第4話 二人のホットケーキ

 自信なんてどこにもない。


 伊万里は二代目九尾に嫁ぐため伏見谷へやってきた鬼である。彼女にとって、九尾の花嫁になることは自分の使命であり、自分の存在価値でもあった。と言っても、もともとこの役目は母親の藤花が負わされていたものだ。母親が他の男と通じて自分を産んだことで、彼女の代わりに嫁ぐことになっただけだ。

 不義の子である自分からこの役目がなくなったら、自分には本当に何もない。そんな自分を好きになってくれる誰かがいるとは思えなかった。そう、壬に会うまでは。



◇ ◇ ◇ ◇ ◇

「あの壬、聞いています?」

「ちょっと待て。今、真剣なんだよ」

 伊万里がこたつにこっぽり入りながら台所に声をかけると、余裕のない壬の声が返ってきた。ここは谷の山奥にある百日紅さるすべり先生の家だ。留守であることが多い先生の家は、なぜだかみんなが自由に使っていい場所になっている。

 パソコンもテレビもない質素な部屋は、かつて伊万里が鬼の里で住んでいた「端屋敷はやしき」を思い出させる。この谷に来てまだ一年も経っていないのに、あの頃の生活がひどく懐かしく感じた。

 今日は、壬に誘われて二人でここにくつろぎに来た。雪が解けて表に出てきた地面からは、幼い双葉があちこちで芽吹いている。とは言え、まだまだ肌寒い時期ではあるので、こたつは欠かせない。伏宮本家でも、なんだかんだと四月半ばまでこたつを出していると壬が言っていた。

 しばらくすると、この古民家には似つかわしくないホットケーキの甘い匂いが漂ってきた。

「壬、火加減は分かります?」

「中火に近い弱火だろ。分かってるって」

 ちゃんと焼けているのか不安になって再び声をかけると、壬がうるさそうに言い返してきた。(あ、うるさい女と思われた)と、伊万里は少ししゅんとする。

 本当に駄目だなと、つくづく思う。些細なことで、卑屈になる自分がいる。自分に自信がないだけだということは分かっている。だって壬は、毎日手を繋いでくれるし、キスもちゃんとしてくれる。

 けれど、それが明日も明後日あさっても続くとは思えない。

 壬と恋人になれた今でも不安になって、彼の気持ちを確かめるような真似をしてしまう。とは言っても、デリカシーの欠片もない彼は、こちらの考えの斜め上の答えを返してくるので、さらに落ち込んでしまう訳ではあるけれど。

 先日も学校で配られた「進路調査」というよく分からない調査ものにかこつけて、「私はなんと書けばいい?」と尋ねてみた。聞く必要なんて本当はない。だって、自分の進路は決まっている。壬のお嫁さんだ。

 だから壬が何かそういうことを言ってくれればと思って聞いた。なのに、彼の口から出てきた言葉は「間違っても伏宮の嫁になるなんてドン引きなことを書くな」だった。ひどい。

 ショックのあまり、次の日から口をきけなくなった。

 勝手に期待して、勝手に怒りだし、悪いのは明らかにこちらだ。でも、素直に仲直りすることも出来なくて、もやもやした日が何日か続いた。そしたら昨日、壬の方から謝ってきてくれた。で、今日は仲直りの印に、先生の家でホットケーキを焼いてくれている。

 いつもそうだ。謝るのは壬。我ながら可愛くない女だと思う。


「できたっ。どうだ!」

 しばらくして自信満々の壬がホットケーキをのせたお皿を持ってきた。角切りのバターが上にのり、はちみつがたっぷりかかっている。

 ちょっと焦げ目が気になるが、伊万里はそれを口に出さずにぐっとこらえた。

「あと、やっぱり牛乳な」

 言って壬は、定番とばかりに牛乳入りのカップを置いた。ホットケーキの甘い匂いに気持ちがほっこりと温かくなる。

「壬の分は?」

「俺はいいの。いいから食べて」

 言って彼は伊万里の隣にどかりと座り、頬杖をついてニッと笑った。

「では、遠慮なく」

 伊万里は、フォークをホットケーキに刺すと、ひと口分だけ切り取った。そのままパクリと口の中に放り込む。バターとはちみつの味が口いっぱいに広がった。

「おいしいです」

「だろ。ホットケーキミックスだから味は間違いねえ」

 妙なところで自信満々に答える壬がとてもおかしい。しかし、三口目を口に運ぼうとした時、伊万里はそのフォークに刺さった切れ端を見て、「あ、」と思わず声を出してしまった。中心部分が生焼けだったのだ。

 せっかく作ってくれた壬に対して失礼かなと思いつつも、これでは食べられないしとチラリと壬を見る。すると彼は、

「あれ? ちゃんと焼いたつもりなんだけどな」

 と眉をひそめた。そして、フォークに刺さった生焼けのホットケーキに狙いを定め、それに向かっていきなり火を吐いた。ホットケーキの切れ端がぶおっと赤い炎に包まれ、あっという間にこんがり焼き上がった。

「ほら焼けた。生っぽかったら言えよ」

「そこですか?」

 伊万里はおかしくなって笑った。こんな力の無駄遣いをするのは壬くらいだ。彼は九尾の大きな力を引き継いだ。しかし、当の本人はのほほんとしたもので、以前と変わらず普通の男の子だ。多分すごいことなのに、彼を見ているとそんなに大したことではないのかなと思えてくる。

 そして、そんなところがすごいなあと思う。

「壬は全然変わらないですね」

 伊万里は言った。壬が、「ん?」と首を傾げる。

「結構変わったと思うけどなあ。口から火を出せるようになったし、それに──」

「?」

「ほとんど人と変わらないのに人じゃないから不便、とは思わなくなった」

「ああ、言ってましたね。そんなこと」

 懐かしいな、つい半年ほど前のことだと思いつつ伊万里が答える。すると、壬がふと神妙な顔になった。

「あのさ、伊万里」

「?」

 伊万里はホットケーキをもぐもぐ食べながら、「なに?」という顔を返した。壬が口を開きかけ、そして言いよどむ。

「どうしました? 急に」

「あのさ、」

「はい」

 伊万里はフォークをお皿の上にカタンと置いた。なんだか、ただならぬ様子を彼から感じる。もしや、「やっぱり鬼の里に帰れ」とか言われるのではと、胸の鼓動が早くなった。

 壬がひとしき目をあちこちに泳がせる。そして、彼は思いきった表情で口を開いた。

「俺、ジロ兄と全国を回ろうと思う」

「え?」

 別れ話ではなかったことにほっとしつつ、突然の話に伊万里は思わず聞き返す。

「全国って、全国ですか? 次郎さまと二人で?」

「うん、北から南まで」

「そんなの、聞いていません」

「この前決めたから」

 壬がこちらの顔色を窺うように、しかし、すっきりした顔で答えた。

「俺、今までずっと普通に高校生やって普通にどこかで働いて、狐だけど人間みたいに一生を終えるって思ってたからさ。でも、もうそういう訳にはいかないし、だけどどうしたいかって言うと、それもなくて」

「はい」

「だから、ジロ兄と全国回ってみようかなって」

「……いつから?」

 伊万里は不安になる気持ちを抑えつつ壬に尋ねた。彼が躊躇ためらいがちに答えた。

「とりあえず、お試しで夏休みから。あとは、卒業したらすぐ」

 夏なんて、すぐそこだ。

 伊万里は気持ちが追いつかず、思わず壬から目を逸らしてうつむいた。たぶん今、すっごく嫌な顔をしている。そして、言っちゃ駄目だと思いながらも、彼女は壬に向かって言った。

「一人は嫌です」

「一人って、別に父さんも母さんもいるし、圭も千尋もいる」

「でも壬がいません」

 つっけんどんに言い返すと、壬が困った顔で黙り込んだ。気まずい空気が二人の間に流れた。目の前で、ホットケーキがどんどん冷めていく。コップに入った牛乳は、逆にどんどんぬるくなる。

 すると、壬は伊万里にずいっとにじり寄り、彼女をふわりと抱き締めた。

「ごめん。伊万里が不安がるの分かってたけど、それでも決めたんだ」

 たどたどしい口調の、それでいて一生懸命な壬の声が伊万里の頭上で響いた。

「でも、待ってて。今はまだ半人前だから、一緒に行こうって言えないけど、いつか二人で全国を回ろう。俺、ちゃんとそう言えるよう強くなって帰ってくるから。だから伊万里、俺のこと待ってて」

「……」

 伊万里は胸がいっぱいになる。

 いつだって自信なんてどこにもない。だけど、そんな自分を壬は力強く引っ張り上げてくれる。だから、こちらも頑張って応えないといけないと思う。彼の隣を同じ歩調で歩んでいきたいから。

 伊万里は黙って壬をぎゅっと抱き締め返した。

 壬の広い胸が好き、背中が好き、腕が好き。この二人っきりの時間が大好き。

 いつだって自信なんてないけれど、それでも少しずつ自分のことが好きになった。壬のおかげだ。

 ややして、壬がもぞもぞと動く。(今度は何?)と伊万里が思っていると、壬は伊万里の耳元に口を寄せた。

「あの、伊万里さん」

「はい?」

「そろそろ、キス以上もいいかなあって思っているんですが、」

 馬鹿丁寧な口調で壬が囁く。伊万里の心臓が跳ねとんだ。

「え、いや──」

 突然そんなことを言われても。

「ま、前向きに、もろもろ考えておきます!」

 焦りながら思わずそう答えると、壬が嬉しそうに「約束な」と笑った。

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