第35話 不名誉の戦場
人の動き出す気配に気づいて、イヴァンは顔を上げた。そろそろ夜明けのはずだ。足音、――それに金属音。甲冑と、剣の音。馬の嘶きも聞こえる。火はもうほとんど消えかけている。
立ち上がろうとした時、音もなく天幕の入り口が揺らめいて、風のようにシンディから現れた。味方だと分かっていても、思わずぎょっとするような登場の仕方だ。
「兵器は”下の町”の迎賓館にあった。運び出されて今は三箇所に分けられている。戦線に近いところ。ヴェニエル侯爵の足元。もう一箇所は、この近くの赤いテント。ここからはロイエの旗を越えた先。”下の町”の入り口あたりに幌馬車が二十程度」
前置きもなしにそれだけ告げて、彼女は素早く姿を消した。
ほとんど間をおかず、反対側の入り口が開いて、兵士が入って来た。アジズ家の家臣のようだ。
「失礼しま―…」
兵士は、見知らぬ二人連れが中にいるのを見て、ぎょっとする。ティアーナはあわてて騎士学校の制服のフードを下ろした。
「ああ、えっと、俺たちマルティン…様の同級生です。マルティン…様は、昨日飲みすぎたらしくて、まだ寝てますけど…」
イヴァンは、大の字でぐうぐう寝ているマルティンのほうをちらりと見やってから、言いつくろう。
「用があるなら、起こそうか?」
「いえ。朝食をお持ちしただけですので。こちらをお願いします」
差し出された盆には、水差しと薬、それに果物が載っている。
「酔い覚ましです。今日ばかりは、お父上とともに出陣していただきませんと困りますので…」
こんな時まで優雅なものだ。兵士としても、嫌な役を他人に押し付けられてほっとしている様子だった。
「てことは、身支度も必要なんだよな。武器と外套は? 甲冑は着せるのか?」
「そこにあります」
そう言って、兵士は部屋の隅を指した。見れば、けばけばしい色の上着とマントに、派手に飾り付けた剣や具足一式が置かれている。
「旦那様は先に行かれました。後から来るようお伝え下さい」
「ああ。分かった」
全く疑われている雰囲気もなかった。ティアーナは、ほっとした様子でフードを下ろし、イヴァンの手にしているものに目をやる。
「朝食にしては、少し少ないですね」
「まぁな。しっかし、こいつときたら…」
マルティンは、たんこぶを作ったままで鼾をかいている。このぶんだと、昼まで目を覚まさなさそうで、ある意味、感心さえする図太さだ。
「さて、これからどうする? あのクロン鉱石の兵器は三箇所にある、っつってたな」
「狙うなら、ここの近くでしょうね」
と、ティアーナ。天幕の入口に近づいて、そっと外を伺う。
「みんな出陣の準備で大忙しね。今なら、目立たずに出られるかね」
「ああ。けど、その前に」
イヴァンは、部屋の隅に畳んであった、マルティンの外套を掴んで広げた。さっき兵士が指し示したものだ。派手な色合いの上着の上には、アジズ子爵領の印がでかでかと縫い取られている。
「もしして、また変装ですか?」
ティアーナは呆れ顔だ。
「一体どこで、そんな知恵を…」
「俺は騎士じゃねぇからな、正々堂々とやるのはどっちかっつーと性にあわねぇんだよ。」
彼は制服の外套を脱ぎ捨てると、外套に袖を通して外に出た。揃いの甲冑姿の兵士たちがすれ違うように駆けてゆくが、紋章入りの上等な外套のお陰か、誰にも何も言われない。誰も、マルティンの顔など覚えていないのだ。
人の流れに逆流するようにして、二人は、シンディの示した方角を目指した。行く手には、いくつもの旗がひしめきあうように並び立ち、しかも人の移動にあわせて揺れ動いている。馬の嘶き、兵士たちのざわめき。点呼をとる声、物資をよこせと怒鳴る叫びに、剣や甲冑の鳴る音。
「ロイエって言ってたっけ。ロイエの旗ってどれだ…」
「あれですよ、あの水色の」
周囲の喧騒に負けないように、ティアーナが怒鳴る。
「あなた、他領の旗を知らないんですか」
「知るかよ。近所のしかわかんねぇ」
怒鳴り返して、イヴァンは旗を見失わないようしっかりと模様を覚えこんだ。人混みの密集具合からして、ここはもう、敵陣の中心部に近い場所のはずだ。誰から怪しまれでもすればすぐに拘束されるだろう。
「あ、あれだ!」
行く手に、さっきシンディの言っていた幌馬車が見えてきた。確かに、”下の町”の入り口のあたりだ。量からして、おそらく前線に出している兵器の予備だろう。見張りの数は少なく、ほとんどが出払っている。
二人は黙って頷きあい、歩調を速めて、そちらに向かって近づいていった。
まだ朝の早い時間だが、すでに王国軍側と、反乱軍――ヴェニエル領とマイレ領の旗を掲げた軍勢――の戦列は整えられ、王都の目の前で向かい合っている。
「アレクシス・フォン・リーデンハイゼル!」
声は頭上から――正確に言えば、人波の向こうのやぐら台のようなところから聞こえてくる。
きらめく鎧に身を包んだ、いかめしい顔の男が一人、派手に飾り付けられた馬に乗ったままそこに上がり、傍らの騎士が差し出した拡声器の向こうから怒鳴っているのだ。この時のためにしつらえられた舞台、といったところか。
「我はこれにある同士たちの代表者、フィリップ・ド・グランディ・ヴェニエルである! 同士たちを代表して、貴殿らに要求する旨がある」
「貴様らと話すことなど、もはや何もない」
反対側から聞こえてくる声は、アレクシスのものだ。二つの町の間の平原に声が反響する。
「不遜にも余に退位を要求し、己らの利のみを守ろうとした貴殿らの行いは、礼を失した振る舞いである。今一度、自らの足元を顧みられるがよい。そなたらは王国の臣民であり、国王より爵位を与えられた身である事を思い起こされよ。また王国議会での承認を経ずに私個人で裁可できる要求か否かは、その内容如何と心得られよ!」
びりびりと腹に響くような声だ。
以前、王宮の執務室で見えたときの、あの気さくそうな男とは別人のようにさえ見える。今のアレクシスは恐ろしいまでの威厳を纏っている。
この瞬間、二つの陣営の足元に集う兵士たちも騎士たちも、彼の意識の中には無かった。これは、今はヴェニエル侯爵とアレクシス国王の言葉の一騎打ちのように思えた。
皆が演説に気を取られている間に、イヴァンとティアーナは荷物を確かめ、昨夜の篝火の残りを手にして燃えやすい藁を積み上げた。馬車の周囲に油を撒き、火をつける。
振り返ると、馬の上のヴェニエル侯爵が隣にいた騎士から巻物を受け取り、それを両手で開いて王都側に向けているところだった。
「我らは貴殿に国王の資格なしと判断した。我らの権利を守るため、ここに貴殿の退位を要求する!」
「それこそ、王国議会を通すべき事案であったなヴェニエル侯爵。国王の即位と退位は王国議会によって召集された全ての権限者によって決められる。知らぬとは言わせんぞ」
「否。その議会が開かれるまで最早待ってはいられぬ。要求が受け入れられぬ場合には、同士たちの力を持って貴殿を玉座より引き摺り下ろし、我らの手で黄金の冠を正しき者の手に渡す!」
ざわめきが起きる。だが、要求は曖昧で、誰に王冠を渡すとも告げられていない。もし彼らがスヴェインを次の王にするつもりなら、彼がこの場にいないことも奇妙だった。
「――クローナ大公代理より、貴殿らに申し渡す」
聞き覚えのある声に、はっとしてイヴァンたちは振り返った。
アルヴィスが、隣に近衛騎士のベオルフとエーリッヒを従えてて、国王のすぐ側の馬上にある。
「貴殿らはスヴェイン王子を王位に、と望んだ。だが、彼は貴殿らと共謀し、王国に仇なす者となった。よってここに、”白銀紋章”の権威により、スヴェイン・フォン・リーデンハイゼルの王位継承権の剥奪を宣言する!」
小さなざわめきと、動揺。
この内容は、既に昨夜のうちに文書をばら撒き、名指しの手紙まで出して知らせておいたものだ。ヴェニエルたちの掲げた目論見は決して達成されない、と、アルヴィスは宣言した。先行きに不安を覚える者たちはこれで、尻込みするはずだ。
(あいつも、王様とおんなじだな。普段とはまるで別人だ。これが王族の威厳、ってやつか…)
イヴァンは遠目にアルヴィスの姿をちらちらと見やりながら、心の中で舌を巻いていた。
こうなることを恐れ、ヴェニエルは、本当なら先にクローナ公を脅すか、身柄を拉致するかしておきたかったに違いない。だがそれは、予め紋章をアルヴィスに渡しておいたクローナ公の先見の明と、アルヴィスの機転と、ティアーナたちの活躍によって阻止された。
「これは明白な王国への反逆であり、秩序への挑戦である。力には力をもって対抗するのみ。さしたる後、この件は改めて臨時の王国議会で話し合うこととしよう。貴殿らの要求と、罪状の数々を併せて議論しようではないか。」
父と弟の側で、第一王子シグルズが高らかに宣言する。
と、その時だ。
イヴァンたち二人の姿を見つけた、水色の紋章の兵士が近づいてくる
「おい、お前、アジズの…? こんなところで何をしている」
「やべっ」
「イヴァン、もう火がつきます。逃げましょう!」
ティアーナが走り出すのと同時に、兵士は馬車の周囲を囲むように燃え出している火に気づいて、はっとなった。
「火が…何てことだ。」
兵士は、慌てて周囲に怒鳴る。
「不審者だ! 馬車に火を付けられた。そいつらを止めろ! 水を――」
「――アストゥールの名において、全軍に告ぐ!」
アレクシスの大音声が、すべてをかき消した。同時に、ヴェニエルも怒鳴った。
「まことの王の証において、全軍に告ぐ!」
剣が鞘より抜き放たれる。
「すべての逆賊を制圧せよ!」
「王都を制圧せよ!」
「
それが合図となった。
騎士たちの上げる雄たけびが空にこだまし、下の町の側からは戦闘開始の合図であるラッパの音が響き渡る。
火の手が上がったのは、まさにその時だった。雷鳴にも似た激しい閃光と爆音、そして爆風。
「な、何だ」
慌てたヴェニエルが振り返る。
「例の新型爆弾の予備に、火が引火したようです!」
「ばかな。取り扱いには気をつけろと、あれ程…。予定の仕掛けのほうは問題ないのだろうな?!」
「ご心配なく」
傍らにいた騎士が声を張り上げる。「第一陣は、既に配置済みです」
やぐら台の上から振り返ったヴェニエルは、にやりと笑って、突進してくる中央騎士団の馬列に目をやった。
「ならば良い」
彼らの背後では、嫌な臭いを漂わせながら黄色く濁った煙が立ち上っている。爆風でどれだけの被害が出たかなど、男の意識の中には存在しない。目の前の軍勢をねじ伏せることさえ出来れば、それで構わないのだった。
「あ、…あたた」
呻いて、イヴァンは頭に手をやりながら起き上がった。少しの間、気を失っていたらしい。クロン鉱石の爆発に巻き込まれるのは、これで二度目だ。やけに手元がぬるぬるすると思ったら、体の下でイモの袋がつぶれている。
「ちっ、イモまみれとか…洒落になってねぇよ」
目の前では、引火した馬車が盛大な炎を上げて燃え続けている。兵士たちが大あわてで水を持って走り回っているが、クロン鉱石の起こした火はそう簡単に消えないはずだ。周囲には、同じように爆発で吹き飛ばされた兵士たちが転がっている。
「ティア? どこだ」
「ここです…」
小麦粉の中で小さな声がした。真っ白になり、小さくくしゃみをしながら這い出して来るティアーナがいる。
「最悪だわ。」
思わず吹き出しそうになるが、今は笑っている場合ではない。
「一応、目的は達成できたぜ。これで少しは奴らの手駒を減らせただろ。あとは…スヴェイン王子を探さないと」
「ほう、狙いはそこか」
はっとして、二人は声のしたほうを振り返った。見覚えのある、やたら派手な格好の騎士が一人、立っている。
「あんた、確かマイレの騎士…」
「ボルドーだ。また奇遇なところで出くわすものだな」
男は、馬上で剣を抜いた。イヴァンも、借り物のマントを放り投げて腰から二本の剣を抜く。
「ティア、行け。ここは俺が」
「分かったわ」
頷いて、ティアーナは髪の粉を振り払う。
「あなたには、この私が直々に訓練をしたんだんです。絶対に、負けたら承知しませんよ!」
駆け去ってゆく足音を背後に聞きながら、イヴァンは小さく笑った。
「というわけだ。どうする? 今ならまだ、見逃してやれるけど」
「大した自信だな、サーレの跡取り殿。私も、主君の前で無様な姿は見せられないのでね」
イヴァンは、ちらりと背後の迎賓館を見やった。そこには、マイレの紋章を掲げた槍兵たちがたむろしている。ティアーナ一人で乗り込むのは厳しいかもしれない。――だが、今は援護に回れる状態にはない。
「おっと!」
頭上から繰り出された剣閃を、イヴァンはすんでのところで避けた。髪が幾筋か切り取られ、宙を舞う。
「余所見をしている暇はないぞ」
「ちぇ。しょーがねぇ、やるしか」
素早くあたりを見回したイヴァンは、近くを駆け抜けようとした馬の前に飛び出した。
「うわあっ?!」
慌てて、馬上の兵士が手綱をひく。
「悪いな、ちょっと借りるぜ!」
言いながら、イヴァンは兵士を馬の上から蹴り落とし、地面に放り出しておいて、鐙にしっかりと足を置いた。
「うし、これで高さは合う。――頼むぞ!」
馬の首をぽんぽんと叩いて、彼は鞍を腿でしっかりと締め上げた。突撃だ。
「すばしっこいものだ。だが――」
馬と馬とがすれ違う。すれ違いざまに剣が打ち合わされ、硬い音が響いた。
(重いな)
船の上でみまえた、あの時と同じだ。このボルドーという騎士は、見かけの派手さとは裏腹に、堅実な腕の持ち主なのだ。
「あんたほどの騎士が、なんだってマイレなんかに仕えてるんだよ」
「さあな? 就職先としては悪くないと思うが」
「にしてもさぁ」
ぶつかり合う刃と刃。馬を廻らせながら、二人は何度も剣を打ち合わせる。
ボルドーは、僅かに驚いたような顔をした。
「サーレの若君、これが初陣ではないのか?」
「どうだろうな。喋ってていいのか?」
左手の剣が騎士の剣をひらりと受け流し、その流れのまま相手の腕に切りつける。防具の隙間に鮮血が飛び散り、男は微かに眉を歪めて馬を下げた。
「随分と迷いが無い太刀筋だ。その歳で、よくぞこれほど」
「あ? こちとら、四つの頃から森で狩りはしてんだよ。相手が人間ってだけで、命のやりとりに違いなんて無ぇよ」
剣についた雫を払い、イヴァンも馬を回して距離を取る。
「獲物と狩人、どっちも本気だ。気を抜いたほうがやられる。――俺は生きて帰らなきゃならない。あんたが向かって来るというのなら、そういうことだ」
「成る程。」
ボルドーは小さく笑って、血の滴るまま剣を構えた。
「今どき珍しい思考の持ち主だ。貴君のような者が領主になったら、仕える部下たちは大変だろうな」
「付き合ってくれる奴らはいるからな、心配してねぇよ」
馬を前に出したのは、二人ほぼ同時。打ち合うことなど考えず、イヴァンは全力で馬を走らせながら腰を浮かせた。そして、すれ違う瞬間、彼は鞍の上からボルドーめがけて飛び掛った。
「おらああっ」
「む…」
剣が手から飛び、二人はもつれあうようにして地面に激突する。
先に起き上がったのはイヴァンのほうだ。自分の剣を拾い上げ、仰向けに大の字になっている男の様子を伺う。気絶しているが、とりあえず息はしているようだ。
「うし」
戻って来た馬の手綱を取りながら、イヴァンは男のほうに向かって言った。
「悪いな、まともに勝負してる時間は無ぇんだ。こんど時間がある時に、またな」
蹄の音が遠ざかっていく。
背後で、騎士は頭を振りながら起き上がろうとしている。まさか、こんな騎士にあるまじき方法で落馬させられるとは思っていなかったのだろう、ただただ、呆然としている。
馬を走らせながら、イヴァンは、周囲の戦況を確認していた。怒号のような足音が地面を通じて伝わってくる。パン、パンと乾いた音。重たい何かが崩れ落ちる音…。
戦闘は、すでに王都と下の町の間の全域に広がっているようだった。土ぼこりがあちこちで舞い上がり、空は茶色く掻き曇っている。剣戟の音はすぐそこまで迫っていた。戦線が移動しているのだ。
「盾を前へ! 奴らは筒状の兵器を使ってくる。ただし接近しない限りは威力は低いぞ!」
「弓兵! 敵陣後方を狙え! 前方の傭兵たちには構うな」
盾の奥で王国軍が弓を構え、弧を描いて、無数とも呼べる矢が雨あられと降り注ぐ。矢をかいくぐらねば”火筒”の射程距離には入れないのだ。
ヴェニエル侯爵ら貴族陣営の軍の前線にいた兵が、次々と矢に当たって倒れていく。乗り手を失って逃げ惑う馬。ちりぢりに四散していく寄せ集めの軍。
「ええい、どうした! なぜ”竜の牙”を使わない」
やぐら台の上からヴェニエルが怒鳴る。
「それが…使う前に敵味方が混戦してしまったんです」
下にいる騎士たちもうろたえている。
「突っ込んできたところに投下する予定だっただろうが!」
「ええ…突っ込んではきたのですが、射程距離に入る直前で引き返されました。誘導です。最前線にいた兵が釣られて飛び出してしまいまして、それで…。」
「役立たずめ!」
怒鳴って、男は傍らに騎士を呼び寄せた。
「仕方が無い、奥の手だ。人質を使う」
「は…スヴェイン王子を、ですか?」
「そうだ。アレクシスによく見えるように吊るしてやれ。そうすれば奴も手を止めるだろう。時間が稼げればよい」
「分かりました」
騎士が駆けてゆく。
男は、傍らを通り過ぎた矢にも眉ひとつ動かさず、忌まわしそうに戦場を見下ろしていた。矢がどちらの陣営のものかはもはや分からない。逃げ惑う兵を追いかける軍。戦術も戦略もない。離反貴族たちの軍の統制が全くとれていないせいで、既に戦場は混乱の極みにある。豪華な天幕は踏みにじられ、立派な旗は泥にまみれて地面の上に転がっている。練度も統率も、王国軍のほうが上だ。始まる前から、分かっていたことではあったが。
「やはり、烏合の衆は烏合の衆か」
吐き捨てるように言って、彼はどこかへ去って行く。誰にも聞こえるはずのなかったその言葉を、すぐ足の下で聞いていた者がいたことには気づかないまま。
はあ、と大きく息をついて、ティアーナは傍らのスヴェインのほうをじろりと睨んだ。
「だそうですよ。私が来なければ吊るされるところでした」
「…ま、そんな気はしてたんだけどな。」
「わふん。殿下、落ち込まないで」
三人が身を寄せ合って隠れているのは、やぐら台の真下だった。灯台元暗しではないが、ここしか安全に隠れられる場所が見つからなかったのだ。
ティアーナの奇襲は、一応は成功した。マイレの槍兵たちの間を縫って迎賓館に忍び込み、倒した兵士の衣装を剥ぎ取って、スヴェインに着せたのだ。変装、という発想は、イヴァンから学んだものだった。
様々な陣営からの寄せ集め、おまけに臨時雇いの兵も多い貴族たちの軍では、味方の顔など覚えはおらず、予想以上に上手く行った。そうして、マイレの兵になりすまして、混戦に乗じてここまで逃げてきたのだ。
ただ、ここから先がどうしても進めない。――マイレの兵の格好のままでは、王国軍に攻撃される可能性もある。
変装衣装は隠れているやぐら台の下で脱ぎ捨てたものの、スヴェインはほとんど着のみ着のままで、武器も防具もなく、このままで戦場を突っ切るのは危険過ぎた。
仮ごしらえの台の板の隙間からは、入り乱れて戦う両陣営の兵士たちの姿が見えている。
「凄いな、中央騎士団はもうここまで戦線を押し上げて来てる」
「ええ。前線は、シグルズ様が指揮をとられているはずです。アレクシス様は大将ですから、王都前の陣にいらっしゃるはず」
「…シグルズか」
スヴェインの表情が微かに曇る。
「あいつ、余計なこと言って父さんを怒らせてないよな? ちゃんと、ぼく一人のせいだって言ってくれたかな」
「こんな時に何を気にしてるんです。心配なのは、あなたの身のほうでしょう?」
「ぼくはいいんだ。最初から、どうなってもいいと思ってた」
彼は小さく呟く。
「縛り首でも斬首でもいい。ただ、牢に監禁されて一生を終えるのだけは嫌だって、シグルズには言っておいたんだ」
「スヴェイン様…!」
「怒らないでよ。他にどうすれば、この国を守ることが出来た? 父さんはああいう人だ。話し合いで解決なんて無理だ」
ワンデルが、側からぽんぽんとスヴェインの肩を叩く。まるで犬が主人をなぐさめているようにしか見えない滑稽な状況だが、今のこの状況では、それすらもちょっとした心の慰めだった。ティアーナは、詰問するような口調を和らげながら、視線をそらした。
「最初から、もっと色んな人に協力を仰げばよかったんです。アルだって…私だって、言ってくだされば手伝えました。もっと良い方法かを思いつけたかもしれないのに」
「うん…でも」
「”でも”は無しです! 言い訳なら、あとでいくらでも聞いてあげますから。今はここから帰る方法を――きゃっ」
どすん、と近くで重たい音がした。やぐら台が揺れて、ぱらぱらと砂が落ちて来る。板の隙間から覗くと、すぐ近くで火の手が上がるのが見えた。
くん、とワンデルが鼻をひくつかせる。
「嫌なニオイ。すごく…嫌な感じ」
「クロン鉱石です、多分。新型の爆発する兵器」
見ている前で、宙を弓なりに飛んでいく黒っぽい塊が見えた。それが地面に着弾したとたん、火の手が上がり、人が吹き飛ばされていく。
「あれが? …昨日、お前たちが言っていたやつか?」
スヴェインは絶句している。
「味方もいるのに! どうしてこんなところで使うんだ」
「敵も味方も関係ないんですよ。劣勢を覆すためです」
ティアーナは腰の剣に手をやる。
「分かっていたことでしょう。ヴェニエルは、騎士道精神なんてない卑劣な男です」
「あ、シグルズだ!」
板の隙間から外を食い入るように眺めていたスヴェインが、突然叫んだ。
「あれ、そうだよね。あそこの茶色い馬」
「わふん!」
「えっ?!」
ティアーナも慌ててそちらに視線をやる。自軍の兵たちに向かって何か叫びながら、馬をめぐらせている若い男の姿。間違いない。シグルズ王子だ。
「まずい、この距離じゃ…標的にしてくれって言ってるようなものだ!」
「あっ、スヴェイン様!」
やぐら台の下の隙間から這い出すスヴェインを、ティアーナは止めることが出来ない。ワンデルの吼える声が外で聞こえたかと思うと、兵士たちの悲鳴が上がった。
「もぉ! どうしてこうなるの…」
苦労して這い出してみると、目の前でスヴェインが騎士と組み合っているところだった。武器は持っていなかったはずなのに、今は剣を手にしている。おそらく、足元に伸びている兵士が元の持ち主だろう。
「ティアーナ、投擲手を!」
「分かってますっ」
ワンデルがしっかりとスヴェインの側にくっついているのを確かめて、彼女はやぐら台の上で火のついた爆弾を投擲器にはめて射出しようとしていた兵士に襲い掛かった。
「どきなさい!」
爆弾が転がり落ちようとする。彼女はあわててそれを掴むと、力いっぱい、シグルズのいるのとは逆の方向に向かって放り投げた。
空中で爆発が起きて、派手な爆風が撒き散らされる。見れば、やぐら台のすぐ足元には、箱詰めされた同じような爆弾が多数、並べられていた。それと、火のついたランプと、爆弾を投げるための投石器。
やぐら台の上から、彼女は叫んだ。
「スヴェイン様! 今からまとめて火をつけます」
「分か…え?」
「死にたくなかったら、全力でアストゥール陣営側に走ってください、いいですね!」
「ちょっと待…おい!」
慌てて目の前の騎士を引き離すと、彼は言われたとおり走り出す。
「冗談じゃないよ、味方が一番怖い…」
「何か言いましたか?!」
ティアーナも追いついてくる。
「火を仕掛けてきました。そろそろ…」
背後で、凄まじい爆発音が響いた。吹っ飛ばされるのは、ティアーナにとっては今日だけでも二度目だ。
「きゃうんっ」
小柄なワンデルが転がっていきかけるのを、すんでのところでスヴェインの手が掴む。地面に投げ出され、三人は同じ方向に転がった。
「…これは、なかなか強烈だな」
「でしょう? だから、過小評価しないほうがいいって」
「うん。認識を改める」
砂を振り払いながら起き上がってみると、さっきまで隠れていたやぐら台のあたりには大穴が開き、地面がこげて、嫌なにおいのする煙がくすぶっていた。ふいを突かれて吹き飛ばされたらしい兵士たちが、そこかしこに散乱している。
「…スヴェイン」
見晴らしのよくなった戦場に、馬に乗ったシグルズが苦笑を隠せない顔で進み出てくる。
「やあ、シグルズ」
埃まみれのまま精一杯の威厳をとりつくろい、スヴェインはぎこちなく笑って見せる。
「ぼくの参戦する席は、まだ空いてるかな?」
「構わんが、多分もうやることはあまり残っていないと思うぞ」
「それは残念。」
振り返って、シグルズは側にいた近衛騎士のエーリッヒに告げる。
「誰か馬を。ティアーナにも」
すぐさま二頭の馬が用意され、スヴェインとティアーナは、それぞれに飛び乗った。
馬上からは、王国軍が貴族たちの陣を次々と制圧していくのが見えている。
「アルがあの兵器について教えてくれていなかったら、ここまで優勢には進められなかっただろう」
馬を走らせながら、シグルズが言う。
「あの兵器のありかは、シンディが調べてくれました。」
と、ティアーナ。
「残りは、戦線にあるものだけです。それほど数は無いと思いますが、頭上にはお気をつけて。」
「分かってる。――ところで、彼は?」
「彼?」
「サーレの…」
「あっ」
ティアーナは、思わず口元に手をやった。
「そうだ、イヴァン…、私を逃がすためにマイレの騎士と一騎打ちを!」
周囲を見回しても、姿はどこにも見当たらない。さっきは、敵の本拠地である”下の町”の入り口あたりにいたのだ。そしてまさに今、そこは、敵の最後の砦と化している。逃げ込むヴェニエルたち反乱軍の兵と、追いかける王国軍の兵。まさに大混戦のさなかにある。
と、その時、どこかから、わっと声が上がった。
「援軍だ! 援軍が到着したぞ」
下の町のすぐ脇、街道沿いのあたりに、赤い旗がひらめくのが見えた。西方騎士団の旗。それに――
「見てください、白と青もです!」
同時に、王都の北と東のほうにもそれぞれの色の旗が立った。
「間に合ったか」
一瞬ほっとした顔になってから、シグルズはすぐに表情を引き締めた。
「よし、残党を追撃する。無抵抗の者は傷つけるな。抵抗する者は全て捕縛せよ!」
指示が飛び、兵士たちが気勢を上げる。
王国の、黄金の樹を染め抜いた旗が、中央騎士団の白い旗の奥に新たに掲げられる。
これが最後の突撃になるはずだと誰もが分かっていた。そして、戦局がどちらに傾いているのかも。
土ぼこりの止んだ空にはいつしか薄雲がかかり、日は翳り始めている。やがて集まった雲は一つになり、分厚く、青空を埋め尽くしていった。
ぽつりと雨粒が額に当たり、イヴァンは目を覚ました。
「…つっ、どこだここ」
もたれかかっていた壁から立ち上がると、軽い目眩がした。
(そうだ。静かになったから、少し休もうとして…)
ここは確か、以前アルヴィスたちとやってきた、下の町の中心部にある広場のはずだった。かつては乗合馬車が到着し、人々が賑やかに行き交っていた。だが今は、周囲の家々に人の気配はなく、辺りは死んだように静まり返っている。
折れた剣、砕けた盾――血の痕跡。体中に血の張り付いている感触があるが、そのほとんどは自分のものではない。
(俺…何人殺ったのかな)
ぼんやりと歩きながら、彼はそんなことを考えていた。
手加減なら出来た。だが、そうしなかったのは自分の意思だ。
悪意があったか無かったかは関係ない。命を狙われれば、相応の覚悟を持って応えるしかない。敵か味方か、生きるか死ぬか。命を賭けて向き合う者に、”手加減”など考えるほうが失礼だ。そして戦場とは、そういうものなのだ。
いつしか、空は灰色の雲に覆われている。
静かに天が降り始め、火照った体を冷ましてゆく。イヴァンは空に向かって口を開け、乾いた喉を潤した。
戦況は一体どうなったのだろう。物音ひとつ聞こえない。それに、辺りは真っ暗だ。
角を曲がったところで、はっとしてイヴァンは足を止めた。傷ついた男を馬に乗せ、こちらに向かってこようとする騎士に気づいたのだ。イヴァンを見るなり、騎士は剣を抜いた。
「何だよ、俺はもう帰るとこなのに…」
だが、騎士は引く気はなさそうだった。剣を抜き、ぎらぎらした目で見つめてくる。
「めんどくせぇな」
イヴァンも、仕方なく剣を構えた。
「どこの家臣だか知らねぇが、俺ももう疲れてる。加減できる自信はねぇが、それでいいならかかって来い」
地鳴りと咆哮。イヴァンはその場に立ちふさがり、向かってくる者を再現なく切り伏せた。そうしなければ、生きて帰れない。父をはじめとする故郷の人々。リーデンハイゼルで出会った人々。アルヴィス、ティアーナ、…信じてくれた仲間たち。
(俺は死ねねぇからな)
足元に騎士のからだが崩れ落ちる。どす黒い血が降り始めた雨の中に滲んで流れ、うめき声が虚無の町に響き渡る。
はあ、と一つ溜息をついて、イヴァンは、馬の上でぴくりとも動かない、身なりのよい男を見やった。顔は蒼白で、強張ったまま声もあげずに震えている。見覚えの無い顔だが、身なりからすると、どこかの貴族か領主だろう。
「てめぇ自身で戦う気概も無いくせに、戦場に出てくんじゃねぇよ。ったく…」
捨て台詞のように言いながら、イヴァンは、男の側を通り過ぎた。
雨に混じって、嫌な匂いが広がっていく。
ふと足を止めた彼は、足元を流れてゆく黄色く濁った水に気がついた。
(これは…、リンドガルトで見たのと同じ…?)
振り返ると、ちょうどそこに、燃え尽きた幌馬車が集まって積み重なっている。
町の入口、最初に火を付けて爆破した兵器のあたりなのだ。馬車から染み出した黄色く濁ったクロン鉱石の溶解した水が、地面に広がって染み込んでいる。辺りには耐え難い悪臭が漂い、雨とともにその範囲は広がりつつある。
「…イヴァン!」
はっと顔を上げると、彼の目の前に、駆け寄ってくるベオルフとエーリッヒの姿があった。
「こんなところにいたのか! 大丈夫か?!」
「ああ、俺はなんともないんだけど」
彼が見やった視線の先に気づいて、二人はかすかに息を呑む。だが、すぐにイヴァンに視線を戻した。
「今はお前のほうが先だ。お前はよくやってくれた。もう十分だ、戻るぞ」
ベオルフは自分のマントを脱いで、それをイヴァンの頭から被せた。雨の音が遠くなる。
「戦いは? 皆は無事なのか」
「誰も欠けていませんよ。敵軍は壊滅しました。一部は逃げおおせたかもしれませんが、追撃が出ていますからほどなく捕らえられるはずです」
エーリッヒは自分の乗ってきた馬の手綱を差出し、イヴァンに乗るよう促した。
「とりあえず戻りましょう。リーデンハイゼルへ」
その時になってようやく、イヴァンは体に寒さを感じた。
辺りには、怪我人や戦死者を運ぶ人々が、暗くなる前に仕事を終えようと駆け回っている。
灰色の雨雲がすべてを覆い隠し、くすぶっていた残り火を消していく。
――戦は終わった。アストゥールでは二百年ぶりとなる、死者を伴う戦が。
ただしその内実は、物語や歴史の中にあるような、誇りや威厳を持って行われる戦とは、あまりにも違っていた。
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