第3話 二人の珈琲

 伏宮ふしみやじんは、伏見谷の妖狐を束ねる伏宮本家の双子の弟だ。これでも大妖狐九尾の末裔で、なんの冗談か二代目九尾を引き継ぐことになってしまった。とは言え、そんな自覚は微塵もなく、自信にいたっては全くない。いろいろあったおかげで、自分はそうなんだと受け入れざるを得なかったというのが正直なところだ。

 伏宮本家を継ぐのは兄の圭だと昔から決まっていて、そこに自分自身なんの疑問も不満もなく育ってきた。そしてそれは今も変わらない。

 ただ、だとしたら二代目を引き継いだ自分は、これからどうしたらいいのかなと、柄にもなく身の振り方に最近悩むようになった。




◇ ◇ ◇

「なあ亜子さん、聞いてる?」

 壬が台所に呼びかけると、台所から「聞いているよ」という小気味良い声が返ってきた。

 年季の入った小さな古民家の質素な居間。古びたこたつにあごを乗せ、壬はむすっと怒り顔だ。

 谷にも春がやってきて、今日は久しぶりに天気の良い日だ。とは言え、外にはまだ雪があちこちに残っていて、陽気な光が反射してキラキラと輝いていた。小さい子供なら、こんな日は一日中外で遊んでいるところだ。

 家を飛び出して来たものの、山深い田舎なんて行くところがない。仕方がないので、百日紅さるすべり先生の家に遊びに来たら、先生ではなく亜子がいた。なんでも、総次郎に先生の留守中は勝手に使っていいと言われたらしい。

 それってほぼ空き巣じゃないかと思ったが、よくよく考えたら、自分も先生の留守中に好き勝手に入っているし、そんなもんかと思い直した。


 亜子は、壬たちが兄のように慕っている総次郎の恋人だ。伏見谷の狐ではないが、「篠平の跡目争い」の一件から谷へやって来るようになった。壬たちにとっては、姉が突然できたようなもので、総次郎と同じようになんでも気安く相談できる。特に、同居人で伏宮家の「嫁入り前の」でもある伊万里に関する悩みは相談しやすい。総次郎なんかに相談したら、彼女にバラされた挙げ句に散々おちょくられるのがオチだからだ。

「はい、ブラックでいいんだろ」

「うん」

 亜子が、コーヒーカップをふて腐れている壬の前にたんっと置いた。コーヒーの香ばしい匂いにほっとする。さっきまでのイライラがほんの少し和らいだ。

「で、伊万里が何に怒ってるって?」

「さっき聞いているよって言ったじゃんか」

「最後の方は聞こえなかったんだよ」

 いちいち細かいことで突っ込むなと亜子がうるさそうな顔を返した。本当にこのまま相談してもいいのかと、若干の不安を覚えつつ壬は再び亜子に説明した。

「だから、学校で進路調査があったんだけど、伊万里が『私はなんと書けばいいでしょう?』って聞いてきたから、『間違っても伏宮の嫁になるなんてドン引きなことを書くなよ』ってアドバイスしたら、次の日から口をきいてくれなくなった」

「マジかい……」

 亜子が顔をあからさまに引きつらせた。

「まさか、なんで怒っているか分からないって言わないよね?」

「……そりゃ、あんなに露骨に口をきいてくれなくなったら、自分のアドバイスが悪かったんだろうなって思ってる」

 壬が口を尖らせながら呟いた。亜子は「ほほう」と頷き返す。

「じゃあ、謝ったのかい? それとも、謝ろうにも取りつく島もなく困っている?」

「いや、そうじゃなくて──。『じゃあ、卒業したら実家に帰るぐらいにしといたら?』と新しい案を出したら、その瞬間から目も合わせてくれなくなった」

「おまえさん、ただのバカだろ。うん、バカだね」

「バカ、バカ、言うなっ。悪かったなあっ、バカで!!」

「開き直るんじゃないよ、バカが」

 ピシャリと言われ、壬はむすっと黙り込んだ。亜子がやれやれと頭を掻く。

「デリカシーがあるタイプには見えなかったけど、ここまでひどいとは思わなかったよ。伊万里がなんでわざわざ聞いてきたと思ってるんだい?」

「それは──、」

 壬は口ごもった。

 伊万里は、狐じゃない。「月夜つくよの里」と呼ばれる鬼の里から伏見谷の二代目九尾に嫁ぐべくやって来た鬼姫だ。自分が二代目を引き継いだので、将来的には自分のお嫁さんになる予定だ。たぶん。

 壬はぼそぼそと自信なく亜子に答えた。

「進路指導なんて、鬼の里にあるはずないし、何て書いたらいいか分からなかったから俺に聞いてきたんだと思う」

「分からないだけなら、女友達の千尋に聞いた方がよっぽどまともなアドバイスをしてくれるよ」

 確かに。じゃあなんで?

 思わず壬は頭を捻る。でも答えはすぐに出てこない。

 だから俺は駄目なんだな。よく分からないけど。

 壬は気まずくなってコーヒーをちびりと飲んだ。さっきより、苦味を感じるのは気のせいか。

 しゅんと落ち込む壬に亜子が「はあ」とため息をついた。

「伊万里はあれでけっこうなこじらせ女子だからね。才色兼備なように見えて、自信がまるでない。分かっているだろ?」

「うん、それは……なんとなく」

 伊万里は自分の父親が誰か知らない。いや、分からないと言った方が正しい。

 もともと二代目九尾に嫁ぐはずだった彼女の母親は、二代目九尾の出現を待ちきれなかったのか、別の男と恋をして伊万里を産んだ。そりゃ、三百年も待つなんて無理な話なわけで、この件に関して伊万里の母親を責める気持ちは全くない。しかし、伊万里は違う。

 彼女にとって、自分の母親は「二代目九尾に嫁ぐという使命を忘れた浅慮な女」で、自分は「いらない子」だ。

 きっと、そういう大人の声を聞きながら育ってきたんだろう。だから、妙に大人びてしっかりしているのに、とても自信がないし甘えん坊だ。自分がそばにいてやらないと、と壬は思っている。

 でも、それと進路の話がどう結びつくのかが、やっぱり分からない。いよいよ気まずくなってコーヒーをさらにぐいっと飲む。苦みがさらに増していた。

 亜子が二度目のため息をついた。

「おまえさんの進路と自分の立ち位置、伊万里はそこを気にしているんじゃないのかい?」

「俺の進路と自分の立ち位置?」

「そ、壬がどうするかで変わるだろう? なんと言っても、九尾の嫁なんだから」

「……」

 正直、進路については悩んでいた。普通に大学生をやってもいいけれど、なんとなく違う気がする。でも、あえて何かしないといけないなんて思っている訳でもない。二代目九尾を継ぐのは確かに自分だが、伏宮本家を継ぐのは双子の兄の圭だ。彼は、百日紅さるすべり先生の薦めで、な学生が集まる大学に進学することが決まっている。それが、今後の伏見谷のためにもなるんだろう。

 でも、じゃあ俺は? と思う。

 二代目九尾なんて大きなものを引き継いだ割には、悲しいくらいに宙ぶらりんだ。


 ふと、コーヒーを飲む亜子の姿をちらりと見る。総次郎は自分や圭の憧れの存在だが、亜子はそんな彼にお似合いの女性だ。意思が強く、腕っぷしも強く、そして何より美人で優しい。総次郎と亜子は、それぞれが一人でしっかり自立しているのに、お互いに強く結び付いている。互いに不安で離れられない自分や伊万里とは全然違う。

 自分たちもこんな風になれたらなと思う。でも、そのためには、まずは自分が総次郎のような男にならないといけないわけで、それを思うと絶望的な気持ちになった。

「俺、ジロ兄みたいになれないし」

 本音をぽろりとこぼすと、亜子が当然だとばかりの顔をした。

「そりゃ、百年早いね。まさか次郎みたいになるつもりだったのかい?」

「悪かったな」

「だとしたら──」

 てっきり茶化されるかと思ったら、亜子が優しげに目を細めた。

「次郎と全国を回ったらどうだい?」

 思いがけない提案に壬は「えっ?」と驚いた。亜子が「ん?」と首を傾げる。

「どうせ、他の人間と一緒に進学なんて気が進まないんだろう? だったら谷でぶらぶらしていても仕方ないじゃないか」

「……」

 総次郎と一緒に全国を回る──。想像をしただけで興奮した。もう普通の高校生をしていた半年前の自分とは違う。あやかしとして生きていくのだと今は強く思っている。

「ジロ兄は、いいって言ってくれるかな?」

「言うだろうさ。その代わり、分かっているだろうけど次郎は厳しいよ」

「うん」

 壬が嬉しそうに頷くと、亜子が「じゃあ、」と口調を改める。

「おまえさんの悩みがサクッと解決したところで本題に戻ろう。これで進路もはっきりした訳だし、伊万里にきちんと謝って、ちゃんと伝えておいで」

「……ジロ兄と全国を回るって?」

「そこじゃないよ」

 言って彼女はにやにやと笑った。

「伊万里の立ち位置をだよ。姫様を連れて行くわけにもいかないだろうし、待っていて欲しいんだろ?」

「そっ、それは──」

 明らかに狼狽うろたえる壬を面白そうに亜子が眺める。

「言っておくけど、そこ逃げる所じゃないからね」

 きっちり釘を刺され壬はさらにたじろいだ。亜子が「やだね、はっずい! 面白くなってきた!」と膝を叩いて他人事のように喜ぶので、思わず彼女を睨む。

「余計なことをジロ兄に絶対に言うなよ!」

「もちろん言わないよ」

 その返事が恐ろしいほど軽々しい。

 これ、絶対に言われるやつだ。

 そもそも相談する相手を間違えた、と壬は激しく後悔した。

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