第29話
副大統領の拘留につき、現在議会議長はエルンストが代行している。
バスティアンとの面談の後も、彼は何も変わらなかった。いつものように事務的に、少々口煩くシルビアに意見する姿も変わらなかった。
就任式からようやく一週間が経ち、ようやく再び機能し始めた大統領府は相変わらず忙しい。
「シルビア。カイ王子より通達が届いています。」
「通達?」
彼にしては珍しく、随分と筋の通った連絡の仕方だ。
勝手に自宅に訪ねて来たり、いきなり執務室へ寄ったり、携帯電話に直接連絡を入れてくるのが彼の接し方なのだが、今回は随分ときちんとしている。
エルンストから手渡された公文書には、二日後の午後から大統領の身柄を丸一日預かりたい旨が記されていた。
「王宮の方で何かあたしに用事でもあるのかしら?それなら、内容を書いてくれるはずよね。何かしら。」
「・・・またデートでもしたいと仰っているのでは。」
事務的にぼそっと言った補佐官兼議会議長の顔が、少しだけ憮然としている。
なるほど。カイ王子の方で補佐官に掛け合ってシルビアの時間を取ってくれたのだろう。スケジュール調整が大変な彼にとって、カイ王子の要望はきっと気に染まないのだろうが、それでも協力してくれるのだからありがたい。
殺害未遂で拘留されているバスティアンの言葉を今も覚えている。
従兄弟として秘書として、今は補佐官としてシルビアを支えてくれているエルンストの正体は、今もわからないままだ。
自分は、バスティアンの言う通り、おめでたい奴かもしれない。お人好しで馬鹿なのかもしれない。
でも知らなくていいと思うのだ。エルンスト自身が必要だと思えば自分からシルビアに話してくれるだろう。初めて彼に会った時、父のディーターは母方の従兄弟に当たるんだよ、と紹介してくれた。
亡くなった母親は大きな農家の娘だったらしく、ディーターとの結婚を反対され家を出てそれっきりなのだ。母の身内は、葬式にさえ顔を出さなかった。だから、彼が母方の従兄弟だと言われて素直に信じたし、疑う理由も必要性も無い。彼の正体など大したことではないのだ。
現在は留学先や、父親の元へ行っている弟妹達を、自宅に匿ってくれていたことも聞いた。シルビアに、敢えてそれを洩らさなかったのも、彼らしい気遣いだと思う。
エルンストは、昔も今も、シルビアにとってかけがえのないパートナーであり、協力者だ。その正体がなんであれ、彼がシルビアの味方でいてくれるのならばそれだけでいい。
彼はシルビアの話を聞いてくれるし、シルビアも彼の話を聞く。それが出来るのだから。
「・・・丸一日とか、あたしいなくていいの?」
「今回だけ、特別です。・・・王子もとても貴方を心配している。仕方ありません。」
「ありがとう、エル。大好き。」
「はいはい。その代わりに、それまではいっぱい働いて頂きますからね。」
「そう言えばね、あの、・・・アデライード王女様のご友人、なんてったっけ。重要参考人になってる。」
補佐官の目つきが、ほんの少しだけ変わる。
「エヴェリーン・オックスですか?逮捕状が出ないので、捕まえるわけには行かないのですが、足取りを追わせています。が、今の所行方が分かりません。彼女が、何か?」
「王子は行き先に心当たりとか無いのかなって。知り合いなんでしょ。」
「思い当たることは全部話した、と。警察庁長官が仰ってました。王子さえ知らない場所に潜伏しているか、あるいは、もうこの国から出てしまっているのかもしれません。」
「ふーん。じゃあ、しょうがないね。」
「貴方は彼女の事なんか気にしなくていいんですよ。」
思わず顔を上げる。
シルビアがそうしてしまうほど、エルンストのいい方は突き放した感じだ。
「そうだね。」
苦笑いして答えてから、再びPCの画面を見た。
よっぽど関わって欲しくないのだ、という補佐官の気持ちが見えたから。
その日の夜も更けた後、遅い夕食を補佐官たちと共に執務室で取ってから帰途に付いた。
警備員が自宅まで送ってくれたので、彼に礼を言って手を振った。家の前や裏口に設置された防犯カメラはまだ新しく、目立たない場所にあると言うのになんとなく違和感を覚える。家の鍵と錠も新しくされ、まだ鉄臭さの残る鍵を差し込む。
王子が言うに、今エンダース家でできる防犯処置の全て行ったそうである。さすがに、24時間体制でガードマンを家に常駐させておくことだけは断った。
あまりに厳しい警戒に、自宅に入るのが怖くなってしまうからだ。
きっとシルビアの目に付かないような処置が他にもたくさん施されているのだろう。詳しく追及はしなかった。知ってしまうと意識してしまうため、自宅だと言うのに居心地が悪くなる。
リビングへ入って上着を脱ぎ、ブリーフケースを所定の場所に置いた。洗面所へ行って化粧を落とし、そのついでに風呂も沸かしてしまう。
一人でいるのはとても気楽だ。誰にも気を使わなくていいという空間は、とても気が休まる。
弟妹達がいなくなった自宅はひどく広いけれど、その代わり、彼らの世話という仕事からは解放されるのだ。
部屋着に着替えてリビングのソファに座る。
座ってからそのまま横になると、天井が見えた。
就任式の前夜、王子との情事が思い出されて、一人赤くなる。
あの日、シルビアは処女ではなくなったのだ。
きっと一生、誰ともすることはないだろうと思っていた。しなくてもいいと思っていた。
いつからかそう思うようになっていたのだ。恋愛とか結婚とか、そういうのは自分とは縁のない話だと。だってそんなことしていたら、やってられない。
好きな人の事と思って眠れない夜があったりしたら、翌日の仕事に響いてしまう。誰かの事を考えて上の空でいたら、弟妹に泣かれてしまうし、家事も疎かになるだろう。ましてや、つきあったり一緒に遊びに行ったりする時間など無い。
そして、仮にシルビアの事を好きだと言うもの好きがいたとしても。シルビアと付き合うのは気の毒だ。
ろくに一緒にいられない。遊びにも行けない。そんな彼女はつまらないだろう。
結婚してしまったら、今度はもっと大変になる。仕事と弟妹の世話の他に、亭主と子供の世話が更に自分の肩にのしかかってくるのだ。
なのに、カイ王子と来たら。
自分は働かないし大人だからシルビアに世話をかけない、と言うし。
そもそも王子なので王宮に住んでいる。王宮には家政婦も執事もいるから家事も必要ない。遊びに行きたければ勝手に行くし、シルビアの手を煩わせることは何もない。
宿題を見てやる必要もなければ、お小遣いを渡す必要もない。シルビアの仕事に対しても協力的だった。
まるで夢のような好条件だ。その上若くてイケメンとくれば、もう非の打ち所がない。
そんな王子の口から、結婚しよう、と言ってくれたのだ。
あの夜に大切に愛された記憶が脳裏に甦る。彼は手慣れていて、優しかった。勿論苦痛もあったけれど、優しくしてもらったと言う事実の方がずっと大きい。
もう死んでもいい、と言う幸福は、ああいう事を言うのだろう。
自宅に帰ってリビングのソファで思い出に浸って独り悶えている。ここのところはずっとそんな感じのシルビアだ。だから、寂しさを感じる余裕さえもない。
防弾服を用意して貰ったから、命も助かった。着弾の衝撃の強さに気絶したし、痣は残ったけれど、死なずに済んだのは王子の忠告のお陰だ。
32年間生きてきて、恐らく初めてシルビアは恋をしているのかもしれない。5歳も年下のヒモ志望の王子様に。
お風呂が沸いた、と思った頃、シルビアの携帯電話が鳴った。
ひょっとしたら、カイ王子からかもしれない、と喜び勇んで通話ボタンを押す。
「こんばんは。大統領閣下。」
非通知だった相手先も確認せず、出てしまったのはシルビアが悪い。
鈴音のような綺麗な声なのに、どこか鼻につく高い声は、いつかどこかで聞いたような気がする。
「どなた・・・?」
「いつぞや王女と一緒に執務室にお邪魔したエヴェリーン・オックスですわ。閣下。今、お一人?」
名前を聞いて、補佐官の冷たい反応を思い出す。
バスティアンと組んで、大統領暗殺の片棒を担いだ女の名前を、エルンストは快く思ってはいない。
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