第5話 二人のおにぎり
眠ることは嫌いだ。遠いあの方のことを思い出す。
あなたを追わず、
誰も恨まず、
ただひたすら、あなたの子を思い、育ててきた。
もう、いいでしょう。そばに行っても。あなたの子は、今や立派な姫となり、あなたから受け継いだ妖刀の鞘を二代目九尾に渡すという役目を果たしました。
あなたのいない色
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
どこからか柔らかい歌声が聞こえてきて、
台所から聞き慣れた歌声がした。まるで、母親のそれと聞き間違えてしまいそうな声で、彼女は最近の流行歌を口ずさんでいた。
「……姫、」
兵衛が体を起こして声をかけると、軽快な足音とともに伊万里が台所から顔を出した。
「先生、起きました?」
「儂は寝ておりましたか?」
「はい。お疲れのようでしたので、そのままお邪魔させてもらいました」
言って彼女は満面の笑みをこちらに返してきた。そう、母親そっくりの。
春になり、今日は久しぶりに天気の良い日だ。春の光が窓から射し込み、部屋全体がやわらかな陽気に包まれていた。
昨日、あやかしの国から戻ってきて、久々に伏宮家に顔を見せた。しかし、やりたいこともあったので、簡単な会話を交わした程度ですぐに引き上げさせてもらった。ただ、その時に伊万里が寂しそうな顔をしていて、少し心残りではあったのだ。
伊万里は谷の狐ではない。「
「
伊万里が風呂敷包みを開けて、蓋のついたプラスチック製の容器を取り出す。中には里芋やゴボウ、鶏肉の煮物が入っていた。
「昨日の残り物で申し訳ないとおっしゃってました」
「とんでもない。猿が喜んでいたと、お伝えください」
兵衛が笑顔で答えると、伊万里は嬉しそうに笑った。彼女が伏見谷へ来て9か月が経とうしている。いろいろあったが、今は伏宮の嫁として、そして女子高校生として楽しい毎日を過ごしていて、二代目九尾を引き継ぐ壬との関係も良好のようである。
そんな幸せそうな彼女の姿を見ることは、兵衛の楽しみの一つでもある。ただ、一方でほんの少しだけ寂しくもあるのだが。
「姫、今日はわざわざこれを持って来てくださったので?」
「違います。先生に会いに来たんです」
「何かありましたか?」
途端に兵衛が真剣な顔を返すと、伊万里はくすくす笑った。
「そうではなくて、先生の顔を見に来たんです。だって、先生はお一人ですから、たまには私が様子を見に来ないと、何を食べているか分かりません」
「猿は、料理が得意です。姫も猿の腕前はご存じでしょう?」
「でも、その腕を先生はご自分のためにふるわないもの」
すかさず伊万里が言い返し、兵衛は思わず言葉に詰まる。同時に、いつの間にか気遣われる立場になったのかと、気恥ずかしくもなった。
伊万里が「ちょっと待っててください」と立ち上がり、台所に消えた。カチャカチャと食器が当たる音がして、すぐに伊万里がお盆におにぎりと取り分け皿を乗せて戻ってきた。
「おにぎりを作っていたんです。先生が起きたらすぐに食べられるように」
言って伊万里が、手際よく皿やお箸を並べていく。茶飲みに緑茶が注がれると、ふわりと湯気が上がり、緑茶のいい匂いが漂った。思えば、こうやって伊万里に世話を焼かれるのは初めてかもしれない。兵衛の顔が自然とほころんだ。
「藤花様のにぎりは、それは不格好で」
ふと彼女の母親との思い出が口をついて出た。姫の守役という立場をわきまえ、思い出話は口に出さないよう気をつけていた。何より口に出すのは辛すぎた。
伊万里が驚いた顔をした。
「先生から、母上の話を聞いたのは初めてです」
「そうですか? いつも話していたと思いますが」
しまったと思いつつ、とぼけた素振りで言い返すと、伊万里は「そうです」と反論した。
「美しかっただの、心根が優しかっただの、ありきたりの言葉でしか聞いたことがありません」
そして彼女は身を乗り出して兵衛に尋ねた。
「母上は料理が苦手だったのですか?」
「苦手というより、やったことがないと言った方が正しいですね。奥院の姫君でございましたから」
「そんな母上が先生のためにおにぎりを……」
伊万里は嬉しそうに目を細めた。なぜだか、とっておきの秘密を知ったような顔をしている。そして彼女は、「さあ、どうぞ」とおにぎりを二つお皿に乗せた。
兵衛はぱくりとかぶりつく。きれいに三角形に整えられたそれは、ほどよい塩味がして素朴ながら
すると、伊万里が「先生、」と話しかけてきた。
「どうされました?」
兵衛が尋ねると、伊万里はあちこちに視線を泳がせ
「先生は、孫の顔が見たくないですか?」
「は?」
「ですから、孫です。つまり、私の子です」
突然、伊万里の口から飛び出した「私の子」という言葉に、兵衛は思わずむせ返り、目を白黒させた。驚いた伊万里に慌ててお茶を差し出され、それを一気に喉へと流し込む。しかし淹れたてのお茶は熱湯と言ってもよく、兵衛はさらにむせ返った。
「せ、先生?!」
「大丈夫、大丈夫です!」
伊万里に、というより自分自身に言い聞かせ、兵衛は喉に詰まったおにぎりを飲み下した。そして次に、一呼吸をし、気持ちを整える。ようやく落ち着いたところで、彼はこほんと小さく咳払いをしながら、伊万里に向き直った。
「孫とは、なんの話でしょう?」
伊万里が突然そんな話を振ってきたことにも驚いたが、自身の子を「孫」と言ってきたことにも驚いた。誰に対しての「孫」だ?
そんな兵衛の動揺をよそに、伊万里は当然だとばかりに答えた。
「私は伏宮の嫁ですから、子を成すは嫁としての務めです」
いやいや、そうかもしれないが。嫁の務めを語る女子高生なんて、今時いない。
兵衛はしばらく間をおいて、それからやんわりと伊万里に言った。
「姫、まだお二人は学生です。お子は、あせらずとも良いと思います」
「でも、母上は私を産むのに三百年かかりました。悠長なことを言っていては、先生が死んでしまいます。あと三百年、先生は待っていただけますか?」
「それはさすがに──」
生きている自信がない。
「先生がおっしゃるように今はまだ、その、あれですが──。こういうことは、一日でも早く頑張らないといけないと思ったんです」
自信があるのかないのか分からない口調で伊万里が訴える。そもそも、そこは頑張るところじゃない。
「とにかく、まだ早いです」
兵衛がきつい口調で言うと、伊万里はむうっと口を尖らした。
「母上は、何歳の時に先生とお会いになったのですか?」
「十八ですが、それが?」
「私も今年で十八です。同じです。なのに、なぜ先生は私には早いと言うのです?」
痛いところを突いてくる。
しかし、実際に伊万里を前にして出てくる言葉は「まだ早い」の一言だけだ。
同時に、初々しかった伊万里と壬の関係が、大人のそれへと変化しつつあることを兵衛は少なからず感じた。ついこの間まで、おままごとのような恋をしていたはずなのに、まったく油断も隙もない。
兵衛はあやうく手に握ったおにぎりをぐしゃりと握りつぶしそうになる。それをすんでのところで押し
「明日、壬に稽古をつけに行くとお伝えください」
「稽古ですか?」
「はい。当分、足腰が立たないようにいたします」
「な、なぜ??」
「姫と契ろうなどと、この猿に勝ってからにしてもらいたい」
「え? いや、それは永遠に無理というものでは──?」
「仮にも二代目九尾を名乗るのであれば、無理ではございません」
きっぱり伊万里に言い返し、兵衛は「ふん」と鼻を鳴らしつつ残りのにぎりをぱくんと口に放り込む。
この姫は、何も知らない無垢で無邪気な存在のくせに、妙なところで一途で大胆だ。そこも母親と似ている。こうして、思いがけない言動で気持ちを乱されてしまうところも。
「と・に・か・く。まだ、早いです」
再び伊万里に言いながら、思った以上に彼女の存在が自分の色
そして、それを先に
ただ、まだ早い。
というわけで、もう少し生きていないといけないなと兵衛は思った。
2022年8月10日
世話焼きが世話焼かれ 完
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます