第5話
従兄弟でもある秘書はもう目がクロールしそうなほど泳ぎ出すし、サングラスをしているからわからないけれど、ガードマンのおじさん方だって困惑の体であろう。
いくら挙式する予定の相手とは言っても、いきなりすぎる。
そして、周囲には人もいる。
何よりも相手の承諾がないままだ。
両手で顔をがっしりと押さえて強引に唇を合わせてきたカイ王子は、びっくりして動けないでいるシルビアの口の中に舌を差し込む。
「~~っ!?」
シルビアの口から悲鳴すらも出ない。
まるで断末魔の痙攣が起こっているみたいに手足をびくつかせるだけだ。
一分、二分、三分、・・・恐らく、10分は経っただろうとエルンストが思ったのは、自分と同じようにガードマンの人が腕時計を見ていたからだった。
息の上がったシルビアをゆっくりとソファ寝かせると、カイ王子が立ち上がった。
両手で顔を押さえている彼女は、肩で息をしていて、しわしわのよれよれになった白いドレスまでもがその息遣いに合わせて揺れている。
立ち上がってドアのそばのガードマンに目配せした王子は、服装を片手でただしてから、ソファの傍らに膝をつく。
顔を見せないシルビアの耳元に、
「今度離婚なんて言ったら、もっとひどいから。」
囁くように告げて再び立ち上がった。
そして、はじめてそこにエルンストがいることに気が付いたかのように、視線を向ける。
「式場の責任者と警察庁長官が玄関まで来るから、シルビアが起き上がれるようなら連れて来てもらえるかな?無理なら君だけ来て。」
「・・・は、はい。わかりました。」
硬い声で答えると、王子は満足そうに笑う。
静かに王子が出て行ったドアの音は、静まり返った室内に響いた。
「・・・あの」
「・・・。」
「大丈夫ですか、シルビア。」
なんと声を掛けたらいいのかわからないが、かけないわけにも行かない。
遠慮がちな従兄弟の声を聞いても、直ぐに返事は出来なかった。
大丈夫なわけがない。
シルビアは32歳の処女だ。そんな女が挙式の当日とは言え、5歳も年下の男に無理矢理キスをされて立ち上がれなくなるなんて事態は、どこを切っても問題だらけである。
権力で押さえつけられたわけでもない。暴力をふるわれたわけでもない。しかしブスは連呼する。
事件の後、ずっと抱っこされ続け、挙句の果てに腰が立たなくなるまで口づけされるとか。
長い沈黙の後、
「・・・もう、一体、なんなのよぉ~・・・あのクソ王子・・・!」
泣きそうな声でそう言うだけで、せいいっぱいだ。
そんな従姉妹の情けない姿を、秘書は同情の目で見つめるしかなかった。
助けに来てくれたことは嬉しかったのだ。
ブスとか言っていたのに、自分の身を案じてくれていたのだ。そう思えば、嬉しい事だし、有り難い事だった。それが恋愛感情からの心配ではないにしてもだ。
爆風で浮いた身体をしっかりと抱き止められた時には不覚にも胸がときめいた。こんな風に誰かの腕に抱かれたのはいったいいつぶりの事だろうか、と。
俳優張りのイケメンでスタイルもいい。しがみつけば頼りになる立派な胸板と大きな肩。悪くない、と思ってしまった。ぎゅっと力強く抱き締められたら、まるで好意があるかのように感じてしまう。惚れてまうやろ。
かと言ってその後ずっと抱っこされていたことは筆舌に尽くしがたい羞恥だ。報道 規制がなされて人目がないとはいえ、近くにいた人々には見られてしまった。32の処女には余りに酷だった。
この年まで独身で処女なのは、縁がなかったと言うのが正直なところだ。
小学校の6年生の時、同級生の男子が一緒に帰ろうと誘ってくれた。割と仲が良くて話の合う子で、シルビアは好意があったし向こうも好意があったらしい。周囲の友達の中にもちらほらと異性とお付き合いする子が出て来ていて、初彼氏、というのに憧れてもいた時期だ。
いい感じで二人きりの登下校していると、シルビアの自宅の方から泣き喚く弟を追いかけて、母が大きなお腹を抱えて走ってきた。父のディーターが、労働党で活躍していた頃で、ほとんど家に帰ってこなかった時期でもあった。
弟のお守りをしなくてはならないシルビアは、初の彼氏になりそうだった子と一緒に下校することは無くなった。
中学に上がると、母親が幼い弟妹のお守りで家事も仕事も出来なくなり、代わりにシルビアがご飯を作って、工場の中の事務作業などを手伝い始めた。だから、クラブ活動も出来なかったし、学業成績もいまいちだった。周囲の友達は、シルビアの家が大変な事を知っていたので、みんな気を使って遊びに誘う事もなくなっていた。どうにか進学した高校でも同じで、付き合いの続いた僅かな友人以外とは、会う事もなくなっていた。
中学の時も、高校の時も、そうやって彼女は弟妹のお守りと、父のとばっちりで恋人をつくる暇などなかった。
親しくなる異性はその都度出来たが、特別になることは一度も無かった。
なんでと言われても自分でもわからないのだから仕方がない。
一言で言えるならば、恋人どころではなかったのだ。
そんな苦労性のシルビアを責めないで貰いたい。好きでこの年まで処女を守っているわけではない。捨てたいと思った事もあるが、そんな暇もないと言うか、機会もなかったというか。
小さな国だから、誰もがみんな顔見知りで。
そして誰もがシルビアの現状を知っている。だから、彼女の事情を知っている人たちばかりだから。道を踏み外したくてもそれも出来ない。グレることさえ出来ないのだ。
気が付けば友人たちは皆知らぬ間に嫁に行ったり婿を取ったりして落ち着き、しまいには未だに恋人いない歴=年齢のシルビアを差し置いて、弟妹達の方が先に彼氏彼女を作っている始末。かと言ってそれを羨むのも恨むのも筋違いな気がしてならない。同じ両親から生まれて同じ家で育っている姉弟だ、条件は一緒なのだから。
最近では自分の事など諦めていて、さっさと弟妹達が片付いてしまえばいいのに、とさえ思っていたりする。
そんな達観したシルビアを、周囲の人間は皆不憫に思ってくれるのか、とても同情的だ。いい長女だと褒めそやし、持ち上げてくれるのだ。
そうやってご近所の皆さんの協力を得つつ。友人たちの理解を得ながら。親戚中の援助を受けて。そんな風なエンダース家だったから。誰もがディーターを支持してくれた。そうして、小さな国の小さな反乱が革命へと発展していった。
小さな漁港や、ささやかな農産物。手作りが味の家内制手工業と工場制手工業。そんな産業だけで成り立っていた、のどかで小さな国だった。
昔は、王様ももっと身近な存在で、大きな城の中に閉じこもっているような人たちではなく、一緒に畑仕事をしたり、船の修理を手伝ったりするような、ゆるーい王室だったのだそうだ。だから、この国には王室はあれども、貴族がいない。
近代化の波が急速に襲ってこなければ、そのままのどかな国が今もなお続いていたのかもしれない。
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