番外編 大統領と王子の切ない生活



 心地よい疲れに深い眠り。ようやくそれから目覚めようとした時に、カイ王子はぼんやりと薄目を開けた。ゆっくりと視界のピントが合ってくる。

 窓からまだ淡い光が差し込んできたのがわかった。時刻が早朝なのは、スマホの時計を見なくてもわかる。

「・・・シルビア」

 隣りで眠っていたはずの妻の名を呼ぶが、応えがない。

 昨日まだ日の高いうちから貪った細い体はいつの間にか消えている。一緒に眠ろうと言って腕に抱いて寝入ったはずの彼女の姿を探して、上半身を起こした。

 王宮の客室のベッドはそれほど広くないから、離れて寝るのは不可能だ。室内を見回したが、彼以外の人影はどこにもない。クローゼットのドアに、昨日脱ぎ捨てたはずのカイ王子の着替えがハンガーに掛けられて吊るされていた。その代わりに、シルビアのスーツが消えている。

 両手で顔を押さえ、目元を軽く指で揉んだ。

 もう、出て行ってしまったのだろうか。

 大統領は忙しい。もしも補佐官たちが帰国しているのならば早急に呼び戻され、今頃は執務室で書類に囲まれているのかもしれないし、議会の質疑応答に準備しているのかもしれない。

 そう言う事は覚悟していた。結婚する前からわかっていたことだ。

 シルビアは普通の女性とは違う。小さいけれどこの国の大統領だ。王子の倍も三倍も働かなくてはならない。そうなることを知っていて、一緒に居られる時間が極端に少ないことも覚悟の上で結婚を望んだのは王子自身だった。

 だが、ここまで骨抜きにされるとは思ってもみなかったのだ。

 カイ王子にとってのシルビアは遠い日の思い出で、過去に憧れた女性に過ぎなかった。母王妃と彼女の父親との再婚が無ければ、きっと思い出で終わっていた恋だったと思う。叶わない片思いで済んでいたはずだった。

 思い出の中の彼女はちょっと田舎っぽいけれど優しくておおらかな人で、どんなことも受け止められる器の広い所に惹かれた。細い眼を一層細くして笑って、任せておきなさい、とでも言うように薄い胸を叩く姿が、印象的で。こんな女性のためだったら、どんなに振り回されたっていいのに。むしろ望んで彼女のためにいくらでも、と思えた。

 そう思う事が、惹かれている、ということなのだと気づいた。

 市井の一般女性の一人である彼女と、王家の嫡子である自分とは相容れない。一般女性と婚姻する王族もいなくはないが、国王直系の自分に叶う恋ではないと気付いたのと同時に。

 それなのに、事態は二転三転して、手の届くとことまで彼女は近づいていたのだ。

 彼女の父親の代わりに大統領選へ出馬させ、当選すれば、アルフレート陛下の出した条件とも合う。

 このまま王政が廃止になり、彼女が大きな権力を手にすることになれば、自分にもまだ機会が残されているのではないか。

 シルビアと結ばれるかもしれない可能性があるのかもしれない。そう思って彼女を調べた。

 聞けばあれから彼女は一度も縁づくことは無く、男の影も形もない。それはどうも彼女のせいではなく周囲のせいらしい。ならば、まだカイ王子にだってチャンスはある。

 見てくれがいい事には自覚がある。留学先でそれなりに遊んで来られたのは生まれつき整った容姿のおかげだとわかっていた。

 問題は彼女が自分を好いてくれるかどうかだが、それはもう、自分次第としか言いようがない。ただ、外見で嫌われる事だけはないはずだ。

 そして、思いが叶って再会してみれば。彼女はボロボロに疲れ果てていた。

 彼女を大統領にしてしまったことを深く後悔した。こんなにも疲弊させてしまったのは自分のせいでもある。

 でも、もう手放せない。こんなにも彼女に入れ込んでしまった。会って話をして抱きしめてしまえば、もう駄目だ。彼女はあの頃のままだったから。

「いくら王室からの後押しがあったとはいえ、・・・本当に当選しちまうんだもんな。」

 彼女がこの国で初めての大統領選に勝てるかどうかは、半信半疑だったのに。彼女は驚いたことにとても人気があったのだ。

 自分が彼女に惹かれたように、多くの人が彼女に惹かれていたと言う事なのだろう。

 フローリアンが彼女に好意を抱いたように、この国の殆どの男はシルビアのような女性を好むのだ。働き者で大らかな彼女のような女性がいるからこそ、この小さな国はどうにかまわっている。シルビアはそういう女性の代表だ。エリート然とした弁護士などより、よっぽど親しみを持てるのだろう。

 冷たくなったベッドのシーツに手を置く。王子の隣りの、その辺りでシルビアは寝息を立てていたはずだった。

 彼女が王宮に到着した時間はまだ昼過ぎだったが、その時間から日付の変わる時間までベッドから出さなかった。日付の変わるころにようやく空腹を覚え、腰のフラフラする彼女を入浴させ、夜食を作って食べさせた。

「美味しいわ。サッシャの料理好きよ。」

 お世辞なのか本音なのかわからないが、シルビアはいつもそう言って喜んで食べてくれる。

 姉のアデラなど、気に入らない食材が一つでも入っていれば文句ばかりだし、母王妃は盛り付けや味付けが気に入らなければ手も付けない。だったら自分で作れ、と言いたいが、姉はともかく母王妃はいいところのお嬢なので台所に立ったことがないのだ。

 なのに、王子の自分が炊事をすることには疑問を感じないと言うのだからどうかしている。

 今は母王妃も姉王女も傍に居ないから随分と気楽に過ごしていられる。そういう意味でもシルビアの父親には感謝だ。

 メディアを覗けば一日にのうち必ずどこかでシルビアに関する報道は見られる。だから、彼女の無事を確認するのはそう難しい事ではない。今も、スマホに電源を入れて国営放送のサイトや政府広報を見ればどこかに彼女の動向が載っているだろう。

 だが、カイ王子が欲しいのはそれではない。

 出かけてしまうのなら、そうと一言自分に告げて欲しいのだ。たとえ深く寝入っていても、起こしてほしかった。

 行ってくると一言告げて、キスの一つも交わして行って欲しい。

 そんな自分はシルビアに甘えているのだとわかってはいるけれど。自分を気遣っているからこそ黙って出て行ってしまったのだろうとわかっているけれど。

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