番外編 大統領と王子の甘くない生活

 補佐官が慌ててホテルの玄関へ飛び込んでくる。傘を持っていなかったのか、髪も顔もびしょ濡れだ。

「やはり船を出すのは無理だそうです。今夜は欠航に。」

「えー・・・。まあ、この嵐じゃ無理もないか。昼間はあんなに晴れてたのにな。」

 エルンストにタオルを手渡して、玄関のドアの向こうを眺める緑の瞳は冴えない。

 今回の海外出張は、レアメタルの精製工場の視察だった。本当は、年下の夫も同行させた方が参考になるかと思って誘ったのだが、イケメンヒモ王子はそれを断り、故郷の国で彼女を待つと言ったのだ。

 俺の釣った魚を食わせてやる、と意気込んでいたカイ王子の端正な横顔を思い出し、シルビア・エンダース大統領はため息をつく。

 昨夜電話で今夜の船便で帰ると伝えてしまった。きっとがっかりしている事だろう。

 飛行機で帰ろうにも、シルビアの国には大きな空港がない。旅客機を受け入れる設備がないのだ。それに、この嵐ではどちらにせよ空の便も欠航だろう。

 そもそも空港が機能するようならば天候が荒れる前に帰国できていたのだが。

 アデライード王女が空港をおねだりしていたのも無理はないと感じる。自分が困ってみて初めて実感するのだ。それでは困るのだけれど、否めない事実だった。

 しかし、空港の建設には巨額の資金と長い時間が必要不可欠だ。広い土地を買い上げ、整備し、航空会社を入れ、騒音問題にも配慮しなくてはならない。一朝一夕に出来るものでは無かった。

「ホテルの支配人に延泊の手続きを。ほら、シルビア、行きますよ。」

「はいはい。」

 補佐官に促され、先ほどチェックアウトを済ませたばかりのフロントへ足を運ぶ。

 一国の元首という賓客ではあるが、シルビアの国は小さな国だ。補佐官と大統領本人と、そのガードが付きそう三人の旅程がこんなふうに狂う事はままあった。 

 大統領と王子との結婚式が行われてから一月。身内だけの小さな式だった。それからまた、通常の日常に戻っていく。

 夫婦となっても一緒に暮らしているわけでもない二人は、週に一度会えればいい方で、挙式の後は一度しか会えなかった。

 仕事に追われるシルビアは、それを寂しいと感じる余裕がない。

 ただ、ほんの少しだけ、寂しい思いをカイ王子にさせていると思うと胸がちくっと痛かった。

 いやいや、あんなイケメンヒモ王子が自分がいないくらいで寂しいなんて思うわけがない。と思い直せば、もっと胸が痛かった。

 どちらにせよなんか痛いので、考えないことにする。

 幸いと言っていいかどうかわからないが、シルビアにはやらなくてはいけないことがたくさんあるし、考えねばならないことも山ほどある。延泊手続きをしてくれたエルンストと共に宿泊する部屋へ入ってケースから書類とノートPCを取り出した。

「仕事する気ですか、シルビア。」

「ああ、うん。時間が勿体ないし。」

「こんな時くらいは休みなさい。肌が荒れるんじゃないですか。またカイ王子にブスって言われますよ。」

 思わず口を尖らせた大統領の顔を見て、呆れたようにため息をつく。彼女をくれぐれも休ませることと、彼女に食事を必ず摂らせるようにすることは、補佐官が王子に強く頼まれていることだ。

「仕事してる方が気が楽なのよ。」

「ああ、そういうこと言うだろうと思って。これ、殿下から預かってるんです。はい。」

 エルンストのブリーフケースからポンポンと箱が出てきた。

 入浴剤、肌パック用化粧品、ヨガのDVD、リフレクソロジーの入門本などが、シルビアの寝るベッドの上に散らばる。

 用意周到な若い夫が頭に浮かんで、シルビアは黙ってPCをケースに閉まった。


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