第35話 ――シオン――


 お兄ちゃんが眠っている。

 さっきまであらく乱れていた呼吸がおちついてきて安心する。


 無事に帰ってこれた。

 それだけで崩れ落ちそうなくらいの疲労感が体にのしかかった。

 あの場所は苦手だ。

 本当ならもう二度と足を踏み入れたくない。

 だけれど、私はお兄ちゃんのために一緒にいなければならに。

 いざというとき、私はお兄ちゃんにとっての切り札になるから。


 今日、あのハンチング帽の男は初めて本性を見せた。

 今までは、どんなときでもお兄ちゃんもハンチング帽の男もお互いの腹を探りあうだけだった。


 あの男は私だけじゃなく、お兄ちゃんのことも狙っている。

 たしかに、あのクジで何度も当たりを引き当てられる人間はそういない。

 大抵の人間はあの場所にたどりつかないし、「当たり」を引く人間はもっとすくない。

 昔は私のことを下取りしなおすのだけが目的だと思っていた。

 だけど、この夏お兄ちゃんが二回目のあたりを引いて男は焦ったのだろう。

 お兄ちゃんなら、またあのクジを当てててしまう。

 それなら、お兄ちゃん相手にクジ引き屋がクジを売らなければいいだろうって思う人もいるかもしれない。

 だけれど、そうはいかないのだ。

 あの場所は取引をする場所だから。

 そこに出店しているクジ引き屋が取引を拒むことはできないのだ。

 あのくじ引き屋は強欲だ。百万円とかいうように決まった金額の提示にしておけばいいのに、お客の全財産を奪おうとするから。もしあの男がクジ引き屋を一回を百万円として始めていたらお兄ちゃんとくじ引き屋の男は取引をすることがなかったのに。もし取引をしていても、そうそう払えない金額ならば取引自体が成立しないのに。

 あのクジ引き屋は本当に強欲だ。


 本当はお兄ちゃんには二度と「当たり」を引いてほしくない。

 私はこの夏の間、とても不安でとても寂しかった。

 この気持ちは私のワガママでしかない。

 お兄ちゃんが誰かほかの女の子と特別な関係になるということがこんなに苦しいなんて。短い時間だとわかっていても、私はお兄ちゃんを独り占めしたい。

 それに、もう二度とあんな悲しそうな顔はしてほしくない。

 もう二度とあんな場所に迷い込んで、あのクジ引き屋の男と取引なんてしてほしくない。

 これは私のエゴだけれど。


 きっと、お兄ちゃんはまたあの場所に迷いこむことになるだろう。

 そして、またクジ引き屋と取引をすることになる。

 お兄ちゃんが望なくても、クジ引き屋がお兄ちゃんのことを快く思っていなくても、あの二人はきっと再びであって取引をする。

 あの場所は、そういう場所なのだ。

 本人たちの意思なんて関係のない場所。


 私はあの場所のおかげで救われてここに来られてお兄ちゃんに出会えたけれど。

 やっぱり私はあの場所が嫌いだ。

 自分だけ助かっておいて身勝手かもしれないのは分かっている。


 お兄ちゃんの部屋をでると、どっと疲れが押し寄せてきた。

 めまいがするほどの疲労感。

 得体の知れないものを煮炊きした匂いや人々の汗と欲望の匂いが体の表面に張り付いている気がする。

 そうだ、お風呂に入ろう。

 あの天国の海みたいな色をした真っ青でいい香りの入浴剤をいれて、あの日みたいにゆっくりとリラックスできるはずだ。

 あのお兄ちゃんに出会えた日と同じように。丁寧に髪を洗いトリートメントをしよう。お風呂をでたらいい香りのクリームをぬって、いつも通りの可愛い私に戻ろう。お兄ちゃんがそばにいて嬉しくなるような可愛い妹になるんだ。


 お風呂場の鏡をみるとそこに写るのはあの時の小さな女の子ではなくなんっていた。あの時と比べると顔は大人びて、身長はのび、胸にはうっすらと脂肪がつきはじめていた。

 シャワーを浴びるといくつもの水の玉が肌の表面を弾む。

 私は若い。

 だけど、大人に近づいてきている。

 そのことに気づき、怖くなって自分の身体を抱きしめる。

 成長なんてしたくない。

 大人になんかなりたくない。

 ずっとお兄ちゃんの側にいたい。


 私はあのクジ引き屋から引き取った、貝殻に入った薬をお兄ちゃんの部屋に置き忘れたことに気づいたのは随分と後のことだった。

(完)

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