第27話 海の近くの水族館


「シオン、今日はアカネと水族館行くんだけど一緒に……?」


 朝、シオンの部屋に向かうとシオンはそこに居なかった。

 母さんに聞くと、今日は友だちと出かけたらしい。

 珍しい。あのブラザーコンプレックスなんじゃないかって言うくらい僕にいつもくっついてまわるシオンが僕抜きで出かけるなんて。


 成長したということなのだろうか。


 僕はちょっとだけ兄として寂しくもあり嬉しくもあった。

 しかも、今日の水族館デートはシオンの援助のおかげなのだ。

 あれ? 僕が兄として退化しているのかもしれない。


「お待たせ……」


 今日のアカネは部屋の窓から入ってくるのではなく、ちゃんと玄関の前で待っていた。

 その日のアカネの来ていた洋服は真っ白だった。

 白いワンピースに白いリボンを足に巻き付けるようにして足首で結ぶサンダルに、麦わら帽子。腰の部分のリボンだけが夜空みたいな紺色だった。

 夏休みの女の子のイラストとしてきっとネットの海に腐るほど存在しているベタな組み合わせを体現した物だが、現実に存在すると驚くほどまぶしくて綺麗だった。


「どう?」


 くるりと回って、ちょっとだけ誇らしげにアカネは微笑む。

 スカートがまるで逆さにした花のように膨らむ。

 空は夏が最後だと言いたげに真っ青で有り得ないほど高い積乱雲がソフトクリームみたいに浮かんでいた。


「綺麗だ……」


 僕は想わずつぶやいていた。


「ん? 何か言った?」

「なんでもない」

「えっ、気になるんだけど」

「何でもないってば」


 アカネは下からのぞき込むように僕の目を見つめる。

 なんだか変だ。ドキドキする。

 僕は恥ずかしくなって下を向く。

 アカネってこんなに可愛かっただろうか。


 今日はちょっと特別なところに出かけると前日に話していた。それに合わせてからアカネの服装はいつもよりすこしだけよそ行きっぽいような気がした。


「馬子にも衣装だね」


 僕が照れ隠しでいう。

 いや、本当は「きれいだよ。かわいいよ」って直接いえばよかったのに、僕もまだまだ子供なのだ。

 それくらい今日のアカネは全男子の夢ってくらい可愛らしかった。


 水族館に来るなんて子供の時以来だった。

 親と水族館に来ていた頃と見える世界は全く違う。

 そりゃあ、単純に考えても身長が随分違う。

 見えている目線の高さだって全然違う。

 ただただ、大きな水槽があって魚が大きくて見上げるばかりのイメージだった。

 大きな魚は怪獣をみている見たいな気分だった。

 日常でみたことないような生き物が空を切り取ったみたいな空間の中を優雅に漂う。


 その様子をみて圧倒された。

 大人になって来てみると印象というのはずいぶん変わる物だ。

 僕の記憶の中では大きな水槽があるだけのイメージだったが、実際にはいろんな大きさの水槽やら展示方法があった。

 水槽の横には魚の名前やどんな魚かなんて説明もある。

 なるほどと膝をうつ。


 子供のときは、魚の水槽を指さしながら「あの魚は〇〇だよ」と母さんが説明してくれた。

 あのとき、大人は何でも知っているんだなと感心したけれどこんなところにカンニングペーパーがあったとは。

 そうだよなあ、あの少し天然で魚の種類は食べるもの以外は知らなさそうな母さんがあんなに頭の良さそうな説明ができるわけないよなあと一人で納得する。


 子供の時は大人は何でも知っていると思っていたけれど、現実はこういう物なのだ。

 大人になれば知識を覚えていなくてもそれをガイドしてくれるものが世の中にあふれている。

 大人になるというのはきっとこういうことを少しずつ知ることなのだろう。


「ヒロト、見て。絵本とそっくりだよ」


 夢中になって水槽を見つめていたアカネがこちらを振り返って嬉しそうにいう。


「本当だ」


 そこには無数の魚が泳いでいた。

 群れになった魚が水槽の中をひと固まりになって泳いでいく。

 ああ、なんてきれいなんだろう。

 色とりどりの魚が銀色の泡とともに、水槽の中に渦を作り出す。

 ぼんやりと眺めていると色と色が混ざり合い幻想的な光景になっていく。

 いつか読んだ絵本の世界が実現されたみたいだった。

 そして、それを眺めるアカネは子供のように無垢で美しかった。


「きれいだ」


 僕はアカネが水槽の中に夢中になっているので、できるだけ小さな声で言ってみた。

 朝、言えなかった本当の気持ち。


 たとえ、聞かれていたとしても「水槽の中の魚がきれいだった」と言い逃れができるから。


 なんで自分がこんなに臆病になってしまっているか分からない。


 ***


「水族館にきてさっきまで魚をみていたのに、魚をたべるなんなんて変だね」


 そういいながらもアカネは嬉しそうに昼食の海鮮丼を前に手を合わせる。


「お魚さん、ごめんなさい。僕たちが食べなければ水槽の中でいきていられたのに……いただきます」


 僕がふざけてそんなことをいうと、アカネは泣きそうな顔をする。


「私たちが食べなければ、この子は生きていられたの?」

「ううん、水族館の魚は観賞用。これは、食用。元が違うよ」


 僕はアカネを慰めるように「冗談だったんだよ」という。

 でも、アカネの眉は下がったままだ。今度は僕が泣きそうになる。こんなかわいい子を悲しませるなんて僕は馬鹿だ。

 するとアカネは少し何かを考えこんでこんなことをいった。


「ねえ、観賞用と食用。生まれた瞬間から人生が決まっているなんてなんか不公平だね」

「でも、食用の場合は海を自由に泳げる。観賞用はずっとこの水族館の水槽の中で過ごす。どっちがいいなんて一概に言えないよ」

「じゃあ、ヒロトだったら……どっちに生まれたい?」


 困った質問だ。

 正直なところ魚になんか生まれたいなんて考えたことがないのだから。僕が答えに困っているとアカネは「変なこといってごめん」といって海鮮丼を食べ始めた。


 海鮮丼はすごく美味しい。さすが、鮮度が抜群だ。

 いや、水族館の魚を食べているわけじゃない。

 この水族館は海の直ぐ側にあるのだ。

 海と水族館と展望台とアウトレットモールがすぐ近くにあるのだ。

 観光ということがしっかり意識されている。田舎はこうでもしないと外からのお金が流れてこないから。


 海と水族館と展望台とアウトレットモール。ここに明太子工場と魚市場の見学、そして地元で取れたばかりの回転寿司の食べ放題をいれると大人気観光バスツアーのできあがりだ。場合によっては、アニメの聖地巡礼とかあんこう鍋とか、お土産にメロンとかを追加するのが最近は人気だ。


 でも、たぶん古びた展望台なんかより明太子工場の見学のほうが人気だ。

 そこで買えるお土産のたらこだか明太子がばかみたいにはいった顔の大きさくらいあるおにぎりに興味がある人のほうが多いだろう。


 午後はペンギンのショーをみる。

 てちてちとその短い脚を一生懸命に動かして歩くその様子はとてもユーモラスで可愛らしい。

 アカネは一目で夢中になったようだった

 ペンギンが何かしてお姉さんに褒められるごとに、「わあ」とか「きゃあ」とか可愛い声をあげていた。

 あとで気づいたのだが、なぜだか僕たちはイルカとアシカのショーというメインイベントは見逃してしまった。

 アカネに謝ると仕方ないよねって少しだけ寂しそうに笑った。


 クラゲの水槽の前でアカネは動かなくなる。


「ねえ、天国の景色ってこんな感じかな?」


 確かにそのクラゲの水槽の様子は綺麗だった。

 ふわふわと白いクラゲが水槽の中を軽やかに漂う。躍るというほど積極的ではなく、ただ流されるというにはあまりにも美しすぎる光景がそこにはあった。

 一瞬だけ、クラゲの気まぐれとタイミングが重なったのだろう。本当に数秒間だけ、クラゲがアカネの背景を彩りそれは天使の羽が生えたように見えた。


 淡い水色の光と深い海の底みたいな濃い青の風景、レースのようなクラゲ。そこに天使のように美しい白いワンピース姿の美少女。

 たしかに、天国というものを人間が死の直前に頭のなかに作り出すとしたら、この光景も候補としてありな映像だ。

 そんなことをいうと、アカネは困ったように笑った。


「私が天使みたいって、天国でも働かせるつもり?」


 一瞬だけ、アカネの頬に涙の粒が浮かんでいるような気がした。

 どうしてそんなに苦しそうな顔をするのだろう。

 僕は、その涙を捕まえようと手を伸ばすとアカネはふわりと身をかわして、次の展示室に向かっていった。

 きっと、あの涙は気のせいだと自分に言いきかせる。

 確かに夏休みが終わるのは悲しいけどそれは泣くほどのことではないだろう。

 僕はなにもわかっていなかった……。

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