最終話 しあわせになった犬、そして後日談

 その年の冬は、殊更に寒かった。しかし、シゲさんの心は温かかった。一緒に年を越してくれる相棒がちゃんといるのだから。

 幸せなクリスマスの思い出を新たに手にしたジョイもまた、一時のしょげ返った様子が嘘のように、元気を取り戻していた。


 ただ、仔犬だった彼に名前を付けてくれた女の子、彼女のことを忘れることは決してなかった。

 シゲさんや大家さん、「希望荘」のみんなのことも大好きだったが、彼女はやはり特別だった。彼の心の一部は、常に欠けたままで、誰にも決してそこを埋めることはできないのだった。


 その年の冬は、本当に寒かった。いくら心は暖かくても、身体が物理的に受けるダメージを防ぎきることは出来ない。


 悪いことに、シゲさんは熱い風呂に入るのが大好きだった。

 しかも冷え切った体で入るのが気持ちいいからと、暖房などない脱衣場で素っ裸のまま軽く体操をして、そのまま湯船にざんぶと飛び込むことも多かった。

 ちゃんと準備体操で身体を慣らしてるから大丈夫、という理屈だった。


 そしてその日、極楽のような入浴タイムを満喫して部屋に戻った彼は、突然周囲がぐるぐると回り出すのを感じて、思わず座り込んだ。急激な温度差による血圧の急変が、彼の脳血管に異常を発生させたのだった。

 突然倒れ込んでしまったシゲさんに、ジョイは驚いて高い鳴き声を上げた。

 いつもの、嬉し気な声とは全く違うその緊迫した様子に、大家さんや隣室の住民たちが駆けつけてきた。


「いけない。すぐに救急車を!」

 大家さんの指示で、一階の浪人生がすかさずスマホの画面を叩く。

 彼が様子を伝えている間、シゲさんはかすれた声で、ジョイの名を呼び続けていた。

「ジョイ……ジョイよ。どこだね。どこにおる」

 すぐ目の前にいる愛犬の姿が、見えなくなっていた。しきりに上げている声も聴こえないらしい。


 まるでそのことに気付いたかのように、ジョイはシゲさんの赤く染まった顔を、必死で舐めた。

「おお、ジョイか。良くお聞き」

 シゲさんは、声を振り絞るように言った。

「お前さんに逢うことが出来て、わしは本当に嬉しかったよ。この歳まで生きてきた甲斐があったと思ったもんだ。楽しかったよなあ、クリスマスも、正月も」

 ジョイは、なおもシゲさんの顔を舐め続けてた。奇跡を祈るかのように。


「良くお聞きよ。お前は、お前さんがいるだけで、意味があるんだ。人を幸せにできるんだよ。前の飼い主さん、そしてわしとお別れになっても、何も失うことはない。お前は、お前さんの価値と一緒に、生き続けるのさ」


「ちょっとシゲさん、あんたもまだまだ生きるんだよ。何を遺言みたいな寝ぼけたこと言ってんだい!」

 大家さんが、彼を叱りつけた。その目には、涙がいっぱい溜まっていた。

「残念だが、自分の最期は、自分でちゃんと分かるものなのさ」

 窓の外から、救急車のサイレンが聴こえてきた。


「じゃあ、みなさん。ジョイをよろしく頼むよ。こいつはちゃんと生きて行ける。見守ってやっておくれ」

 シゲさんは、覚束ない様子で右手を伸ばし、ジョイの頭をぎこちなく撫でた。

 本当は、これだけの言葉を並べることができたこと自体、奇跡的なくらいの容態だったのだ。

「元気でな。幸せにな」


 救急救命士が、いかにもプロらしく頼もしいすばやさで最低限の処置を行い、シゲさんを担架に固定している間、ジョイは必死で彼の元へ近付こうとしていた。そんなジョイを「希望荘」の住民たちはしっかりと抱き留め、決してリードを離さなかった。


 不吉なサイレンを残しながら遠ざかって行く救急車に向かって、ジョイは力強い遠吠えを繰り返した。これは別れなのだと、知っていた。

 その夜を、シゲさんは越えることができなかった。


 シゲさんが、諭すように伝えた言葉を、ジョイが理解できたのかどうか、それは分からない。

 しかし、彼はもう、しょげ返ったりはしなかった。ちゃんとご飯も食べたし、大家さんや何人かの住民が散歩に連れて行っても、しっかりとした足取りで歩いた。

 一匹の犬としてただ生きるのだと、そんな目をして。


――さて、後日談である。

 大家さんが大昔のワープロで作った、ジョイの飼い主へと呼びかけるあのポスターだが、印刷にこちらも時代遅れの古い感熱紙などというものを使ったせいで、数年も経たないうちにみんな劣化してほとんど読めなくなってしまった。感熱紙の文字は、光や熱に極めて弱いのだ。

 ジョイが幸せに暮らしているのだから、別にそれで誰も困ることもない。みんな、そんなことは気にもしていなかった。


 ただ、そのうちの一枚だけが、数年後もまだ、たまたま劣化せずに生き残っていた。

 都心から離れた商店街にある薄暗い古本屋の、さらに薄暗い棚の影という意味のない場所に貼られていたせいで、ほとんど誰の眼にも止まらなかった代わりに、印字も消えなかったのだ。


 ある日一人の少女が、その古本屋を訪れた。懐かし気に店内を見回してから、子供の頃好きだった、絵本の置かれたコーナーへと向かった。ちょうどその真横に、例のポスターが貼られていた。


 ドットの目立つガタガタした文字と、粗くて判別しづらい白黒の写真を目にした少女は、息が止まるかと思うほど驚いた。そこには、あのジョイの姿があったからだ。

 賢明なる読者のみなさまは、すでにお気づきであろう。その少女こそ、懸命に貯めたお小遣いで切符を買い、各駅停車を乗り継いでこの街に戻ってきたあの女の子、ジョイの名を付けた彼女だったのだ。


 少女と再会したジョイは、キュンという叫び声一つと共に丸っきりの仔犬に戻り、彼女の元に走り寄って、倒れ込むように身体をぶつけて甘えた。長く抱き続けた、凍り付いた孤独を、溶かそうとするかのように。

 大家さんと、そしてみんながその様子に涙した。もちろん、少女自身も。


 しかし彼女は、ジョイを連れ帰ったりはしなかった。

「希望荘」のみんなと楽しく、そして力強く生きてきた彼にとって、このままこの街で暮らすことこそが幸せなのだと考えたからだ。


 その代わり、また会いに来るからね、と彼女はジョイを諭した。何度でも、何度でも、死が二人を分かつまで。ジョイも、納得した様子でワンと言った。


 やがて彼女は、この街にある国立大の獣医学科に進むことになる。下宿先として選んだのは、もちろん「希望荘」。それもたまたま空きが出ていた、かつてのシゲさんの部屋だった。

 クリスマスの夜には、シゲさんの遺品として大家さんが保管していたツリーが、再びあの窓辺で色とりどりの光を放ち、ジョイと彼女を喜ばせたのだった。


 縁とは不思議なものである。ジョイと彼女、亡きシゲさんや「希望荘」の人々、そしてこの世界に祝福を。

――Merry X’mas

(了)


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【完結】しあわせになった犬のおはなし 天野橋立 @hashidateamano

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