第24話 異国へ続く海路

 世界が揺れている。

 朧気な灰色の世界で、ティアーナは、王宮の前に立っていた。なぜか沢山の人が集まって、大騒ぎしている。何を騒いでいるのかは全く聞き取れない。ただ、耳障りなばかりだ。

 (…うるさい)

彼女は、両手で耳を塞ごうとする。

 (少し、静かにしてください。頭が痛い…)

けれど声はちっとも収まらず、指の隙間から頭に押し寄せてくる。

 目の前で何かが揺れている。

 丸いほうを上にした、棒のようなものが高い台の上で、ぶらぶらと。

 人々はそれを指差して、大声を張り上げているのだった。

 (一体、…なに?)

眉を寄せながら目を凝らした時、彼女は、気がついた。

 それは、縄に縛られて高いところに吊るされている、――スヴェイン王子なのだった。


 「――わぁああっ!」

声を上げて飛び起きた時、目の前には、明るい日差しと見知らぬ壁があった。

 「…え?」

汗でぐっしょり濡れている。と同時に、強烈な頭痛が押し寄せて、彼女は思わず両手で頭を抱えた。 

 「…うう」

 「ティア? 大丈夫?」

後ろで、扉が叩かれる。

 「はい…」

入ってきたのは、水さしを手にしたアルヴィスだ。青ざめた顔のティアーナを見て、やっぱり、というような顔をする。

 「お水、持ってきたよ。目が冷めたら必要になるってイヴァンが言ってたから」

 「はあ…ありがとうございます…。」

さすがの彼女も、今日ばかりは大人しい。頭痛の原因は、昨夜、宴で強いられて一気飲みしたお酒のせいだ。

 「少し窓を開けるね」

木戸を押し開けると、外からウミネコの声とともに、潮風が部屋に入り込んでくる。

 「ここは…港ですか?」

 「やっぱり覚えてないんだね」

アルヴィスは苦笑している。

 「昨日の夕方、ネス港に到着して、その時にはもうティアーナはふらふらだったから宿をとったんだ。父さんが準備してくれた船は見つかったよ。今、出港の準備をしてもらっている」

 「そう、ですか。」

 「…ティア? どうかした?」

二日酔いのせいばかりではない。ティアーナの様子が、いつもと少し違う。

 ややあって、彼女はぽつりと、言った。

 「スヴェイン様のことを、考えていました」

 「――ああ…それは…」

 「あんな、ご自身を犠牲にするような真似をして。あれでは、誰も無傷では済みません」

 「そうだね。敵のふところに入り込むというのは、作戦としては悪くないけど、何も兄さん自身がやらなくても――」

 「もしもヴェニエルたちが挙兵でもして、スヴェイン様を共犯だと証言したら、状況証拠はすべて不利になります。最悪、スヴェイン様は反逆罪に問われます…」

ティアーナは、両手で毛布を握りしめた。

 「…スヴェイン様が、吊るされる夢を見てしまったんです。絞首台のような場所に…それで…」

 「……。」

 「ただの夢だと思いたい」

唇を噛んで、彼女は俯いた。

 「だけど、あまりにも生々しくて。私の祖先の一人は、予言の力を持つと言われた人魚の末裔、ルグルブ族でした。二百年も経って、私にそんな力があるとも思えませんが、…嫌な予感がするんです」

 「ティア。大丈夫だよ。スヴェイン兄さんは一人じゃない。シグルズ兄さんも、僕もいる。」

 「…はい」

頷いて、彼女は弱々しく微笑んだ。

 「出発はいつですか? 手伝うことは?」

 「大丈夫、いまイヴァンが買い物に行ってくれてる。お昼前くらいに出港の予定だから、もう少し横になって休んでて」 

 「それでは、お言葉に甘えてもう少し休ませていただきます。…イヴァンのほうは、お酒は大丈夫だったんですか」

 「うん。ケロっとしてたよ」

 「そうですか。はあ…」

横になるティアーナを残して、アルヴィスは部屋を出た。こんなに弱っているティアーナを見るのは、ほとんど初めてだ。


 (予言の夢、か…。)

廊下に出ながら、アルヴィスの表情は固くなっていた。

 予言の民ルグルブ。彼らの故郷である青いイェオルド谷は、この、西の海の近くにある。ティアーナの祖先は二百年前、その予言の力でもって、王国に迫る危機を警告し、決定的な局面を左右したと伝えられている。

 海の側に来たことと、酒による酩酊が予言のためのトランス状態に近づいたこと。もしかしたら本当に、彼女の中に眠る祖先の血が、僅かに目覚めて警告してきた可能性も、あるのかもしれない。

 (スヴェイン兄さん――)

もしも王族が国王に対し明確な反逆の意図を持って企みを抱いたとすれば、確かに、死罪という判決は有り得るのだ。しかも今回は、建国祭での国王の暗殺未遂までもが絡んでいる。あのスヴェインの口調からして、もしもそれで有力貴族たちを道連れに出来るのなら、嬉々として自ら罪をかぶるだろう。

 そんなことはさせたくない。

 国政の改革のために家族の誰かを生贄に捧げるなど、国王アレクシスも、王妃エカチェリーテも、絶対に認めないはずだった。




 一方その頃、イヴァンのほうは、港で買い物の真っ最中だった。

 ネス港へは以前来たこともある。サーレ領から近いということもあって、サーレ領からの商品を運んできている人々も、魚介類などを買付けに来ている人たちもいた。

 港まで続く海岸沿いの道には、港から荷揚げされたらしい荷物を積んだ荷馬車がひっきりなしに行き交っている。近隣の漁港で水揚げされた魚なども、多くがここへ運ばれ、取引されている。

 港には大きな船も停泊している。大きな丸底の貨物船で、国の東西に海路で品を運ぶ船だ。

 人ごみから聞こえてくる西方訛り、馴染みのある革製品やチーズなどのサーレ領の特産物。他の町のいちとは違う、勝手知ったる場所という、奇妙な安心感がある。


 けれど港には、いくつか以前来た時には無かった光景も増えていた。

 その一つが、見慣れない商品を売る店だ。ふとイヴァンは足を止めて、目の前の果物屋に山積みになって木箱の中に入れられている、見慣れないごつごつした橙色の果実らしきものに目を留めた。リンゴほどの大きさで、表面は滑らかだが所々に突起のようなものが突き出している。

 こんな果物は、一度も見たことが無い。一体、どこでとれたものだろう。

 「どうだい一つ。傷ものだから安くしとくよ」

木箱の向こうに座って長煙管きせるを吹かしていた男が、気だるそうな声をかけてきた。この店の店主らしい。

 「これ、何だ? 食えるのか」 

 「もちろん。カヤポっつってな。西方の果物だ」

男は、目の前の木箱の中からひとつを取り上げる。

 「真ん中から割ればすぐ食える。ちょいと酸っぱいがヤミツキになる味なんだぜ。どうだい、試してみないかい」

 「いくらなんだ?」

 「五ジーレだ」

 「んじゃ一つくれ」

特に何も考えず、イヴァンは無造作に硬貨を取り出して店主の手に投げる。値切る、という感覚は、彼にはない。

 「へっ、毎度あり!」

店主は上機嫌だ。「ここで食べてくかい」

 「ああ。割ってくれ」

ナイフで真っ二つにされた果実からは、甘酸っぱい、独特の香りが漂う。外見はごつごつしているのに、中身はふんわりとして真っ白だ。

 「お、なかなかいける。こりゃいいや」

 「だろう? 今、お貴族様の間じゃ大人気なのよ」

 「貴族って、ここの領主?」

 「それもあるが、東方の金持ちの領主様方が多いな。宴会で出す珍しい食い物は人気なんだぜ。運んでる最中に痛んじまったものは引き取ってもらえねぇから、こうして安く売ってるってわけよ。つっつってもカヤポはなかなか手に入らないし、そこそこ売れる。兄ちゃん、運がよかったな」

他所から来たらしい商人は、イヴァンが何者かに全く気づいた様子は無い。剣を提げてはいるものの、格好だけ見れば自衛のすべを備えた旅人、といった雰囲気で、まさか隣の領地の領主の息子とは、知らなければ誰も思うまい。

 「西方からの品ってのは、頻繁に入ってくんのか?」

 「最近じゃあわりとな。ここの領主殿が、定期的に西方に船を送ってる」

 「ふうん…。」

初耳だった。

 「他になんか珍しいもの入ってないのか?」

 「他は…そうだな。食い物が多い。あとは装飾品にする武器とか。」

それはおそらく、マリッド商会が扱っていた品のことだろう。

 「鉱石とか宝石なんかは?」

 「見たことがねーな。ただ、領主家しか扱ってない流通品はあるって噂だな。何だい? そんなのに興味あんのかい」

 「いや。俺の住んでるとこもこの辺なんだが、少し前まではこんなに西の品は見かけなかったんで気になってたんだ」

しゃくしゃくとカヤポの実を食べてしまって、イヴァンは、皮の部分をぽいと海に放り投げた。すぐに魚が集まってきて、皮に群がりつく。この辺りの港は、魚が多いのだ。

 「この実、うめーな」

 「だろう? もう一つどうだい。安くしとくよ」

 「宿で寝込んでる連れがいるから、そうだな。もう一つくれ」

 「あいよっ」

 「あ、そうだ」

ふと、彼は思いついて、尋ねてみた。

 「傷物はこうしてバラ売りするとして、残りはどこに持ってくんだ? 金持ちの領主ってのは、王都のあたりの?」

 「ああ、そうだ。今回は中央のアジズ子爵んとこだな。クラウゼ領の港町からそこへ、まとめて運んでってるよ」

 「アジズ…」

その名前は、イヴァンにとっても因縁の相手ではあった。マルティン・ディ・アジズ、騎士学校で何かとぶつかりあった相手の実家だ。

 ということは、あの威張り散らした少年の実家も、もしかしたら、クロン鉱石の密輸入に関わっているかもしれないのだった。




 荷物を抱えての帰り道、イヴァンは、ふと海の方を振り返ってみた。

 市場の雑踏が遠ざかると、波の音が近くなる。桟橋に着いている船の膨らんだ船体が、ちょうど真横から見えている。船の横には小船が着いて、甲板から垂らされた縄梯子を受け止めている。何か荷物を搬出しているのだ。

 四角い箱が幾つか、慎重に梯子の上へ担ぎ上げられ、甲板の上へ消えてゆく。


 その時、人ごみの向こうで小さな声が上がった。

 「どけ、どけ」

荒っぽい蹄の音が響いて来る。慌てて避けていく通行人たちの間から、馬に乗った数人の騎士たちが現われた。身なりのいい、洒落た帽子の若い男が先頭の馬に乗っている。

 西方騎士団に所属する騎士ではない。腰に帯びた剣には赤い房飾りがついていなかった。それに、騎士団の制服は、あんなに華美では無い。

 「なんだい、もう。危なっかしいね。あの孔雀ども」

 「しっ。聞こえるとまたすぐ難癖をつけられるよ」

騎士たちが去って行ったあと、人々はぶつくさ文句を言いながら元通りに動き始める。

 (あれは、マイレ領の騎士たちだな)

領主が雇っている、お抱えの家臣たち。中央騎士団の騎士たちや、国王一家に直接仕える近衛騎士でさえ、あんな派手な格好はしていない。

 イヴァンは、騎士たちが駆け去って行った市場のほうにそれとなく視線をやった。

 見た目は派手で冗談にしか思えない騎士たちだが、市で商売をする一般市民からは恐れられている存在だいうことを彼は知っていた。領主の威光をかさに着て好き放題に振舞う嫌われ者で、何かと難癖をつけ、追徴金を取り上げたり、商品を没収したりする。レオンも昔、館に勤める以前にこの辺りに商売に来て苦労したと言っていた。

 だが、それは他所の領地でのことだ。マイレ領の決まりは領主であるマイレ伯の決めることであり、サーレ領の人間には手を出すことはできない。

 (エーリッヒに借りた馬は王都に送り返すよう手配したし、保存食も買い込んだ。簡易毛布も…あとは…)

買い物を指折り数えながら、彼は、宿のほうに向かって歩き出す。

 港の端には、優美な細い船体を持つ高速船が準備されている。それが、これからイヴァンたちの乗っていく船なのだった。


 今日は朝から良く晴れて、波も穏やかな絶好の出港日和だ。そろそろ出港の準備も整うだろう。

 全てが順調に思えた。――その時までは。

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