第16話


 スウェードの上着に綿シャツ、プレミアムが付いていそうなダメージジーンズのポケットからスマホを取り出してテーブルの上に置く。

 艶のある黒髪に、金の瞳。端正な顔立ち。お育ちのいい綺麗な手がひっきりなしに動いている。

 ごく普通の民家のリビングに、白鳥が降り立ったかのようだ。

 どう見ても場違いと思えるようなカイ王子が、シルビアの家の食器を取り出して、そこに自身が作ったと言う料理をよそっている。鼻歌付きで、ご機嫌なのだろうか。

「このパンはね、うちの執事が焼いたの。パン作りが趣味なんだぜ。」

 バスケットの中身を示して楽しそうに告げた。

「そ、そう。美味しそうねぇ・・・。」

 コーヒーを淹れながら、呆然と言う。

 なんでうちに王子がいるのだろう、という疑問を、噛みしめては飲み込んだ。

「なあ早く食べてよ。感想聞きたい。」

「ええ、そうね。」

 二人分のコーヒーを淹れてテーブルへ運ぶと、シルビアは王子の隣りに座った。

 ここに座れ、と、王子が手で示すからだ。

 首を長くして感想を待っている彼の目の前でゆっくりと一口目を口に口に入れる。

「あ、美味しいわ。」

 自然に口を突いて出たシルビアの声に、王子がにっと口角を上げた。

 食事を終えると、食器を洗うシルビアの横で、王子が皿を拭ってくれていた。正直信じられない絵面だ。

「なあ、シルビア。なんで家族と一緒じゃないの。」

「う、うん。・・・ホテル泊まりが珍しいんじゃないかな。サッシャ王子が連れ出してくれたんだって聞きました。ありがとう。」

「そりゃあんな事件が起きりゃ放っておけないからな。あんたの秘書にも頼まれたし。・・・でもあんたあんなに会いたがってたろ。だから挙式の当日だってのに実家に戻ろうとしたんだろ。それなのになんで一人なのさ。」

「・・・うん。まあ、そういう事もあるのよ。みんな大きくなったからね。」

 シルビアの言葉はなんとなく歯切れが悪い。

「どういうこと?」

 言っていいのか悪いのか、少しだけ躊躇した。

 王子は口が軽いタイプには思えないし、そもそも彼とシルビアの弟妹がそんなに親しくなるとも思えない。ちょっとだけ溢してしまってもいいかなと自分に言い訳しながら、胸の奥の愚痴が口をついて出てくる。

「・・・昔はああじゃなかったわ。皆、あたしが大変だって知ってて、家の事も工場の仕事も手伝ってくれてたの。凄く協力的で、だからこそみんなのために頑張れたのよ。弟たちも一生懸命だったからこそ、あたしもやれることはなんでもやんなくちゃって、そう思ってた。年は離れてても、仲良くて、助け合ってて・・・だから何も辛くなかった。いや、まあ物理的にはキツイこともあったけど、でも、平気だった。父さんの代わりをする時も、皆、応援してくれててね。」

 長男のボニファーツは工場を継ぐから工学部に行きたいと言って外国の工科大学へ進んだ。次男のカシミールは父親の政治活動を手伝うのだと言って欧州の法学部へ。ファビアンも地元で働くのだと言って公務員試験の勉強をしていたのに、高校の交換留学で欧州に行ってから少し変わってしまった。

 メラニーやビアンカは、家の事をやってくれていたのだ。家の中の片づけや、工場の掃除はいつも彼女たちがやってくれていた。その度にシルビアは彼女たちの小遣いをはずんだ。

 いつの間にか年長の弟たちは家に戻らなくなり、妹たちは彼氏が出来たり習い事に夢中になって家の事をしなくなった。

 母親が死んだ時から工場の事も家の事も切り盛りしてきたシルビアなのだ、弟妹達の労働力を充てにしていたわけではない。だから物凄く負担が増えたとか、そう言う事ではなかったけれど。

「・・・まあ、皆それぞれ自立してきたから、一緒に居られないのも仕方がないと思うし。それに、・・・今日は、あたし自身が一人になりたかったのよ。」

 でも、いざたった一人で自宅に帰れば。

 じっとしてはいられないくらいに寂しくて、夜中近い時間だと言うのに片づけをはじめたり洗濯をしたりしてしまう。

 洗った皿の水を切って王子の手渡す。

 王子はそれを受け取って、渇いた布で水分を拭き取った。

 作ってくれたと言うポトフは普通に美味しかったし、今も食器の片づけを手伝ってくれている。王族らしくないその行動に、違和感しかないのだが、王子本人は当たり前のようにそうしていた。手際のいい様子を見れば、手慣れているとしか思えない。

「今も、一人の方がいい?俺、邪魔をしたのかな?」

 少し眉根を寄せた顔で、王子が聞く。

 その質問に、シルビアは首を横に振って答える。

「美味しかったし、嬉しかったわ。ありがとう、サッシャ王子。」

 手を拭った彼女が王子の方へ向き直り見上げる。

「・・・どういたしまして、奥さん。またブスになんないように、早く寝ろよ?」

「・・・ブスは余計よ。」

「なあ、次はいつ会おうか。」

 気軽にあるいは当たり前のように。王子は次の逢瀬を催促する。

 それが嬉しいし、なんだか愛おしい。言ってしまえば可愛いと思える。それはシルビアが年上だからかもしれない。

「申し訳ないんだけど、スケジュールは全部エルンストが管理してるの。時間を空けられるかどうかは、彼に聞いてくれるかしら。」

 そう伝えた途端、王子の端正な顔がふくれる。

「なんでそうなるんだ。亭主が奥さんに会うのに、なんであいつの許可がいるのよ?」

「・・・だって、彼がいなくちゃあたし何も出来ないし。」

 エルンストは優秀な秘書だ。彼有っての自分である。

「くっそ、その台詞。俺に置き換えて言って貰いたい。」

 この王子は何を言っているのだろう?彼も秘書になりたいとでも言うのだろうか。エルンストは涼しい顔でこなすけれど、あれは中々ハードな仕事だとシルビアは思うのに。

「・・・?『貴方がいなくちゃ、あたし何も出来ない』・・・?こう言えばいいの?」

 何も考えずに言葉だけを置き換えて言ったシルビアの声に、王子が赤くなった。深い意味などないのに。

「天然か。もう・・・」

 小さく舌打ちした音が聞こえたと思ったら、次の瞬間には両肩を引き寄せられていた。

 ぐっと胸元に顔が近づき、頬が王子の胸に触れる。背中まで彼の手が伸びてしっかりと抱きしめられている。はっとして今度はシルビアの方が赤面してしまった。自分の言った言葉の意味を、今更理解したのだ。

 甘ったれた小娘のような台詞だった。自分ならばまず相手に言うはずのない言葉。

「あの、深い意味はなくて、ただ置き換えて言ってみただけで」

「わかってるけど、くっそ可愛い。俺がいなくちゃ何も出来ないあんたななんて有り得ないってわかってるけど、やっぱり可愛い。嘘だとわかってても。」

「そんなわけないんだから。本気にしないでよ、絶対。」

「しないけど、したい。超本気にしたい。しないけど。」

 ぐいぐいと額をシルビアの肩に押し付けてくるカイ王子が、本当に可愛らしい。

 王子はシルビアを可愛いと言ってくれたけれど、シルビアから見れば、王子も可愛いのだ。年の離れた弟のいるシルビアにとっては、年下の男は、皆、弟みたいなものなのだから。今日は、実の弟よりも、ずっと可愛いと思える。

 

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