論文のお供に食べる夜鳴きそば。空き腹にしみる出汁の温もり。

緑川 湖

12/26 22:40 卒研室にて。

 僕はパソコンの上の論文を眺めながら、ふと自分が空腹であることに気がついた。時計を見ると既に深夜の時間帯。近くのファミレスはまもなく閉店している頃だし、深夜まで空いてる牛丼店もこの近くには無い。家に帰って夕食にしようにも冷蔵庫の食材は今切らしていたはずだ。そういえば、教授が用意してくれている買い置きがあったはずだ。それでも食べようか。


 「ふぅ……こっちは一段落ついた。あー腹減った!」そう言って、コキコキと首を鳴らしながら伸びをしているのは卒検室の同じメンバーの丸川まるかわさんだ。


 「そうですね。丸川さん。僕も一区切り付きました。……折角だから遅いですけどご飯にしません?」


 「いいな。じゃあ教授が置いていってくれたカップ麺でも食べるかぁ。どこに置いてあったっけ?」そう言って丸川さんはおもむろに立ち上がる。


 「そうしましょう。確か丸川さんの後ろの棚です。」


 「おう。すまんな。で、緑と赤どっちにする?」そう言って丸川さんは戸棚を開けた。そこには何個か積み上げられたカップ麺が置いてあった。


 「お蕎麦好きなので緑のたぬきください。」


 「おう。俺は赤いきつねにするわ。」と言って丸川さんは手早く2つのカップ麺を手にとって僕らが使ってる机の上に置いた。


 「おっといかんいかん。お湯を用意しないと。」そう言っていつもはコーヒーに使ってるポットを持ってきた。


 「自分の分は自分でな!」と言って僕をめがけて緑のたぬきを山なりに放った。僕はそれを受け取る。そうしてると、丸川さんは手早くフィルムを剥いてフタを開けた。そのママ粉末スープを入れるかと思ったらそこで手を止めた。


 「そういえばさ、このお揚げさんと天ぷら入れ替えたらどんな味になるんだろうな。」


 「そんなのあんまり変わらないと思いますよ?天ぷらの分こってりになるかもしれないですけど。」


 「そうなのかなぁ。試してみたいんだけど、そっちの天ぷらくれない?」


 「いいですけどそれならお揚げさん下さいよ。さすがに素の蕎麦食べるのはキツいですから。」


 「いいぜ。ていうか流石にそこまでごうつくばりじゃねえから俺!ちゃんと交換のつもりだったし!」


 「わかってますよ。丸川さん。」と、言いながら僕は緑のたぬきの封を切って中から天ぷらを取り出した。そして、それを渡して僕は受け取ったお揚げさんを容器の中に放り込んだ。そして、粉末スープを入れお湯を注ぐ。既に出汁の香りが漂い始めた。丸川さんも自分の分にお湯を注いでいく。


 「なんかワクワクするな。いつもと違う事すると。」心底楽しそうに丸川さんは言う。こういう小さな楽しみと幸せを見つけられる人だから僕達の卒検室のムードメーカーなのかもしれない。もしかしたら丸川さんが居なかったら何回もメンバー同士でケンカでもしてしまっているのではなかろうか。


 「そうですね。新しいことって言うのはワクワクしますよね。……最も、お揚げさんの代わりに天ぷら入ったインスタントうどんって既にあるんですけどね。」


 「え?マジ?」


 「マジです。東洋水産のラインナップにあります。」


 「じゃあ名前は赤いたぬきか?」


 「あ、いえ、名前は単に『天ぷらうどん』ていうみたいです。」


 「じゃあ蕎麦の方は『きつねそば』あ、もしくは『緑のきつね』かぁ?」


 「そっちは『紺のきつね』みたいです。」


 「そっちは固有の名前あるんかい!」


 「そうみたいです。」僕は念の為開いた東洋水産のホームページを見ながら言う。やはり僕の記憶の通り『紺のきつね』はちゃんとある。


 「しかし、ちゃんとラインナップにあるのすごく良いな。今度買ってみようかな。」


 「感想聞かせてくださいね。」


 「今食うのと味違うのかなぁ?」


 「そういうのもひっくるめて聞いてみたいです。」なんていう事を会話していると僕の方は既に3分経ったみたいだ。


 「僕の方は出来たのでお先に。」


 「おう。」そう言って丸川さんはスマホに目を落としている。ラインナップについて調べているのだろうか。


 麺を啜る。すると蕎麦の香りと出汁の香りが相まってとても美味しい。入れ替えたお揚げさんを齧ってみると、出汁によく合う甘めの味わいを感じた。僕好みの味だ。時間は既に深夜。お昼ごはんを食べてからかなり経って完全にカラになっていた胃袋に染み渡る。


 「さて、俺の方も。」といって丸川さんは完全にフタを開けきって、ハシで麺を掴み勢いよく啜った。


 「うん。うまい。いつも変わらない美味しさってのは凄くいいね。なんかリラックスできる。」笑顔を綻ばせて丸川さんは言う。


 「そうですね。食べ慣れてる味があるだけでも精神状態の維持に良いって言うぐらいですからね。」


 「そういえばそうだな。非常用持ち出し袋の中に食べなれてるお菓子とかインスタント食品入れておくと良いって聞くな。今度うちにも赤いきつねストックしとこうかな?」


 「いいと思いますよ。常何時も用意するに越したことは無いですから。」


 こんな会話を麺を啜りながら、のんびりと楽しんでいた。その後ふたりとも食べ終わり、片付けようと立ち上がった時にふと窓の外に目を向けると、ちらちらと雪が降り出していた。


 「雪、ですね。」


 「そうだな。故郷を思い出すよ。」


 「丸川さんは北海道出身でしたね。」


 「まあな。こっちに来てからは初めて見た。」


 「確かにこの辺りはとても暖かい地域ですからね。」


 「まさか、今になって見ることになるとはな…………汚れちまった悲しみに、」


 「……今日も小雪の降りかかる。でしたっけ?」


 「ああ。……浪人時代の大みそかに年越し蕎麦の緑のたぬきを食ってた時も雪が降っていたよ。」


 「……そうだったんですか。」僕は丸川さんが浪人してこの大学に入っていることは一応知っていた。けど、その時の事を詳しくは聞いていなかった。


 「……俺、あの時は凄く悔しかった。模試の点数も長い事停滞してたし、必死に課題と自習繰り返しても事態はなかなか好転しなかったし。で、大みそかも休まずずっと勉強してたんだよ。で、片手間でも食べられるよう緑のたぬきを食ってたんだ。……その時に凄く自分が不甲斐なくて、悔しくなってきて、そしたら泣けてきてさ。……この大学になんとか合格できた後もしばらく、緑のたぬき食う度に思い出して辛くなってたんだよ。」


 「……大変だったんですね。」


 「でも、最近あまり思い出さなくなって来た。そういう事もあったな程度にしか感じなくなって来たんだよ。」


 「……時間が経てばそうなっていくとは聞きますね。」


 「それはそれで良いんだけど、何というか大事な物を忘れてしまうような感覚なんだ。浪人して悔しい思いをしていたというのにその立場の人の気持ちが分からなくなるんじゃないか、そんな気がしてさ。」


 「……それはきっと大丈夫じゃないですか?」


 「……と、言うと?」


 「そうやって言えるなら、多分人の気持ちがわからなくなるなんて事はない気がするんです。それに、今日こうやって話してくれた事を緑のたぬきで思い出せるようになれるかもしれませんよ?」


 「……かもな。」そう言った丸川さんは少し笑っていた。


 「……さて、俺は飯も食った事だし帰るよ。次会うときは年明けだと思う。じゃあ。」丸川さんは身支度を済ませながら言った。


 「ええ。僕も少ししたら研究室の鍵閉めて帰ります。良いお年を。」


 「良いお年を。」 それだけ言って丸川さんは帰っていった。


 一人残った研究室で、片付けをしながら窓の外を眺める。雪はまだまだ降り続いている。今後、僕は緑のたぬきを食べる度に何を思うのだろうか。それはまだ、僕には分からない。


 けど、今言えることは今日の具を入れ替えた緑のたぬきは一期一会だということ。もう一つ、今日の事はきっと緑のたぬきがきっと思い出させてくれるということだ。

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