第15話



 秘書に車で送ってもらって自宅に帰り付いたシルビアは開錠して玄関のドアを開ける。明かりを点けて、二日ぶりの我が家を見やった。

 エンダース家は工場に隣接する民家で、サイズも作りも普通の家だった。勿論セキュリティシステムもガードマンもいない。

 二日前に家を出る前はシルビアがきちんと片付けて置いたリビングが、散らかっていた。上着やら靴下やらが脱ぎ捨てられ、食べ物の袋らしい残骸が床に落ちている。

 ダイニングテーブルには、食べたまま放置された食器がそのままにされていた。

 顔を洗おうと洗面所へ向かえば、隣の洗濯籠に、山のように放り込まれた洗濯物が溢れている。

 シルビアは一番下の妹であるビアンカのダンス用の衣服を預かってきていた。家に戻るのなら、洗っておいて、と頼まれたのだ。洗濯機の蓋を開いて、分別しながら中へ洗濯ものを放り込み、洗剤を入れる。蓋を占めてスィッチを入れれば全自動で乾燥までやってくれる優れモノだ。

 手を洗って、うがいをすると、のろのろとダイニングテーブルを片付ける。それから、リビングも片付け、ざっと掃除機をかけた。

 リビングの片隅にある小さなテーブルを見ると、工場の工程表が新しく更新された状態ファイルが置かれていた。それにも目を通す。今はシルビアがいなくても、工場の方はどうにか回っている。いずれは、それが当たり前になるのだろう。・・・そうなったら、工場もエンダース家のものではなくなってしまうのかもしれない。

 誰もいないリビングで、静かに息をつく。

 バッグの中で、マナーモードにしている携帯電話が震えた。ダイニングテーブルの上で鈍い振動音を立てている。びっくりしたように身構えたシルビアは、慌ててバッグを開いた。

 見た事のない番号だった。恐る恐る、通話ボタンを押す。

「奥さん、仕事済んだ?家族にも会えたかい?」

 その声には覚えがあった。

「・・・っ!カイ王子!?」

「ねぇ、会わない?ちょっとでもいいから。」

 電話の画面に表示されている時間を見る。あと二時間ほどで日付の変わる夜更けは、大人とは言え気軽に外出する時間帯ではない。

「悪いけど、忙しいの。ごめんなさいね。また今度。」

 断わりながらも、シルビアの声には残念だと思う気持ちが滲んでいた。誘ってくれたことが嬉しかったのだ。

「それに、王子が出歩く時間じゃないでしょう。叱られるわよ。」

「馬鹿言わないで。27にもなって夜遊びが出来ないとか無いから。夕食はちゃんと、食べた?」

 夕食、と言われて、今それに初めて気が付いた気がする。弟妹達にはホテルで食べさせてきたが、そう言えば自分は食欲が無くて食べなかった。

 時間で言えばとうに空腹を覚えていなくてはならないはずなのに、少しも腹の虫は泣かない。

「・・・食べてないんだ。あんたの秘書官に聞いたよ、シルビアはよくご飯を抜いてるんだって。だからそんなに痩せてるんだろう、駄目だよ。」

 ふと、止まった。呼吸が止まった気がした。

 何故か息が詰まって、返答が出来ない。電話を持つ手が震える。

「・・・シルビア?」

 黙ったままの相手に、王子が訝しんで何度か名を呼ぶ。

 震える声で、シルビアは全く関係のない言葉を吐いた。

「殿下は、誰にこの番号を・・・?」 

「だからあんたの秘書。エルンストってったっけ。あんのやろ、亭主の俺に教えるのに渋りやがったんだぜ。なんだって亭主が女房の連絡先を知ってちゃいけないのよ。」

 秘書官がシルビアの連絡先をおいそれと教えないのは、仕方のない習性だ。

 今は大統領と言う大きな肩書を持ったせいもある。

 父親の代理を務めるようになってから、エルンストは出来るだけシルビアの携帯を預かるようにしていたし、番号を人に知られないように気を使ってくれていた。でないと人の好いシルビアは誰にでも教えてしまうし、誰からの電話をも取ってしまう。どんな煩わしい用事でも、引き受けてしまうからだ。

 最初エルンストはお説教するだけだったのだ。なんでも安易に引き受けるものでは無い、と長々と説教された。

 だが、そのうち諦めて、シルビアの携帯番号を変えて、更に、日中は預かるようにしてしまった。だから、一日の終わりには携帯を返してもらって、着信記録や溜まったメールを見るのが日課になっていた。

「なあ、大丈夫か?今、どこにいる?」

「実家よ。大丈夫。」

「なら、15分で着くから待ってて。あ、やっぱ20分。な?宅配ピザだってそのくらいは待つだろ。待ってて。」

「そんな、殿下がいらっしゃるような場所じゃ」

「俺はこの国の王子なのに、行っちゃいけない場所があるわけ?」

「いや、そういう意味じゃないけど。・・・ていうか王子うちの場所知ってるの」

「行った事あるもん。工場の隣りだろ。」

「なんで?王子うちに来たことがあるの?」

「あるよ。あんたが覚えてないだけ。とにかく20分後ね。寝るなよ?」

 王子が早口に告げ終えると、通話は切れた。

 シルビアも携帯の画面に触れて通話を切る。すると、何故か画面が濡れた。指先が濡れていたらしい。

 なぜだろう、とふと気づくと、自分の顔から水がぽたりと滴り落ちたことに気が付く。

 なんとなく目が痛い。少し鼻の奥も痛い。自分が涙を溢していたのだと、やっと自覚する。

 でもそれは、悲しいとか、辛いとか、そういうマイナスな涙では無くて、温かい何かが胸にあふれた時の涙で。それを嬉し泣きというのだと、思い出した。

 会ったばかりの年下の王子の、自分を気遣う言葉が余りにも意外で、しかも嬉しくて。自覚無いまま泣いてしまったのだ。

 落ちかけた化粧に、泣いて充血した目など、殿下に見せられる顔ではない。

 携帯電話をバッグへ戻し、シルビアは立ち上がった。

 王子は20分と言った。それだけあれば、軽くシャワーを浴びて化粧をし直すくらいの時間を取れるはず。リビングに掃除機をかけておいてよかった。王子をもてなすような家ではないが、散らかっているよりはましだ。

 きっかり20分後に、再び携帯が鳴る。

 家の前にいる、と言うので、シルビアは玄関の明かりを灯した。鍵を開けてドアを開く。

 とたんに、いい匂いがした。なにか、煮物でもしたかのような。近所の家で作ったのだろうか。

「こんばんは、奥さん。あ、ちょっと手を貸してよ。これ、持って。」

 王子は何やら両手が塞がっている。両手鍋だ。まだ熱い。

「なに、手を貸してってどうしたのサッシャ王子。これは、何?」

 挨拶もそこそこに手を出したシルビアの言葉に、王子は僅かに金の目を細めた。彼女はそれに気付かず、タオルで覆った手鍋を彼から受け取ると、王子は再び外へ出て、またもや何かを手にして戻ってきた。

 藤のバスケットに、白いナプキンをかけたもの。湯気が出ている。 

「ハイ。オッケー。鍵はこれ?さあ、どこに俺は座ればいい?」

「あ、狭くて汚いけど、リビングにどうぞ。」

 さっさと玄関の鍵をかけると、ずかずかと中へ上がり込む。それを図々しいとは思わなかった。王子だから、当然の事なのだろう。

 リビングに通すと、王子はテーブルの上に手にしていた籠を置いた。ナプキンを退けると、焼き立てのパンがほかほかと湯気を上げている。

「その鍋はね、ポトフ。一緒に食おうと思って持って来たの。食器は貸してね?」

 立ち上がった王子がもう一声付け足す。

「しかも、俺が煮たのよ。午後からずっと煮込んでから、自信作。」

 シルビアは緑の目を丸くするばかりだ。

 

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