を入れて焼いたパイなの。一緒に王都にいた北方の子に教わったの。ちょっと変わってるでしょ」
「ほんとだな。…どれどれ」
一切れとりあげて、イヴァンは大きく口を開けてほおばる。
「ん、相変わらず美味いな! これ、全部食べていいの?」
「いいけど――これを全部ひとりで?」
笑ったナタリアの顔には、もう以前のような思いつめた影はない。それを嬉しく思うと同時に、イヴァンは、ほんの少し寂しさも覚えていた。
「…帰っちまったら、もう、食えないんだよな」
「じゃあ遊びに来れば? 毎年、りんごパイ焼いてるの」
「いいのか?」
「ええ、父と二人だけじゃ食べきれないしね」
彼女は微笑みを浮かべて、次から次へとパイの切れ端を口に運ぶイヴァンを隣で眺めている。
穏やかな時間は、ゆっくりと流れてゆく。何も話はしなくても、隣に座っていられることだけで満足だった。睨まれたり、パイ生地をぶつけられたりするよりはずっといい。
「ほんとに全部食べちゃったのね」
しばらく後、空になったかごを見てナタリアはほんの少しだけ呆れたような顔をした。
「夕飯代わりだよ」
イヴァンは、満腹になった腹をさすっている。
「――私の婚約者だった人は、一度も食べてくれたことはないわ。」
「婚約者?」
「隣の領主よ。私よりずっと年上のやもめだった。うちの家計では大した婚資も準備できなくて…縁談が、なかなか纏まらなくて。」
ナタリアは、かかすに自嘲するような笑みを浮かべていた。
「でももう、この世には居ないわ。あの戦いで死んだから。本当を言うとね、ほっとしてるの。あの家に嫁ぐのは、本当に嫌だったから…私は、薄情な女なのかしら」
「そんなことないさ。結婚ってのは好きな相手とするもんだ。無理して嫁がなくて、良かった」
「だとしても、いつかは嫁がないと。ぐずぐずしてたら、婚期を逃してしまう。父や家のお荷物にはなりたくない。」
少女は、小さくため息をついた。
「――こんな話、あなたには関係のないことね。ごめんなさい」
日差しの角度は変わりはじめ、そろそろ夕刻の時間だ。立ち上がって、ナタリアはスカートを払った。
「もう帰らなきゃ。それじゃあ、…またね。」
「…ああ」
出立の頃には、学校の授業中だ。明日はもう逢えないだろう。何故か、それまでにない感情が込み上げてくるのを覚えた。
気が付いたときには、彼は立ち上がっていた。
「ナタリア!」
ナタリアが足を止め、振り返る。
「え?」
「嫁に行く先が無いなら、うちに来ればいいぞ」
「えっ…」
少女の顔が、見る間に真っ赤になっていく。
「ばか!」
空になった籠で殴る真似をして、ナタリアはスカートを翻して駆け出した。
「あ、待てって。冗談じゃなくてさ。俺――なあ! 手紙くれよな! 学校に出せば、届くから…」
これで最後ではない、とイヴァンは自分に言い聞かせた。たとえ細い繋がりでも、何か一つだけでも確かな約束さえあれば――。
けれどその繋がりがその先もずっと長く続くものになろうとは、その頃の二人には、まだ想像もつかないことなのだった。
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