お返し
コヒナタ メイ
第1話
43才の岩田貴之は大手建設会社に勤務していた。11月のある日、貴之はビル建設の現場で中学校の同級生だった今井広を見かけた。貴之の脳裏に30年前の記憶が蘇ってきた。
貴之は東京都の郊外で生まれ育った。小学校5年生の時、貴之の母は病死した。しばらくして貴之の父耕三は香織という若い女性と再婚した。中小企業の社長をしている耕三は傲慢で、貴之は耕三と度々衝突していた。
中学1年の冬の土曜日の午後4時、貴之は香織に向かって暴言を吐いた。それを聞いた耕三が激怒して貴之を叱りつけた。貴之はジャンパーを着込むと家を出た。自転車に乗った貴之は1キロメートルほど離れた広の家に行ったが、広は家にいなかった。貴之は駅近くのデパートで時間を潰し、閉店時間の午後8時前に外へ出た。外は暗く、時折吹く冷たい風がジャンパーを通り抜けて貴之の身体に突き刺さった。家に帰ろうかと思った貴之だったが、家に帰ったときの勝ち誇った耕三の顔を想像すると帰る気にならなかった。貴之はいつも広と遊んでいる公園の入り口に自転車を止め、公園の真ん中にあるセメントで固めた小さな山のような遊具へと向かった。遊具は真ん中が空洞になっていて、南側と北側の斜面に滑り台がついていた。貴之は空洞の中に入り、両手で身体を擦って寒さに耐えていた。父に買ってもらった腕時計を見ると午後8時30分を過ぎていた。(やっぱり家に帰るしかないか)そんなことを思っていると
「タカちゃん、こんなところで何してるの?」
空洞の右側から声がした。貴之が声の方向を見ると中を覗きこむ者がいた。顔は見えなかったが広の声に似ていた。
「ヒロくん?」
貴之が訊くと
「そうだよ、広だよ。やっぱりタカちゃんだったんだ。何やってるの?」
「親父がムカついたから家出した。」
貴之は唇を尖らせた。
「寒いから家に来なよ。」
広が言った。貴之は空洞から外へ出た。広の横に広の父、健一が立っていた。貴之は健一に向かって小さな声で
「こんばんは」
と言った。
「タカちゃん寒いから家に来なよ。」
大柄な健一は酒臭い息で言った。貴之は
「はい」
健一を見上げて言った。
貴之は自転車を押しながら
「何で俺があそこにいると思ったの?」
と広に訊くと
「今日、父ちゃんと居酒屋に行ったんだ。それで家に帰る途中、公園の入り口にタカちゃんの自転車があったから、公園にタカちゃんがいるのかなと思って探してみたんだ。」
広は答えた。
広の家は公園の近くにある木造アパートだった。広の母は、広が幼い時に家を出ていき、広は健一と二人で暮らしていた。健一がドアの鍵を開けると、広は貴之の手を引いて中に入った。2Kの部屋のキッチンは3畳程で、食卓が真ん中に置かれており、奥にテレビとコタツがある和室とタンスがある和室が並んでいた。貴之は昼間に広の家に来たことがあり、健一とも面識があった。健一は貴之を食卓の椅子に座らせ、台所に置いてある石油ストーブに火を入れ、ヤカンに水を注ぎガスコンロにのせて火をつけた。凍えていた貴之の身体は少しずつ暖まっていった。時刻は午後8時40分になっていた。健一は小さな食器棚の中から赤いきつねを取り出し、太くて黒い指でビニール袋を破き、蓋を開け粉末スープをまくように中に入れた。ヤカンの湯が沸騰すると、健一は貴之の前に赤いきつねを置いて湯を注ぎ、割り箸を置いて
「タカちゃん食べな。」
といった。貴之は
「ありがとうございます。」
と言って赤いきつねの器に手を添えた。冷えきった手は器の熱によって急激に元に戻っていく感じがした。広が
「俺も食べる。」
と言って食器棚の前にかがんだ。
「なんだ、お前さっき飯食ったじゃねえか?」
健一が訊くと
「だって俺、腹減ったんだもん。」
広はそう言って食器棚から赤いきつねを取り出し、貴之の横に並んで座り、手早くビニール袋を剥いで蓋を開け、中に粉末スープ入れて湯を注いだ。健一は左側の部屋に入りコタツに入ってテレビをつけた。
5分後、貴之と広は蓋を開けて赤いきつねを食べはじめた。広が赤いきつねの中から卵を取りだして貴之の赤いきつねの中に入れた。貴之は赤いきつねの中のカマボコを取り出して広の赤いきつねの中に入れた。二人は顔を合わせて笑った。赤いきつねは貴之の冷えきった身体を元に戻していき、スープを飲み干すとすっかり暖まった。健一のいる部屋で電話が鳴った。健一が受話器を取ると耕三からの電話だった。健一は耕三に貴之を保護していることを告げた。
十分後、玄関のドアがノックされた。健一がドアを開けると耕三が立っていた。
「貴之の父の岩田耕三と申します。本日は貴之がご迷惑をおかけしました。」
耕三が頭を下げると、
「いやー、迷惑なんてことはないですよ。お宅のお坊ちゃんが公園で寒そうにしていたんで家に来てもらっただけですから。どうぞ中にお上がりください。」
耕三は頷くと
「失礼します。」
と言って玄関で靴を脱いで上がり框に上がった。健一はコタツに戻った。耕三は貴之の前の椅子に座って何も言わず貴之を見ていた。貴之は俯いていたが、顔を上げて耕三を見た。貴之には耕三の表情は怒っているわけでもなく、悲しんでいるわけでもなく、ただ真剣な感じに見えた。
「家に帰ろう。」
耕三は言った。
「うん。」
貴之は小さな声で言った。横に並んだ広は貴之のことを心配そうに見ていた。耕三が立ち上がると、貴之も立ち上がり玄関のほうに向かった。耕三は貴之に
「先に出ていなさい。」
と言った。貴之が外に出ると、広も外に出て貴之のそばにいた。耕三はコタツにいる健一に向かって
「では失礼します。本日は本当にご迷惑をおかけしました。」
と言って頭を下げた。健一がコタツから出てキッチンに来ると、耕三は上着の内ポケットから封筒を取り出し
「これ、少ないですがほんの気持ちです。」
と言って健一に渡した。
「いやいや、そんな受け取れませんよ。」
健一は言ったが、耕三が頭を下げるので
「では、遠慮なく。」
と言って顔の前に封筒を掲げた。
耕三は健一に向かって失礼しますと言いながら外に出た。耕三は外国製のワゴン車の後部扉を開け、貴之の自転車を積み込んだ。貴之は助手席のドアを開けて車の中に入った。耕三は車を発進させた。広は貴之に向かって手を振り、車が見えなくなると家の中に入った。
健一は封筒の中から一万円札を取り出すと
「広、一万円だぞ。やったな。何か欲しいもの買ってやる。」
と言った。広はわーいと手をあげて喜んだ。
3日後、貴之と広のクラスはクリスマス会でプレゼント交換をした。先生からプレゼントは何でもいいと言われていた。プレゼントは袋に入れて集めて置かれ、自分が出したもの以外の物を取ることになっていた。クラスで人気のあった中野智子が袋から中身を取り出すと古い漫画の単行本だった。
「やだー、何これ。」
智子が言うと、智子に好意を抱いていた貴之が智子の近くに行き
「誰だよ、こんなのプレゼントに出した奴?」
と言った。広が力なく手をあげた。
「広が出したのか、広んちお金ないからしょうがないよ。」
貴之は智子に向かって言った。クラスのみんなが笑い、広は泣き出してしまった。担任の向井先生は
「こらこら、岩田だめだぞ、そんなことを言っては。」
と軽く貴之を注意した。貴之は広に謝らなければと思ったが、なんとなく謝る機会を逸してしまった。
広はそれ以来貴之と口をきかなくなった。翌年に広は健一と共に遠くの街へ引っ越して行った。貴之の心には小さいが深い傷ができた。
年齢を重ねる貴之の心の中に、広が泣いている姿が度々浮かんでは消えた。(自分は何てひどいことを広に言ったのだろう。)貴之はそのたびに自問自答したのだった。
貴之の勤める建設会社は大手のゼネコンで、広は貴之の勤める会社の下請けの電気設備会社に勤めていた。建設現場の休憩室に座った広を見かけた貴之は広の前に立った。
「ヒロくん久しぶり、中学の時同級生だった岩田だよ。」
貴之は言った。広は初めキョトンとしていたが、
「タカちゃん、久しぶり。わーびっくりした。ここの社員さんなの?」
と訊いた。貴之は頷いた。
「へー、偉いんだねタカちゃん。」
広は昔と同じように微笑んだ。
「昼ごはん食べた?」
貴之が訊くと広は
「まだ、これから。」
と言った。
「ちょっと待ってて。」
貴之は言うと売店まで走った。戻ってきた貴之は両手に赤いきつねを持っていて、それを広に見せた。
「じゃ、一緒に食べようか?」
と言った。広が笑顔で頷くと貴之は、赤いきつねのビニールを剥いで蓋を開け、休憩室の端に置いてあるポットの湯を注ぎ広の前に置いた。貴之は自分用の赤いきつねにも湯を入れ、広の横に並んで広に割り箸を渡した。
「何だかタカちゃんが家出した時みたいだね。」
広は笑顔で言った。
「あの時は本当に助かったよ。あのまま公園にいたらどうなっちゃったか。」
「タカちゃんずっとあそこにいるつもりだったの?」
「いやー、どこかでギブアップして帰っただろうね。」
「そうだよね。」
広は笑った。
少しの沈黙の後、貴之は広の方を見ながら
「あのさ、あの…。」
と口ごもった。
「何、どうしたの?」
広は訊いた。貴之は意を決し
「ヒロくん、クリスマス会の時ごめんね。ヒロくんのこと貧乏だってバカにしちゃったでしょ。」
と言った。
広は少し黙っていたが
「あの時は辛かったな。うちは貧乏だったけど、父ちゃんは俺を一生懸命育ててくれたからね。あの時は父ちゃんがバカにされたみたいでさ。」
広は言った。貴之は涙声で
「ごめん、本当にごめんなさい。」
と言った。広は
「もういいよ、大丈夫だよ。」
と笑顔を見せ、
「赤いきつね食べようよ。」
と言って、赤いきつねの蓋を開けた。貴之も赤いきつねの蓋を開けた。二人とも七味唐辛子を中にまいた。
広は貴之の赤いきつねの中に卵を入れた。
貴之は広の赤いきつねの中にカマボコを入れた。二人はお互いの顔を見て笑った、あの日の夜のように。
お返し コヒナタ メイ @lowvelocity
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