第41話 貴婦人の誘惑

 再び呼び出しのメモが届いたのは、それから幾日も経たないうちのことだった。

 「いつものみたいですよ。」

それだけ言って、受付の女性は去っていく。もう慣れっこになっているのだ。

 あれから一度も騎士団本部に行く用事が無く、なんとなくもやもやした気分のまま過ごしていたイヴァンは、大急ぎでメモを開いた。

 「…あれ?」

 「どうしたの」

隣にいたエデルが覗き込もうとする。

 「いや…、いつもの呼び出しじゃないみたいだったから」

 「別の人?」

 「多分。俺一人で来いって書いてあるし、ちょっと行ってくる」

便箋の端には騎士団の紋章が印刷されていて、間違いなく騎士団のお使いが使っているいつもの紙だ。ただ、今回は名前も書いていないし、字も見た覚えがない。妙に細くて、女性が書いたような字だ。

 (ナタリアが? そんなわけ無いよな)

呼び出しの場所は、繁華街の端にある店のようだ。どうしてそんなところに、と思いながらも、彼は制服の黒い上着を脱いで私服に取り替えた。店に入るつもりなら、学生服はさすがにまずい。

 「あれ? どこへ行くんだ」

玄関を出るとき、アステルとすれ違う。

 「呼び出しが来てたって聞いたから、てっきり騎士団本部のほうに行くのかと思ってたのに」

 「なんか違う人みたいなんだよな。」

メモを渡すと、アステルは怪訝そうな顔になった。

 「…呼び出し先が歓楽街じゃないか。お前、騎士団で何かしたのか?」

 「何かって何だよ。心当たりは無いが、誰だかわかんなきゃどうしようもないし、行くだけ行ってみるよ。」

学校を出て、大通りの方向へと歩き出す。

 最初は良く分からなかった町の構造も、さすがに最近ではだいたい分かるようにはなった。とはいえ、町の喧騒にはいつまで経っても馴れそうになかったが。


 馬車の行き交う通りを渡り、並木の道を潜って、イヴァンは、普段はあまり行かない歓楽街へと足を踏み入れた。

 その辺りは町の中でも特に夜が遅く、あまり学生向きでない店も多いため、不良学生でもなければ滅多に足を踏み入れない。イヴァンも、夕方のこの辺りに来るのは初めてだった。

 色とりどりのぼんぼりを吊るした店がところ狭しと軒を並べ、若い女性たちがあらわな肌を見せて客を誘っている。思わず視線を逸らしたくなる光景だ。一体どうして、こんなところに呼び出されたのだろう。


 指定されていた店を見つけて店主に名を告げると、何も聞かれないまま二階の個室へと案内される。中には丸テーブルとふかふかのクッションの積み上げられた長椅子だけがあり、誰もいない。

 だが部屋の中に入ったとたん、奥のカーテンが勢いよく開いて、待ち構えていたように女性たちが飛び出してきた。

 「よく来てくれたわ! お待ちしてましたのよ」

 「えっ…?」

後ろから二人の若い女性たちが腕を掴み、半ば押し付けるようにイヴァンを椅子に座らせる。帰さないぞとでもいうように扉の前に仁王立ちするのは、年かさの女性。これでもかというくらい寄せて上げた胸の谷間には、高価そうな宝石飾りが光っている。

 「――誰?」

 「お目にかかるのは初めてでしたわね。わたくし、フィオラ・ホランドと申しますの。こちらは娘のエイダとローザ」

 「よろしく!」

 「よろしくね、きっと年は同じくらいよ、うふっ」

ぽかんとしている間に、手際よくテーブルの上に料理と飲み物が並べられる。

 「ささ、飲んで、食べて。」

 「いやあの、…何の用ですか?」

 「いやだぁ、そう焦らないのぉ~。まず一杯」

横から頬を突かれ、無理やり杯を渡される。中に入っているのは、この辺りでよく飲まれているハッカ水のようだった。母親に負けず劣らず、二人の娘たちもいやに刺激的な格好だ。

 どこを見ていいのか分からず、イヴァンはそろりと体の位置をずらしながら杯の水を一口だけ飲んで、視線をテーブルのあたりに向けた。出された食べ物は基本的に食べるほうだが、こんな場所で、しかも理由も分からずに出されたものに手はつけられない。

 「先に要件を言ってくれ。どて見たって、あんたたち騎士団の関係者じゃないだろ。あの便箋、一体どこでくすねたんだ?」

 「くすねてなんかいませんよ、いただいたの。その余りもの」

フィオラと名乗った婦人は、すまし顔で扇を取り出し、はたはたと仰ぐ。香水だろうか、きつい香りが漂って、イヴァンは思わず鼻のあたりに手をやった。

 「ここへお呼びたてしたのは、囚われているわたくしの夫、この子たちの父親を取り戻す助力を、あなたにいただけないかと思ってのこと。夫は、もう半年も暗い独房に繋がれていて、処刑されてしまうかもしれないんですのよ」

 「…処刑?」

 「お父様は悪くないのよ、ヴェニエルって人に騙されたの!」

年下のエイダが頭の上で二つに分けて結った髪を揺らしながら叫ぶ。

 「そうよ。お父様は領民を守ろうとしただけなの。法律が変わったら、隣の自治領の連中に負けちゃうんですもの!」

 「……?」

ようやく、イヴァンにも状況が飲み込めてきた。

 それと同時に、記憶が蘇ってくる。騎士団本部で見た、一群の女性たちの中にいた派手な服装の女性。あの時、紫のよく目立つドレスを着ていたのが、このホランド子爵夫人なのだ。

 絡んでくる娘たちの腕を振りほどきながら、イヴァンは立ち上がる。

 「悪いが、そういうのは他の人に言ってくれ。俺は一介の学生だぜ。何の権限もない」

 「でも、王家のご一家とは親しくなさってるじゃないですか」

ねめつけるような視線。

 「それとも何? あの貧乏貴族のネイリスの小娘には親切にしてやれるのに、うちの娘たちのことは思ってくださらないの?」

 「…な」

 「聞きましたよ。お茶をごちそうして、父親はもうじき解放されるって教えてやったそうじゃありませんか」

 「ひどい。わたしたちだってお父様に会いたい」

エイダがべそをかきはじめ、姉のローザがなだめようとする。それが真似事なのか本気なのか、イヴァンには分かりかねた。真似だったとしても、気分は良くない。

 「気の毒だとは思うけどさ。だからって軍勢集めて王都に押しかけたのが何の罪にもならねえわけないだろ」

 「それは国王陛下があまりにも酷い法律を押し付けようとしたからです!」

フィオラは、扇をぴしゃりと閉じた。

 「サーレは領地が広くて、収入も安定しているから分からないのよ。うちのような狭い領地で、ろくな産業もなく近隣と似たようなものを造りながら細々と輸出で生計を立てているような領地では、税率の変更は死活問題だったのです!」

だったらその高価な装身具とドレスは何だ、と言いたくなったが、イヴァンは口を閉ざしていた。

 「ヴェニエルが絶対大丈夫だなどと嘘をついて焚きつけなければ、温和な夫が軍を率いて出て行くことだって無かったはずなのに。全てはあのヴェニエルのせいよ。夫は虫だって殺せないような人なのよ」

 「お父様は悪くないの。だから解放するよう、申し添えて…」

 「あーもう。そんなこと俺に言われても知るかよ!」

立ち上がると、彼は乱暴に娘たちを押しのけて扉の前に向かった。立ちふさがろうとするフィオラとは、しばし睨み合いになる。

 「わたくし、あなたが酷いことをしたと皆に言いふらしてやります」

 「好きにしろ。出来もしないことを頼まれたって困る」

それでも退こうとしないホランド夫人を、意を決して体で押しのけるようにして退かせると、イヴァンは、力づくで部屋を脱出した。

 二階の廊下は薄暗く、下の階からは既に酔っ払いの騒がしい笑い声が響いてきている。かすかな眩暈がした。キツい香水の匂いを嗅いでいたせいだろうか。

 (騙されて呼び出されるとか、前にもこんなことあったよな…)

階段を下り、裏口から外に出る。酒を飲んだわけでもないのに、頭がくらくらする。壁に手をついて、イヴァンは、通りの方向を探した。


 さすがにおかしい。


 数軒通り過ぎたところで、彼はようやく気づいた。世界がぼやけて体に力が入らないのだ。飲み屋街から出てきたところだから、ふらふらしている若い男がいても誰も不思議に思わず、通行人たちは笑いながら通り過ぎていく。まだ時間は早いが、この辺りでは日常茶飯事の光景だ。

 しかしイヴァンは酒を飲んでいたわけではない。飲んだのは――ハッカ水だけ。

 (あれに何か仕込んでやがったのか)

部屋を出るのがもう少し遅かったら、完全に意識を失っていたかもしれない。ふらつく足取りで歩き出そうとするが、方向が分からない。

 (くそ…、何でこんなことに)

まさか、アステルの言っていた「毒を盛られるかもしれないから気をつけろ」が、こんなとこで現実のものになろうとは。

 壁にもたれかかろうとしたとき、誰かの手が彼を掴んだ。甘い香りがする。でも香水とは違う。これは――焼き菓子の匂い。

 「…ナタリアか」

 「ごめんなさい」

耳元で消え入りそうなか細い声がして、肩に手が回される感覚があった。

 「送っていくわ。事情は私が説明する。私のせいだから」

 「お前のせいじゃねぇよ。俺がのこのこ出かけていったのが…」

 「ホランド夫人に、この間のことを話したのは、私だもの」

間近にあるナタリアの瞳は、涙ぐんでいる。

 「…私が余計なこと言ったから」

何か言おうとしたが、喉がからからで、舌がもつれて言葉が出てこない。それに、頭がぼーっとして、気の利いた言葉も浮かんでこないのだ。

 ただ、ふわふわとした気分の中で、密接しているナタリアの暖かさが心地よかった。ずっと、そうしていたいと思えるほどに。




 それから二人は、苦労して黙々と騎士学校への道を歩き続けた。普段なら走って十分ほどの距離で、こんなに苦労するとは思ってもみなかった。学校の玄関に辿り着いたときには、どちらも、へとへとになっていた。

 「イヴァン!」

どうやって玄関の階段を上ろうかと考えていたとき、街灯が照らし出す中にアステルとエデルが飛び出してきた。

 「戻ってこないから、迎えに行こうかと思ってたんだ。そしたら、窓から戻ってくるのが見えたから…」

 「お前、また何かやらかしたのか?」

二人は同時に勢い良く喋ったあと、ちらりとナタリアを見た。

 「あ、私は…」

少女は、うろたえた顔で言葉を詰まらせる。

 「…話は中で聞く。エデル、そっちの肩持って」

 「う、うん」

支えられて階段を登ると、イヴァンは玄関脇の待合室のソファに降ろされた。

 「ヘイミル先生呼んでくるよ」

エデルが勢いよく駆け出していく。イヴァンは、アステルが受付で貰ってきた水を受け取って、水差しごと一気に飲み干した。

 「はあ、やっと声が出る」

 「おい…大丈夫なのか?」

 「もうだいぶマシになってきた。」

 「酒じゃないよな? 酔っ払ってるわけでもなさそうだし。何があったんだ」

 「俺もよく分からない。飲んだのはハッカ水一杯だけのはずなんだけどな…」

廊下に足音がして、エデルが戻って来た。ヘイミルも一緒だ。

 部屋の中ほどまでやって来た校長は、入り口の隅で所在なげに小さくなっているナタリアを一瞥したあと、イヴァンのほうに向き直った。

 「イヴァン君、騎士団の呼び出しを貰ったという話は聞いています。ですが今まで門限は守られていたはずです。今日に限って門限の時間を過ぎても戻らなかった理由を聞かせてもらいましょうか」

 「…呼び出しは偽モノでした」

と、イヴァン。

 「行ってみたらホランドって人が待ってて、食べ物と飲み物が用意されてて。それには手をつけなかったんだが、水だけは飲んで話を聞いてたんです。だけど全然解放してくれる気配がなくて、無理やり逃げ出して…そしたら建物を出たとたん眩暈がして。」

 「メモはオレも見せてもらいました。騎士団の便箋だったのは間違いないです」

アステルも付け足す。

 「その時に呼び出し先の場所は見ていたので、探しに行こうかと思ってたんです」

 「なるほど。で、こちらのご令嬢は、どなたですか?」

 「ナタリアは中央騎士団本部で世話になってる人だ。俺がふらふらになってたところを見つけて、ここまで連れて来てくれたんだ」

イヴァンはあくまで彼女には関係ないことだと言おうとしたのに、ナタリアがそれを遮った。

 「ホランド子爵夫人は彼に、反逆罪で幽閉されている子爵が早く釈放されるようにして欲しいと嘆願するつもりだったんです。”若い男なんてイチコロ”だってあの人は言いました」

淡々とした口調だが、告げられる内容はヘイミルが思わず眉をひそめるようなものだ。

 「あなたは、それを知っていて、呼び出しの場所に行ったのですね?」

 「…はい。」

 「どうして知っていたのですか?」

少女は一つ溜息をつき、それから、顔を上げてはっきりとした声で言った。

 「ある意味では、私も共犯者だったからです。彼が進言して王様が捕虜の釈放を早めてくれるなら、…私の父も早く出られるかもしれないって、最初は思ったんです。でも、ホランド夫人が彼を”説き伏せる”のにどんな方法を使うのか知ったら怖くなってしまって、それで」

 「方法とは、毒を盛ることですか?」

ナタリアは首を振り、少し顔を赤らめて俯いた。

 「…惚れ薬です」

 「……。」

部屋の中に沈黙が落ちる。イヴァンは無言に水差しを突き出し、エデルが慌ててそれを受け取って駆け出していく。

 「イヴァン、お前…」

 「冗談じゃねぇ。あの香水くさいオバサンとやたら…なんていうか…積極的な娘二人…うげぇ」

彼は身悶えしてソファに顔を埋めた。

「あのベタベタされてたの、そういうことかよ~…思い出したら気分悪くなってきた」

アステルが、隣で溜息をつく。

 「良かったな、無事に戻れて」

 「全くだよ…」

 「ふむ。事情は分かりました」

ヘイミルは顎に手をやり、ちらりとナタリアのほうを見た。

 「この件は、騎士団長に報告して判断を仰ぎます。その時にもう一度、今の内容を話してくれますね」

 「…はい」

 「騎士団から迎えを寄越してもらいますから、しばらくこの部屋で待っていてください」

校長が出て行くと、部屋の中には三人だけになった。間もなくして、エデルがばたばたと駆け戻ってくる。

 「はい、水」

 「ありがと! やたら喉が渇くんだよ、なんだか」

水差しごと口にしようとしたイヴァンは、ふと、壁際に立ったままの少女に視線を留めた。

 「悪かったな、手間かけて。疲れただろ? そこ座ってろよ」

 「…私は大丈夫です」

ナタリアはそっけない。

 「怒らないの? ホランド夫人に色々話してたこと」

 「別に。てか同じとこに寝泊りしてたら、その日あったことくらい話すだろ。それにさ、普通はいきなり薬盛るなんて思わないよ」

 「そうじゃないんです。私、最初から…」

言いかけて、ナタリアは口をつぐんだ。アステルとエデルは、ちらりと視線を交わした。

 「おれたちは外に出てるよ」

 「ちょっと校長先生のところに行ってくるから」

二人同時にそう言って、部屋を出て行く。扉が閉まってしまうと、部屋の中には、しん、とした沈黙が落ちた。

 「やれやれ」

苦笑して、イヴァンは肩をすくめた。

 「馬鹿馬鹿しいったらありゃしない。俺なんて、別になんの力も無いって言うのに、何か出来るんじゃないかって思い込んでる奴が世の中にそんなにいるとは思わなかった。」

 「君は、自分のことが分かってないわ」

 「――らしいな。今回で身に染みたよ。”世間の見る目”ってやつは、案外ばかにならないものなんだな。あいつらにも、あんたにも、迷惑かけっぱなしだ」

 「…迷惑をかけたのは私よ。最初から君に近づくつもりだった。台所に突然入ってきたときは知らなかったけど、後で聞いたの。王様のお気に入りだって、だから…」

 「だからパイを?」

 「そうしなさいって、ホランド夫人に言われたから。」

ナタリアは目を伏せたまま、顔を上げようとしない。

 「まさか、全部平らげるとは思わなかったけど」

 「そりゃ貰ったら食うだろ。そうそう、あれ本当に美味かったんだぜ。美味いパイが食えたんなら、ホランド夫人には感謝しなきゃ」

 「…本気なの? あんな、パイやお菓子くらいで…たかが…そのせいで、酷い目に遭いそうになったっていうのに」

 「酷い目ったって、別に殺されそうになったわけじゃないし」

水差しを置いてソファから立ち上がると、彼は、ナタリアの前に立った。イヴァンのほうが背が低く、目の前に立つと、俯いているナタリアと視線が合う。

 「それに、あんたのパイやお菓子はすごく美味かったから。また作ってくれよ。」

 「……。」

突然、彼女はぽろぽろと泣き出した。

 「あ、えっと、ごめん…何か変なこと言ったっけ」

 「ばか」

小さく呟いて、ナタリアは両手で顔を覆いながら壁に顔を向けた。

 「君のことなんて嫌いなのに、田舎者の新興貴族で父様を牢屋に入れた人たちの仲間なのに…どうして…どうしてよ…」

玄関のほうで話し声がして、廊下に足音が響く。騎士団からの迎えが到着したようだった。




 学校に近衛騎士のエーリッヒがやって来たのは、それから数日後のことだった。最後の授業が終わったあと、イヴァンは校長室に呼び出され、そこでエーリッヒと会った。

 「今日来たのは、先日のホランド子爵夫人による、生徒の監禁未遂容疑の件の事後報告です」

彼は手元の報告書らしきものに視線をやりながら、難しげな言葉をすらすらと述べる。

 「別々に聞き取りを行った結果、君とネイリス穣の話は一致しており疑うところはないと考えられました。ホランド夫人も最初は何かと言い逃れしていましたが、最後には、君を騙して呼び出したのを認めましたよ。ただ、薬を盛った件は最後まで否定していましたが。」

 「どうなったんだ? あの人」

 「強制退去です。王都への立ち入りは禁止となりました。騎士団本部に居座っていた方々の大半も同じです。騎士団員にも悪影響が出ていたようですし…備品を横流ししたり、便宜を図ったり、個人的な…その、関係になっていた者もいたとか」

エーリッヒは軽く咳払いして最後のほうは曖昧に流した。

 「ただ、止むを得ない事情がある者は残留許可が出たようです」

 「止むを得ない事情?」

 「唯一の家族が入牢している場合、或いは老齢者や幼少者などですね。」

 「ナタリアは?」

 「彼女はその条件に合致します。領地も邸宅も没収されている現在、彼女を帰らせる場所はありませんから。」

 「他に親戚もいないのか」

 「居ないようですね。肉親は牢の中にいるネイリス男爵ただ一人。婚約者だった隣の領主バルガス準男爵は、先日の王都前の戦いで戦死しています」

 「……。」

年老いた父親だけが唯一の家族で、帰るべき領地も没収されて今は無い。あの雨の日のナタリアの表情が、今更のように思い出された。

 「あいつの親父さんは、…出して貰えるのか?」

 「裁判の進行は機密ですから、私も知りません。ただ、陛下は無慈悲な方ではありませんから。」

報告書をくるりとまとめて、エーリッヒはイヴァンのほうを見た。

 「そういえば、最近、騎士団本部でシンディと楽しんでいるそうで。どうですか? 今度、私とも手合わせしてみませんか」

 「え? いいけど…俺、いっつも負けてばっかだぜ。」

 「大丈夫でしょう。私は、近衛騎士の中では一番、剣術が苦手なんです」

彼は表情ひとつ変えずにそんなことを言う。

 「私は元々、馬上射撃の腕を買われて入団したんですよ。ですから、弓は得意ですが、剣術のほうはさっぱりです。」

謙遜なのか本当にそうなのか、はかりかねるような口調だ。

 ただ、彼の弓の腕前は、初対面だった建国祭の日に目の当たりにしている。あの時エーリッヒは、追跡していた国王暗殺未遂容疑の犯人を、見事に射抜いてみせたのだ。

 「では、また後日――そうそう、次から騎士団からの呼び出しに応じる時は、必ず相手の名前を確かめて下さい。」

 「分かってるよ」

エーリッヒが帰って行ったあと、それまで部屋の隅で黙っていたヘイミルが口を開いた。

 「あのお嬢さんも、苦労していたんですね。」

 「ああ。俺、そういうの何も知らなかったから…」

だが、あの時、彼女の親父さんが敵側にいたのも事実だ。


 『それは国王陛下があまりにも酷い法律を押し付けようとしたからです!』


ヒステリックに叫んだ、フィオラ・ホランドの言葉。――あれは、どこまで真実だったのだろう。王政に逆らい打倒を試みた貴族たちの行動は、以前はただの反逆者としか見えていなかった。けれど彼らには、もしかしたら彼らなりの切迫した事情があったのかもしれない。


 王政側からすれば、財を蓄え、力を持ちすぎた貴族の勢力を削ぐため。或いは不当な高い税率を固定された自治領への配慮。

 貴族たちからすれば、自領の経済の維持のため。領民の生活を守るため。


 一体どちらの言い分が正しいのか、イヴァンには良く分からなくなっていた。

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