第39話 焼き菓子とパイ生地

 王都に来てから、もうすぐ丸一年になろうとしている。春は、騎士学校の生徒たちにとっては進級の季節だ。

 進級試験の座学の成績は赤点すれすれだったものの、イヴァンも、何とか仲間たちとともに進級は出来た。今年の春に入学していた新入生たちも生活に馴れ、校舎の中には賑やかな声が響き渡っている。間もなく、次の新入生もやって来る。後輩ができるのだ。

 「良かったよ、イヴァンが進級できてさ。どうなるかと冷や冷やしてたんだから」

 「あれだけ休学してたくせに、よく頑張った」

いつもの仲間たち、エデルとアステルは、そう言って感心していた。

 「まあ、実地研修してたみたいなもんだしさ。実際、あちこち周って覚えたこともある…。」

少なくとも、地理と歴史については、アルヴィスたちとの旅のお陰で覚えた知識が大きい。


 教室を出ようとしていたイヴァンは、入り口のところで受付の女性に呼び止められた。

 「サーレさん、言伝が届いていますよ」

 「誰からですか?」

 「名前は聞いていませんが、騎士団の方のお使いでした」

またか、と思いながら、彼は差し出されたメモを受け取った。

 このところ、しきりと呼び出しが来る。メモを開くと、見覚えのある字で「放課後に騎士団の訓練場で」とある。

 「何? またシンディさんなの」

後ろからエデルがひょいと覗き込む。ここのところエデルは急速に背を伸ばしていて、いっこうに背丈の変わらないイヴァンとの差は開くばかりだ。

 「そうっぽい。アステル、お前は強制参加な」

 「えぇ…」

 「エデル、お前はどうする?」

 「あ、えーと、おれは、今日は遠慮するよ」

エデルは視線を泳がせている。

 「傷だらけになってるとほら、…本屋のほうの仕事に差し支えるから」

 「そのうち本屋に押しかけられても知らないぜ」

 「勘弁してよ、もう」

エデルが本気の悲鳴を上げ、イヴァンが笑い出す。

 あれ以来、近衛騎士のシンディは、何かにつけてイヴァンとアステルを呼び出してくる。

 かつての上司でもあるヘイミルが校長をつとめる騎士学校に毎回乗り込むのは具合が悪いと思ったのか、最近では、中央騎士団の訓練場に呼び出されることが多い。

 もっとも、その場合、彼女が相手をするのは二人だけではなく現役の騎士たちも含まれるのだが。

 ――騎士たちの中でも最高峰にあたる近衛騎士が直々に訓練をつけてくれるとあって、一部の怖いもの知らずな訓練生には人気の場なのだという。ただしアステルに言わせれば、それには単に強くなりたいというわけではなく、別の目的があるらしい。彼曰く、「色ボケで命を危険に晒すのは、よほどばかな男だけ」だそうだが。




 放課後、イヴァンはいつものようにアステルと二人で連れ立って、中央騎士団の本部に来ていた。他には、付いて行きたいと希望した数名の生徒たちも一緒だ。

 みな、学校の制服のままだ。黒い上下の揃いの服を着た少年たちが騎士団本部に出入りしているも、最近では珍しい光景ではなくなった。

 「よく来た」

訓練場では、シンディが待ち構えていた。

 既にいくらか騎士たちの訓練を進めていたらしく、周りにはいつものごとく息も絶え絶えになっている現役の騎士たちが転がっている。噂だけ聞いて見るのは初めての生徒たちは早くも青ざめているが、イヴァンとアステルだけは、馴れた様子だ。

 「今日はどうするんだ? いつも通り?」

 「うむ」

黒髪の美女が鷹揚に頷く。「一緒でいい」

 「んじゃそれで。」

上着を近くのベンチに放り投げると、イヴァンは剣を抜いた。左手の剣はハザル人の刀工が作った真っ黒な刃。右手は父から貰ったサーレ領の紋章入りの白い刃。対照的な二本の剣が体の脇に構えられる。少し遅れて、アステルも自分の、やや大振りな剣を抜いた。

 「最初は俺らが二人でいくから、お前らは様子見て適当に入って来い」

他の生徒たちのほうを振り返ってそう言ってから、イヴァンは、ひと呼吸おいて走り出した。シンディが嬉しそうに笑い、腰を低く屈めて自分のナイフを抜く。――そこにいつもの房飾りが付いていないのは、これが公務ではないからだ。これは、彼女にとっては、完全の趣味の世界、ということだろう。

 打ち合う刃の音は軽く、ほとんど受け流しあっているようだ。アストルが加わっても、彼女は全く顔色を変えない。ほとんど立ち位置を変えないまま、攻撃を次々と受け流していく。

 それが、この一風変わった暗殺者めいた剣士の得意技なのだった。

 うかつに深く打ち込めば、勢いはそのまま自分への反撃となって返ってくる。かといって浅く打ち込んでいては勝負がつかず、疲弊している間に隙を突かれる。鉄壁の防御を崩す隙は、よほど強引に作らない限り見つからない。


 一緒に戦っているアステルを見ながら、イヴァンは、上達したなと心の中で思った。

 最初に戦ったのは、去年の入学したての頃の授業だった。あの頃のアステルは力任せに剣を打ち下ろすだけで、攻撃が単調になりがちだったし、防御もあまり考えていなかった。それが今では、攻撃に変化をつけられるようになり、シンディに致命傷を喰らわない程度には防御も出来るようになっている。

 「どうしたイヴァン、もうちょっと本気出す」

じろりとシンディが睨んできた。

 「あー、バレた?」

 「当然。分かる」

鋭く突き出されたナイフをひょいと避け、イヴァンは数歩後ろへ下がった。入れ替わるように、他の生徒たちが、わっとシンディに襲い掛かっていく。

 「ちょっと休憩! 直ぐ戻ってくるから」

 「逃げたら怒る」

 「逃げねぇよ!」

笑いながら、彼は奥の建物のほうへと小走りに去って行く。ここに来るのも、もう何度目かで、どこに何があるのかはだいたい分かっているのだ。

 建物の影に入ったところで、イヴァンは額に滲んだ汗を拭い、剣を鞘に収めた。

 「さて、と」

小用を足す場所へと歩き出そうとしていたとき、ふいに、嗅いだ事の無い良い香りがどこからともなく漂ってきた。甘酸っぱいような、香ばしいような。

 振り返ると、廊下の端の木戸がわずかに開いていた。そちらには厨房があるはずだ。だが、夕食を作っているにしては時間が中途半端だ。


 覗き込むと、厨房の中には一人しかいなかった。竈から取り出した料理に、せっせと何か飾りつけをしている女性の後姿がある。

 「…何を作ってるんだ?」

 「きゃっ」

思いがけず、若い悲鳴が上がった。振り返ったのは、大きなハシバミ色の瞳をした少女だった。たぶん、年はティアーナよりは少し下だろう。手が小麦粉だらけになっている。

 「あー、驚かせて悪い。いい匂いがしたから、ちょっと覗いてみたんだ。…それ何?」

 「りんごパイ…だけど、りんごが無かったから、別の果物で焼いてみたの…」

少女は警戒したような表情で、口調も固い。

 「あなた誰? 騎士団の人じゃないでしょう」

 「ああ、練習に来てる騎士学校の生徒だよ。ここじゃ、騎士におやつの支給もあんのか?」

少女はかぶりを振った。

 「…これは自分用。ただの趣味」

 「ふーん」

 「もう行ったほうがいいんじゃない? 学生さんが、あんまり勝手にうろうろするものじゃないわ」

 「おっと、そうだった。んじゃな」

戸をきちんと閉めると、彼は厨房を後にした。

 歩き出してもまでしばらくは、背後に強い警戒の視線が突き刺さってくるようだった。知らない人物が不用意に近づくことを断固として許さない、拒絶の視線。しかしそれは、小動物が怯えている時のようなものとは違っていた。

 彼女自身の誇りから来る凛としたもの。きっと、それなりの家柄の出身なのだろう。厨房で粉だらけになっていてさえ、少女は無意識に自らの地位を主張し続けていた。




 次に同じ少女を見かけたのは、その週の終わり、学校が休みの日のことだった。仲間らしい、ほかの年齢のばらばらな女性たちと一緒に騎士団本部の中庭を歩いているところを見かけたのだ。

 「…あの人たちって、下働きじゃないよな?」

 「え?」

隣にいたシーザが顔を上げる。

 今日は、シンディが来ていない。騎士団の通常どおりの稽古に付き合っているだけだから、一対一の勝負で、順番待ちの最中だ。

 「ああ、あれは例の事件で公判中の貴族の家の女性たちで…。たとえばほら、あそこの派手なご婦人はホランド子爵の奥方ですね」

シーザが指したのは、女性たちの一群の中心にいる派手な女性だった。男だらけの騎士団本部の中では場違いなほど派手な、色鮮やかな紫色のドレスを着ている。

 「旦那さんが牢に入れられてて、領地も没収されてるんで行くとこがないらしいです。で、王宮には入れないから、騎士団本部で護衛とお目付け役も兼ねて預かってるんです。」

 「あれ全部?」

 「あれ全部。ほんともうどうにかして欲しいんですよ、うちは宿屋じゃないですし。若い団員の風紀も心配で――」

 「シーザ、次」

呼ばれて、シーザの愚痴は途中で切れてしまった。反対側の列に並んでいた先頭の騎士が進み出て、シーザと向き合って互いに一礼する。白墨で引かれた輪の中で同僚の騎士と打ち合っているシーザは、決して弱くはなかった。

 (多分、ここじゃ使えるほうなんだろうな)

でなければ、ベオルフが旅の供に選ぶとは思えない。

 だが、手練のシンディの動きを見慣れてしまうと、それさえも妙に遅く感じる。それに、ほんの何ヶ月か前に経験した王都前の戦場は、こんなものではなかった。


 あの時、何があったのかを、イヴァンははっきり覚えていない。

 襲い掛かってくる者はすべて倒し、無我夢中で戦場を駆け抜けただけだ。後から聞いた話によれば、”白黒の二本の角を持つ雄牛が貴族側の陣のど真ん中現われて、すべてを蹂躙していった”ことになっているらしい。――どうやら噂話につく尾ひれは多ければ多いほどウケるらしかった。

 シーザが相手の剣を叩き落す。はっとした顔になったものの、相手の騎士は礼儀正しく一礼し、負けを認めて剣を手に引き上げていく。

 「イヴァン、お前は二人同時だ」

訓練を取り仕切っている中央騎士団の騎士団長、エルネスト・クラウフェル――最近知ったことだが、騎士学校の校長ヘイミルの息子らしい――が告げる。

 「またですか?」

 「三人相手に出来たら近衛騎士になってもいいぞ」

どっと笑いが起きる。

 「…勘弁してくださいよ。」

 「冗談だ。お前だと礼儀作法の試験で落ちるだろうしな」

イヴァンは、頭をかきながら白墨の円陣の中に入る。

 ふと視線を感じて顔を上げると、さっき見えた、中庭を横切ろうとしていた女性たちの一部がそこに留まって、こちらを見ているのに気が付いた。その中に、警戒心の強い、拒絶の眼差しをもつ大きな瞳がある。パイを焼いていたあの少女だ。

 イヴァンが視線を向けている先に気づいて、エルネストがにやりとした。

 「お前ら、ご婦人方の前で学生相手に惨めな負け方はするなよ! 負けてもいいが、せめて五分はもたせろ。」

 「団長、負ける前提なんですか…」

 「だったら一本取ってみろ。始め!」

遠くに気を取られていたイヴァンは、僅かに反応が遅れた。

 だが、そのくらいは大した問題ではなかった。剣を抜きながら、彼は、向かって来るずっと年かさの騎士たちのほうを見た。いつもなら先輩の顔をたてて五分ぎりぎりまで粘ったりもするのだが、不思議に、今日くらいは本気を出してもいい気がしていた。




 日が傾き、訓練は終わった。

 他の騎士たちと別れ、学校に戻る前に顔を洗おうと水場に向かっていた彼は、途中の中庭の端に佇んでいる少女の姿に気づいて足を止めた。他の女性たちの姿はもう無い。いるのは、彼女一人だ。

 「ああ、えっと――」

 「ナタリア・ネイリスよ。強いのね、君」

それだけ言うために待っていたのだろうか。怪訝そうな顔をしているイヴァンを見て、彼女は後ろ手に持っていた籠を差し出した。

 「これあげる。一人で全部食べられそうに無いし、こないだ欲しそうにしてたから」

 「え?」

 「じゃあね」

肩まである癖毛をふわりとたなびかせ、背を向けると、彼女はそれきり振り返りもせずに足早に去っていってしまった。イヴァンは首をかしげながら籠にかけられた布覆いの下を覗いた。とたんに、香ばしい香りがふわりと漂う。

 「あ…」

パイと焼き菓子が、籠いっぱいに詰まっている。

 (どんだけ作ってるんだよ…)

思わず苦笑して、彼はひときれ口に運んだ。匂いと同じ甘酸っぱい味が口の中一杯に広がる。

 (美味い)

運動したあとでちょうど腹が減っているのもあったが、それを差し引いても美味しかった。

 夢中で菓子を貪りながら、相手の名前は聞いたのに自分のほうが名乗っていなかったことを今さらのように思い出したが、後の祭りだ。

 (…ま、いっか。この籠返しにいくときにでも)

暢気に考えながら、水場へ向かって歩き出す。

 その時のイヴァンは、ナタリアと名乗るその少女がなぜ騎士団本部に居るのかなど、あまり深く考えてはいなかった。




 「…騎士団本部にいた女の子に貰った?」

食堂で、夕食のあと持ち帰った焼き菓子のおすそ分けをしながら理由を話していたとき、アステルは微かに眉を寄せた。

 「裁判中の貴族の家人だろ、それ」

 「ああ、そう聞いた」

 「聞いた、って。お前なぁ」

机の上に身を乗り出し、アステルは声を潜める。

 「クローナ公に協力して、旧貴族の反乱の証拠を掴んだのはお前だよな? で、貴族どもの戦線を引っ掻き回して戦功を上げたのもお前なんじゃなかったのか? 向こうからしたら憎い仇なんだぞ、分かってるのか」

 「あー…え? 何で?」

 「何でって。お前は国王側で、その子の家はヴェニエルたち反国王側で戦ったんだよ。ったく、とぼけた顔しやがって」

アステルは、ぽかんとしているイヴァンの鼻先に指を突きつけた。

 「毒でも盛られてたらどうするつもりだったんだよ」

 「んな意味無いことしねぇだろ。俺に毒食わせたって何がどうなるもんじゃないし」

言いながら、イヴァンは籠から焼き菓子をとって口に運んでいる。アステルは、深い溜息をついて席に腰を下ろした。

 「うまいぞ、食わないのか」

 「食べるよ。もうお前が散々毒味した後みたいだし。ていうか、大貴族の子息が知らない人に菓子貰って疑いもせず食うなよ」

 「知らない人じゃないだろ、騎士団本部にいるんだし」

 「そういう問題じゃ…」

言いかけて、彼は口をつぐんだ。イヴァンの前では、大抵のことが問題にならないのは、これまでの付き合いでわかっているからだ。

 溜め息をつきつつ、アステルは、焼き菓子のひとつを口に運ぶ。

 「…ん、確かに美味しいなこれ」

 「だろ? エデルもいれば良かったんだけどな」

そのエデルは、今日は本屋の仕事が遅くまでかかるらしかった。進級しても、彼は学校が休みの日は一日、あの赤い看板の店で働いているのだった。

 それに、居ないのはエデルだけではない。生徒たちが町に繰り出す休日の食堂は、相変わらず人がまばらだった。

 「菓子をくれた相手の名前は聞いたのか」

 「ナタリア・ネイリスって言ってた。知ってるか?」

 「ネイリス… ネイリスって確か、東の内陸の男爵だな。旧エスタードの系統。」

 「さすが詳しいな」

 「領地持ちの貴族の名前くらいは知ってるよ。名前だけだけどな」

パイを切り分けて頬張りながら、イヴァンは、ふと何かに気づいたようだった。

 「…そうか、あの子の父親か誰かも、あの日、下の町のほうにいたのか」

 「今更かよ」

アステルは呆れ顔になった。

 「反国王側なんだから当然そうだろ。アレクシス様に退位を迫った陣営だ。で、そのナタリアって子が中央騎士団の本部にいるんなら、当主のネイリス男爵は王都の牢屋の中ってわけだ。」

 「ふむ」

イヴァンはかけらを飲み込み、真面目な顔になった。

 「…領地没収だっけ。いつ出られるのかな」

 「そんなのオレに聞くなよ。知ってるならお前のほうだ」

 「俺だって知らねぇよ。裁判とかの話は全然聞いてない。」

知っていることといえば町の噂、それに、時たまベオルフやシンディなど知己の騎士たちが漏らす話くらいだった。それも、個々の貴族たちの処遇のような細かな情報ではなかった。

 「あんまり深入りするなよ」

アステルが釘を刺す。

 「深入りって何だよ。余計なことはしないよ」

 「だと、いいんだけどな」

溜息をついて、彼は空になった夕食の食器を手に席を立った。

 「今やお前は、有名人なんだからな。少しは、気をつけろよ。」

 「へいへい」

甘い菓子の匂いが漂う。籠の底に残ったものをすべて平らげてしまうと、イヴァンも席を立つ。

 気をつけろといわれても、一体何にどう気をつければいいのか分からなかった。分からないといえば、あの少女のこともだ。ほとんど初対面だというのに、一体どうして菓子などくれたのだろう。それに、貴族の家の娘なら、なぜ台所で料理などしていたのだろう…?




 翌日、イヴァンは再び中央騎士団の本部を訪れていた。

 ナタリアに籠を返す以外に特に用は無かったのだが、すっかり顔見知りになった守衛は理由も聞かずにあっさりイヴァンを中に招き入れた。

 本部も、今日は珍しく静かだ。訓練の無い日の前庭はがらんとして、馬の世話を兼ねて乗り回している騎兵団員の姿があるくらいだ。

 どこに行けば昨日の少女に会えるのかは分からなかったが、足は、何となく最初に出会った厨房に向いていた。窓からは今日もいい匂いが漂ってくる。爪先立ちをして覗いてみると、竈の前で生地を型にはめようとしているナタリアの姿が見えた。

 視線に気づいた少女が顔を上げ、一瞬、悲鳴を上げそうになったが、すんでのところで口を閉ざす。

 「…いつの間に? どこから入ってきたの」

 「正面玄関からだよ。あー、これ返しに来たんだけど。」

窓ごしに差し出した籠を、少女は何故か、やや、むっとした様子で受け取る。

 「あの量を一晩で全部食べるなんて…どれだけ食いしん坊なのよ」

 「学校の友達と一緒に食ったんだよ。美味かったぜ」

 「それを言いにわざわざ? 呆れた。腹下しでも盛っておけば良かったわ」

背を向けて、乱暴に籠を机に置きながら呟く。

 「…名乗ったんだから、少しくらい疑ってくれても良かったのに」

 「そうだ。あの時、俺、名前言って無かったよな。俺は――」

 「知ってるわ。イヴァン・サーレでしょ。何の歴史もない西の辺境の新興貴族で、前王と今王のお気に入り。」

イヴァンは目をしばたかせた。

 「えっと…? 王様と話くらいはしたことあるけど、別にお気に入りってわけじゃ」

 「世間ではそういうことになってるの。クローナ公ともお友達なんですって? 随分とご立派な経歴ですこと。国王が邪魔な貴族たちを潰す手伝いをしてたんですってね。お陰で私は人質同然の身だし、父も牢屋で死ぬのを待つだけ。そっちは領地も広がって羨ましい限りだわ。さぞかしお得意でしょうね」

 「……。」

窓枠に手をかけると、イヴァンは、ひょいとその上に飛び乗った。驚いて、少女があとすさる。

 「な、何よ」

 「俺は難しい話は分かんねーけど、お前の親父が捕まってるんなら、それはそいつが選んだ道のせいだ。あの日、お前の家も兵を率いて王都の前に来てたんだろ? 戦争を仕掛けておいて、自分たちに何の責任も無いとは言わせないぜ」

 「君に、何が判るって言うのよ」

 「少なくとも、お前の親父が関わって起きた戦争のせいで何人死んだのかは知ってるよ。」

大きなハシバミ色の瞳の端に、見る見る間に涙が浮かぶ。しまった、と思った時にはもう遅い。

 「ばか!」

まだ熱い焼き立てのパイ生地を投げつけられて、イヴァンは大慌てで厨房の窓から飛び出した。続いて後ろから、麺棒やら小麦粉いりの器やらが飛んでくる。

 「二度と来ないでよ、この無神経男!」

 「うわ…ちょ…」

振り返った瞬間、顔面に小麦粉が炸裂して、イヴァンは盛大に咳き込んだ。最悪だ。多分、ここは正論を言うべき場ではなかったのだ。


 小麦粉まみれになりながら、よろよろと学校に戻った時、幸いなことに校舎の中はまだがらんとしていて、彼の惨状に目を留めた者は少なかった。理由を聞かれるとしても、絶対に本当のことは言えなかった。まさか、…女の子を逆上させて小麦粉とパイ生地をぶつけられたなどとは、決して。

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