第40話 冬のにわか雨

 冬も深まり、冬至の近づいたある日のこと、イヴァンは、どういうわけか王宮に呼び出された。

 指定されたのは、以前アルヴィスやティアーナと通った警戒厳重な門だ。通常は使われないこの門の前に来るのはこれが二度目になる。

 最初の時ほどでは無いが、やはり少しは緊張する。待ち合わせていた近衛騎士のエーリッヒと落ち合って門を潜ると、その先には、白い小さな家が上品に建っている。

 ただの高級住宅ではない。ここはリーデンハイゼルの国王一家の私邸なのだ。


 案内された先は、二階の奥にある広々とした部屋だった。大きく開かれた窓の先には王宮の公に使われている部分、議事堂が見えている。そして窓際のテーブルでは、部屋の主が優雅にお茶を飲んでいた。

 第二王子のスヴェイン。まさか、とは思ったが、こうして本人がいるからには、確かに呼び出しの主は彼なのだろう。

 「やぁ来たか」

 「来ましたよ。お呼び立てでしたから」

入り口で足を止め、イヴァンは気をつけの格好をした。一応は、それが正式な作法のはずだった。目上の立場の人の部屋に入る時は、入り口で待つこと。学校で習った実技の一つだ。

 そんな彼を、扉の反対側に立っている初対面の騎士が面白そうに眺めている。覚えの無い顔だが、腰に下げている剣の房飾りからして、十二人いる近衛騎士の一人だろう。

 「でも何で、わざわざ俺を? つか、ここって本当は来客を入れる場所じゃないんじゃ…」

 「まぁ硬いこと言うなって。いちどゆっくり話をしてみたかったんだよ。今日は公務じゃなくて私用だ。」

扉の脇で、エーリッヒが静かに咳払いした。

 「スヴェイン様、その言い方ですと面目が立ちません。たとえ実質は『ヒマだったから何となく』であっても、表向きは、例の事件後の聞き取りということになっていますので、そのおつもりで。」

 「……。」

イヴァンは、頬をかいた。

 「あのー、そんな理由で俺の休日を?」

 「いいだろう? どうせ用事無いんだろうし」

 「まあ無いですけど」

本当を言えば、作ろうと思えば用事は作れた。が、敢えてそのことは黙っておいた。他ならぬスヴェイン――アルヴィスの兄の呼び出しだ。それに、王位継承権を剥奪されたとはいえ、彼は今でも、れっきとしたこの国の王子だった。


 促されて、イヴァンは呼び出しの主の向かいの椅子に腰を下ろした。

 「ついでだから紹介しておこう。そこにいる無愛想な奴はユアン・グレイブ。見てのとおり近衛騎士の一人で、謹慎中のワンデルに代わって、ぼくの監視役を勤めてくれている。」

ユアンは、静かに頭を下げた。ほっそりして見た目は女性のようでもあるが、この役職にいるからには、腕前は確かなものに違いない。

 それにしても、今までに見てきた近衛騎士は、一部を除いて皆、やけに絵になる見た目をしている。それも採用される条件なのだろうか。

 「ワンデルが謹慎って、どういうことなんですか」

 「職務怠慢の罪状。ぼくが前国王陛下から離反するのを制止できなかった、かつ、それを報告せず傍観していた、という罪だ」

さらりと言って、彼は机の端に頬杖を付く。

 「あいつには迷惑をかけてしまったな。…こうなるのは当然のことだったのに、あの頃のぼくは、そこまで考えが至らなかったんだ」

 「クビにはならずに済むんですか」

 「そうなるように努力はしているが、あいつは実は見た目によらずけっこうな歳でな。本人は、そろそろ引退してもいいと言っている。ま、とりあえず今は処分保留の状態だ。かく言う、ぼくも監視されてる身なんでね」

そう言ってちらりと視線をユアンのほうに向けるが、当のユアンは、聞いていないような顔をして視線を合わせようとしない。

 「というわけで、家から出られなくて退屈しているところなんだ。手紙も書けないし、遊びに行けないし、パーティーも開けないし」

 「……。」

 「冗談だよ。ああいうのはもう懲りた。おべっか使われてるのが分かってて気づかないバカのふりをするのは疲れる。」

真面目な顔になると、スヴェインはまるきり兄のシグルズと区別が付かない。見た目だけでなく、声の調子まで似ているのだ。イヴァンは、目の前で話をしているのが本当はどちらなのか、だんだん自信が無くなってきてしまった。

 「アレクシス様は、どうなさっているんですか」

 「王都にいたんじゃ体裁が良くないからと、今はサウディードに行ってる。アルのたっての頼みもあってね。…クロン鉱石を使った兵器の研究の件、聞いているか」

イヴァンは、頷いた。

 王国議会で再会した日に、”下の町”でアルヴィスが言っていたことだ。

 「あの兵器を防ぐ防具を作りたくて、試作品を作ったり、耐久試験をしたりしてるらしい。ま、サウディードなら外に情報が漏れる可能性は限りなく低いし、元国王が自ら研究の指揮を取るんなら、問題も少ないだろうね。」

 「アルは、クロン鉱石の汚染を取り除く研究をすると言っていました」

 「そう、そっちはクローナで進んでいる。メネリク殿も、引退されて研究に注力出来ると大喜びさ。西方では、リンドガルトに作られてたヴェニエルの息のかかった連中の拠点は全て潰したが、さすがに兵器の全ては押収出来なかったと聞く。逃げた連中もいるとかで、アストゥールのどこかに潜伏してる可能性もあるんだ。はぁ、これから一体、どうなるんだろう。アルの言うとおり、これで全てが終わったなんて思わないほうがいいんだろうな。」

スヴェインは、そう言ってため息をついた。


 建物の中は静かで、彼以外の誰かがいる気配は無い。当たり前といえば、当たり前だ。残りの家族は、国王になった長兄のシグルズと、王国議会が終わったばかりの議長エカチェリーテ。こんな真っ昼間からのんびりしていられるほど、暇な職業ではない。

 「スヴェイン様、暇ってことは今、無職なんですか」

 「あはは、直球で聞いてくるな! 君のそういうところは好きだぞ。これでも、たまにはシグルズの仕事を手伝ってはいる。家に持って帰ってきたぶんだけ、こっそりね」

そう言って、彼はいたずらっぽく笑った。「内緒だけど。」

 内緒というわりには、テーブルの脇には機密書類らしきものがどっさり積まれている。それらの幾つかには、おそらくスヴェインがやったのだろう、訂正を入れたり承認のサインをした跡があったりするが、イヴァンは気がつかなかったふりをすることにした。


 公には、スヴェイン王子は不届きな貴族たちに”名前と立場を利用され”、”騙され”、”軟禁されていた”ということになっている。

 それは逆に言えば、潔斎けっさい期間を置いてしばらく後には無罪放免とするための方便だった。最も、それは完全な嘘では無い。最終的に、事態はスヴェインの意図したところとは全く異なる場所に辿り着いていたのだし、主犯格のヴェニエル侯爵が最初から彼を人質として利用するつもりだったのは、既に本人の自白によって明らかになっている。

 「そういえば、君とは初対面の時に色々あったよなぁ」

ふと思い出したように、スヴェインは、陽気に笑う

 「体当たりで茂みに突っ込まされたの、あれは面白かったなあ~」

 「…そんなこと、しましたっけ?」

 「したよ! ネス港の手前で、ほら。宴会してた時さ」

 「あー…うん? うん…いや、無理やり飲まされた酒のせいで覚えてないです」

 「嘘だろ~?」

 「こほん」

後ろで、エーリッヒが小さく咳払いする。

 「あっ…と。この話はぼくも叱られるやつだな。今のはナシ」

 「……。」

ユアンは、含み笑いを浮かべてそっぽを向いている。


 気を取り直し、イヴァンは、真面目な顔に戻って話題を変えた。

 「そういえば――聞いてもいいのか分かりませんが、牢屋に入っている、あの時の貴族たちは、これからどうなるんですか?」

 「関わった度合いによって扱いは変わるな。どうしてそれが気になる?」

 「あ、いや」

イヴァンは焦った。

 「…その人たちにも家族とかいるんだろうなって。いつまで捕まってるんだろう、とか」

 「家族か。騎士団本部にいるご婦人方に何か頼まれでもしたのかな?」

スヴェインは、やけに鋭い。

 「頼まれたわけじゃないんですけど、騎士団のシーザが迷惑がってたから。なんか派手な格好した人も見かけましたし…」

 「ああ、ホランド子爵婦人?」

それも知っているらしい。

 「あの人は確かに、ぼくも苦手だな。事件の直後に娘二人を連れて王都に乗り込んで来て、泣き喚いて、ヒステリー起こしてひっくり返ってさ。強制退去の挙句に騎士団本部で預かってもらうことにしたんだ。迷惑だが罪を犯したわけでもないから、牢屋には入れられないしね。ああ、…そういや、あの人が騎士団預かりの第一号か」

 「何人くらいいるんですか、あそこに」

 「ざっと二十人くらいかな。嘆願書を持って乗り込んできたご婦人もいる。ま、いくら女の涙でも、こればっかりは情状酌量というわけにも行かないからね。」

あのナタリアも泣きながら王宮に乗り込んだりしたのだろうか、とイヴァンは思った。とても、そんな風には見えなかったが。

 「取調べは進んでいるよ。すんなり自白して逃亡の危険がない者、あるいは関与の薄かった者は、順次、解放していくつもりだ。高齢者なんかもね」

 「そう、ですか…。」

それなら、きっとナタリアの父親も、そう遠くない日に解放されるはずだ。

 「そういや、騎士団との訓練はどうなんだ? 団長のエルネストがしきりと君を欲しがってたが、卒業後に騎士団に入るつもりは?」

 「まさか。俺にはああいうの、無理ですよ」

即答だ。

 「あそこの訓練に参加してるのは、仲間の付き合い。あと、強い人たちと練習出来るのはやっぱり楽しいから、かな。卒業したらサーレに戻ります。待ってくれてる奴らもいるから」

 「…そうか。残念だな」

僅かな沈黙が落ちた。少し考えたあと、スヴェインは再び、口を開く。

 「サーレに戻るなら、リンドガルトとの関係構築に君の力を借りられそうだな。獣人リンドは森の民だ。堅苦しい騎士や、興味本位で引っ掻き回す学者よりは、君のような森に慣れ親しんだ人間のほうが仲良くなりやすいかもしれない」

 「それは、もちろん。またいつか遊びに行くと約束してますし」

 「心強いな」

くすっと笑って、スヴェインはティーカップの端を指で軽く撫でた。

 「で、さ。学校の話で何か面白いのはない? 外の話は全然入って来ないから――」




 それからたっぷり数時間、イヴァンは、求められるままに雑談に付き合った。スヴェインはほとんど自分から話をせず、イヴァンの語るままに任せておいた。おそらく本当にただの話し相手だったのだろう。名目上は”謹慎中”である以上、家の中にずっといて退屈なのかもしれなかった。

 別れ際、スヴェインはいたずらっぽく笑ってイヴァンに耳打ちした。

 「今度来る時は、お菓子でも用意しとくよ。」

 「…またあるんですか、これ」

 「退屈病が我慢出来なくなったらね。そうなる前に、謹慎処分が解けるといいんだけど。」

部屋を出る時も、エーリッヒが見送りに来てくれた。

 「なんか、最初見た時と全然、印象違うなあ…」

思わず呟いたイヴァンに、エーリッヒは至極真面目な顔で答える。

 「スヴェイン様は、素だと、いつもああいう方ですよ。」

 「あんた、よく知ってんだな」

 「ええ。十年前、見習いだった頃からお側で見ていましたからね」

簡潔な言葉だが、それは、彼もまた、国王一家の暗殺未遂事件の関係者であることを示唆していた。

 「…君は打算というものを知らない、数少ない人間だ。それが、あの方にとっては気安いのだろう。面倒でも、また付き合って差し上げてくれ」

 「ああ。それは、勿論」

門を出て町に向かって歩きながら、イヴァンはふと、白い息をひとつ吐いて、空を見上げた。

 (ネイリス男爵がいつ解放されるのかくらい、聞いてれば良かったかなぁ…。)

たぶん、スヴェインならそれくらいは知っていたはずなのだ。部屋に無造作に積み上げられていた書類は、貴族たちの裁判記録のようにもも見えた。もしかしたら、あの中にその情報もあったかもしれないのだ。

 だが、聞けば、誰に頼まれたのかと疑われるだろう。もしかすると、ナタリアと接触したことが知られてしまうかもしれない。

 それは避けたかった。

 既に彼女をかんかんに怒らせてしまった後だ。これ以上、余計なことはしたくない。


 『深入りするなよ。』


アステルの声が蘇ってくる。

 深入りなど、するつもりはなかった。ただ―― あの、近づくものを全て拒絶するような、それでいて何も恐れていないような大きな瞳が、脳裏にこびりついて離れないだけなのだ。




 あと何日かで、冬休みが訪れる。

 その日、イヴァンはエデルの買い物に付き合って、放課後の町に買い物に出ていた。エデルは冬休みには実家に帰るという。それで、本屋の仕事で稼いだお金で、家族に何か贈り物を買って帰りたいというのだ。品選びを手伝って欲しいのだという。

 最も、イヴァンにはエデルの家族がどんなものを欲しがるのか想像がつかない。彼自身、家族に贈り物などしたことがなかった。

 「母さんと妹にね、何か王都の都会っぽいものを贈りたいんだ」

いつも働いている本屋のある洒落た通りを歩きながら、彼は言う。

 「どんなものがいいかな…腕輪とか…置物とか」

 「うちで働いてる女の子たちは装飾品が好きだな。彼氏に首飾り貰った! とか、いつもキャアキャア騒いでるぞ」

 「装飾品かあ…。母さんはいいかもしれないけど、妹はまだ七歳なんだよね。リボンあたりにしようかな…」

店を覗きながら歩いていると、ぱらぱらと石畳に叩きつけるような音がした。学校を出る時に既に雲っていた空模様が完全に崩れて、雨が降り始めたのだ。

 「うわっ、降って来ちゃった」

二人は慌てて近くの店の軒先に避難する。通りを歩いていた人々も同じように、軒先に避難したり、大急ぎで走り出したりしている。

 辺りはあっという間に真っ暗になり、流れ落ちる雨は滝のようだ。みぞれ混じりの冷たい冬の雨の中を、敢えて濡れていこうとする者は少ない。

 「まいったな、こりゃ止むまで戻れそうに無いな」

 「うん…あ、でもこの店いいかも」

振り返ったエデルは、通りに向けて作られたガラス張りの飾り棚に張り付いている。かわいらしい小物がたくさん並んでいる。

 「ちょっと見て行こうと思うんだけど」

 「ああ…」

振り返りかけたイヴァンは、視界の端に見覚えのある姿が見えたのに気が付いた。ナタリアだ。向かいの道を、ぼんやりした表情で通り過ぎようとしている。服は地味だが、今日は、髪の毛は丁寧に編みこんでゆわえている。

 「エデル、俺、行くところ思い出した。ちょっと抜けるな」

 「え?」

 「悪い」

言い残して、彼は雨の叩きつける通りを駆け渡った。

 わずかな時間だというのに、頭からずぶぬれだ。髪についた水滴を振り払って、彼は人ごみの中を去ってゆこうとしている後姿に声をかけた。

 「ナタリア!」

だが、彼女は振り返ろうとしない。

 「ナタリアってば」

隣まで行って顔を覗き込んで、ようやく彼女は我に返った。立ち止まって数秒、考え込むような間があった。

 「…イヴァン?」

 「そうだよ。何、忘れてたの」

てっきり無視されているのかと思ったら、それよりも酷かった。

 相手ががっかりしたような顔になるの気づいて、ナタリアは表情を取り繕いながら冷たく言った。

 「考え事をしてたの。思い出すのに時間がかかっただけよ。忘れるわけないでしょう」

 「…そっか」

 「何の用?」

 「あーいや、こないだのこと謝ろうと思って…」

 「こないだ?」

また、しばらくの間が合った。

 「…まさか、それも忘れてた?」

 「忘れてはいないけど…、」困ったような顔になる。「あれは…私のほうが謝ったほうがいいのではなくて?」

 「いや、怒らせたのは俺だから。」

女性と喧嘩した時は、たとえ自分に非があってもまずは自分から謝れ、とは、父ならずも館にいたすべての男性陣が口を揃えて言う”人付き合いの極意”だ。

 背後で雨の音が激しさを増していく。イヴァンは、ナタリアの肩がびしょぬれになっていることに気が付いた。雨の中をここまで濡れながら歩いてきたのだ。

 「何か暖かいものでも飲んでかないか? 奢るよ。どうせ雨が止むまで帰れないし」

 「雨…ああ、そうね」

ナタリアは、肩のあたりに垂れた髪の手をやった。ようやく自分がずぶ濡れなことに気が付いたらしい。何か様子がおかしかった。

 「じゃあ、そこに」

 近くの店に腰を落ち着けたあと、イヴァンは、向かいの席の少女の様子をそれとなく伺った。怒っているわけでもなさそうだが、それにしてはやけに静かだ。

 「なんか顔色悪いんだけど…体の具合でも悪いのか? ちゃんと飯食ってんのか」

 「ええ。今のところ健康だし」

そっけない。

 「君はいつも元気そうね」

 「まあ、それしか取り得ないしな。」

 「……。」

会話が続かない。

 「あ、ケーキとかあるみたいだし食べたかったら注文してもいいぜ」

 「いらない。自分で焼くから」

 「…そっか」

品書きを畳み、イヴァンは、とりあえず温かいお茶だけを注文した。ナタリアは物憂げな表情で窓の外に視線を彷徨わせている。

 「なあ、あんた騎士団本部に来てるってことは、家族が牢屋に捕まってるんだよな」

 「ええ、父が。家族は私しかいないので」

ナタリアの言葉は硬かったが、その話を始めた途端、今日はじめて、彼女の表情が動いた。

 「せめて近くでお世話がしたかったのよ。でもそれも許可してもらえなかった」

 「世話ったって…牢屋の中だろ? いや待てよ、偉い人の牢屋ってやっぱり豪華なのかな…知らないけど」

 「個室よ。思ってたよりはマシな環境だった。でも、夜は冷えるのに、ストーブも置かせてもらえないの」

何故知っているのだろうと思うより前に、彼女は付け足した。

 「今日、面会日だったの」

 それで、様子がおかしかったのだ。ナタリアは視線を彷徨わせたまま、肩に垂れている編んだ毛の一方を無意識にいじっている。

 「裁判は時間がかかるらしいわ。最短でも半年。父は老齢だから、厳しい取調べなんてされたら体が保つか分からなくて。――本当なら処刑されても文句は言えない立場だものね。心配するなって言われたけれど、この先、どうなるのかと思って…」

 「処刑なんて、んなことしねーよ。高齢者は早めに解放するって言ってたし」

思わず口走ってしまってから、イヴァンははっとして口元に手をやった。ナタリアの大きな瞳が、訝しげにじっとこちらを見つめている。

 「あー、その…聞いた話なんだけどさ」

 「そう。あなたなら知っててもおかしくないわね。陛下のお気に入りですもの」

 「いや、違うんだって。スヴェイン殿下がヒマしてたから、たまたま聞いて」

 「……。」

 「…ほんと、そういうんじゃないんだって」

 「……。」

ナタリアが溜息をついたとき、ちょうど、お茶が運ばれて来た。だが、いい香りのする白い湯気も、微妙な気まずさを消すには不十分だ。

 「俺は何も出来ないけど、親父さんが早く出てこられることを祈ってるよ。」

それだけ言うのが精一杯だった。

 (警戒されるのは当たり前だ。彼女の父親とは、あの時、敵同士だったんだから)

気まずいお茶の時間を終えた帰り道、雨は止んで明るい夕陽が濡れた石畳の上を照らしている。

 雲の切れ間が覗いても、イヴァン気分は晴れなかった。


 アステルの父親。ナタリアの父親。

 無我夢中で戦っていたあの時は、相手が誰かなど考えてもみなかった。誰かの身内かもしれない、とか、敵にも家族がいるかも知れない、とか、そんなことを思う余裕など持てなかった。自分が生き残ることが精一杯で、自分の大切な人たちを守りたいと思う気持ちだけで。

 (――もし、俺があの子の父親を殺していたら、こんなもんじゃ済まなかったんだろうな)

イヴァンは、腰の剣に手を遣った。

 (でも、だとしても、もう一度あの戦場をやり直すことになったとしたら、――俺は、同じように戦う)

きっと眼差しを上げ、彼は、正面を見て歩記出す。


 そう、悔いなどない。

 生きて戻ること、それは絶対の約束だった。


 命を賭して向き合う覚悟がないならば、武器を手に戦場に出てはならない。そしてひとたび戦場に出たからには、殺そうと、殺されようと、全ての責任は自らが背負うのだ。

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