第4話 昔の記憶

「これ、覚えていない?」

 彼はポケットから、小さな消しゴムを取り出した。

 紙ケースには小学校低学年の女の子が好きそうな、可愛いイチゴのイラストが書いてある。

 昔流行った、香り付きの消しゴム。

 その消しゴムには少しだけ記憶があった。

 小学校低学年の頃、お気に入りだった。


「昔、持っていた記憶はあります。この消しゴムがどうかしたんでしょうか。」

「この消しゴムは僕が引っ越しするときに、君がくれたものだよ。僕はこの消しゴムをずっと宝物として、大事にしてきたんだ。

 僕は小学校1年生の時、母親と暮らしていたけど、言わばネグレクトみたいな状態でね。

 毎日同じ服を着て、どこかで貰ってきたボロボロのランドセルを背負って、学校に通っていた。

 母親は気が向いた時だけ、お金をくれるけど、ほとんど家にいないで、遊び歩いていてね。

 僕は毎日食パンばっかり食べていた。

 食パンは安いし、腹持ちが良かったからね。

 子供ながら、生き延びるためにお金を貰うと少しずつ食パンを買って、空腹をしのいでいた。

 だから、学校の給食が誰よりも楽しみだった。

 まあ、給食費も滞納していたけどね。」

 彼は遠い目をしながら、そう言った。


「そんな僕だったから、小学校に入学しても、友達も出来ず、先生からも相手にされなかった。

 お風呂もろくに入っていなかったし、服もたまに自分で洗ってたけど、毎日同じ服だったから、汚い格好をしていた。

 入学して、最初に隣になった女の子は露骨に僕を嫌がっていたよ。

 僕も誰からも相手にされないことに慣れていた。

 そして10月になって席替えがあった。

 僕は出来れば誰の隣でも無く、独りの席が良いと思っていた。

 そうすれば、誰にも迷惑かけないからね。

 だけどクラスの生徒数は偶数だったから、そんなわけにもいかず、次に僕の隣の席に来たのが君だった。

 僕は子供ながらに居たたまれない思いを感じたよ。

 そのクラスで君は特に可愛くて、誰からも好かれていたからね。

 僕はまた汚いものを見るように、扱われるのだと思っていた。」

 そこで彼は一度コーヒーをすすった。


「でも君は違った。

 僕が席に座るなり、にっこり笑って、「こんにちは。よろしくね。」って言ってくれた。

 僕は本当に救われた気がした。

 そして君は、僕に普通に接してくれた。

 教科書を忘れた日は快く見せてくれたし、いつも話しかけてくれた。

 僕は本当に嬉しかったよ。

 段々と学校に行くのが、楽しみにになった。

 そして、覚えているかな。遠足の日のこと。」

 遠足の日?

 覚えていない。私、何かしたかしら。

 私が首を振ると、彼は話を続けた。

「さっき、僕が食パンばかり食べていた話をしたけど、それは遠足の日も同じだった。

 小学校1年生の遠足は、徒歩で学校から少し離れた公園に行った。

 好きなもの同士で、班を作って行くことになっていたけど、誰も僕と組んでくれなくて、僕一人が取り残された。

 独りは慣れていたけど、それでもとても惨めな気持ちだった。」

 そこで彼はまたコーヒーを一口飲んだ。


 「すると君が、「私の班においでよ」って、誘ってくれた。

 君の班の他の子達は嫌な顔をしたけど、君が言うことだからね。他の子も渋々、従ってくれた。

 そして二人一組で手を繋ぐときも、僕と手を繋いでくれた。本当に嬉しかった。

 公園に着いて、お弁当を食べる時、僕はこっそり班から離れた。

 だってお弁当なんか無いからね。ましてはお菓子なんて。

 僕は食パン二枚だけ家から持ってきて、一人離れて食べた。

 そして木にもたれかかって、一人で空を見ていた。

 すると、君が僕を探しに来てくれた。その時の事、覚えていないかな。」

 私は首を振った。申し訳ないが、全く覚えていない。


「君は僕のところに来て、お菓子の交換しよう、って言った。

 もちろんお菓子なんか持ってきていない。

 僕がそう言うと、君はどこかに走り去って行った。

 僕はすごく申し訳ない気持ちになってね。

 下を向いていた。

 しばらくして君が戻って来た。

 そして息を切らしながら、持ってきた紙袋を僕に渡してくれた。

 僕が紙袋を空けると、中には色々な種類のお菓子が少しずつ袋いっぱい入っていた。

 君がみんなに呼びかけて、少しずつ貰ってきてくれたんだ。

 僕はとても嬉しかったよ。

 その時君にろくにお礼も言えなかったけど。

 何よりも君の気持ちが嬉しかった。

 もったいなくて、少しずつ食べた。」

 言われてみるとそんな事があった気もする。


 「そして、1年生が終わる頃、僕のおばあちゃんが僕の事を心配して、沖縄からやってきた。

 母親はその頃、ほとんど家にいなかったから、連絡もしてなかったみたいで心配になったんだろうね。

 おばあちゃんは僕の暮らしぶりを見て、とても驚いたようだった。

 そして、僕を引き取ることにしてくれた。

 年金暮らしで余裕なんか無かったんだろうけどね。」

 そこで彼はコーヒーをもう一杯注文した。

 私はカフェラテにした。


 「だから、僕は二年生になる前に沖縄に転校することになったんだ。

 僕は君にだけは、ちゃんとお別れを言いたかった。

 だから、春休みだったけど、連絡網で君の家を調べて、君の家に行った。

 君は僕が転校することを告げると、とても悲しそうな顔をしてくれた。

 そして、覚えてないかな。

 その後、君に手をひかれて、近所の桜祭りに一緒に行ったこと。」


 それは薄ら覚えていた。

 小学校低学年の頃、誰か男の子と桜祭りに行った。

 確かに行った。思い出した。

 私がそう伝えると、彼は頷いた。


「君は僕にこのイチゴの消しゴムを買って、プレゼントしてくれた。

 その頃、学校で流行っていた香り付きの消しゴム。

 僕がみんなが持っているのを羨ましそうに見ていたのを、君は知っていたんだね。

 そして、最後に君はお小遣いをはたいて、綿アメを買って、半分を僕にくれた。

 僕は俳優になって、色々な美味しいものを食べたけど、どんな有名なパティシエが作ったお菓子も、君と一緒に食べたあの綿アメの味には適わない。

 今でも夢に出るくらい、美味しかった。

 そして最後の別れ際、僕と一つ約束をした。覚えてないかな。」

 約束?全く記憶にない。何を約束したのだろう。


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