第22話 閑話 ――シオン――


 あのお祭りの夜のことを今でも覚えている。

 知らない場所でとても不安で心細かった。

 それまでも決して居心地がいいとは言えない場所にいたけれど、あのときの自分の居場所が完全にないという感覚とは全くちがう。


 全く知らない世界にいるのに、私はもとからそこにいたという風に振る舞わなければいけない。

 周囲の人間がそんな風に振る舞うのだから、私がそれをやぶってしまえばきっと周りの人間の認識も元通りになってしまう。

 だから、私は必死に普通のフリをした。


「オニイチャン」


 初めてそう呼んだときヒロトさんは、いや、お兄ちゃんはとても戸惑った顔をした。

 ああ、これはダメかな。

 拒絶されるかな。

 もし拒絶されたらどうなってしまうんだろう。

 不安が血液に溶け込んで全身を循環していくような気がした。


 私は最悪の場合でも、自分が酷い扱いを受けることぐらいしか想定していなかった。奴隷のようにこき使われボロぞうきんの用に捨てられる。

 それだけでも十分に酷いと思うが……。


 相手に存在を認められなかった場合はどうなるかなんて一ミリも考えてこなかった自分の愚かさに気づく。


 周りの人間が私のことを彼の「妹」と認識していても、彼自身が私のことを「妹」として認識してくれなかったら私は存在できないかもしれない。

 お兄ちゃんのそばにいた女の子、お兄ちゃんの幼馴染のユキさんがなんとか私とお兄ちゃんの手をつながせてくれた。

 しかし、直ぐに手を振りほどかれた。


「こんなやつ知らない」、「シオンってだれ?」お兄ちゃんの目はそんな風に言っていた。


 当然だろう。

 急に知らない世界に迷いこみ、異質な容姿の人間がいきなり自分の妹だなんていい始めるのだから。普通はそうだろう。

 家までの帰り道、暗い場所があった。

 なぜか、その場所だけは月の光も星の瞬きもすべて吸い込んでしまったようなぽっかりとした闇があった。

 さっき一瞬だけ触れることができたお兄ちゃんの手にはじっとりとした汗でぬれていた。

 てのひらを触っただけでもドキドキとものすごい速さで心臓が脈打っているのが分かった。

 つらいだろう、苦しいだろう。

 いきなり自分の現実が歪んでしまったのだから。

 本来、正しく丁寧に織られてきた人生のタペストリーが、私という糸が加わることによって歪んでいびつなものになってしまったのだから。


「オニイチャン……」


 私はその人、ヒロトさんの目をじっと見つめた。

 ああ、黒くて澄んだ綺麗な瞳。深い夜の空と同じ色の瞳の中にお祭りの提灯のオレンジ色の灯がいくつも散らばっている。なんてきれいなんだろう。

 私の瞳とは大違いだ。血のような赤い瞳。この世界でもこの瞳の色は異質だろう。自分でも怖いと思う。人の心を映し出すといわれている瞳が、真っ赤な血の色だなんて。

 だから、小さな声をしぼりだすのが精いっぱいだった。

 自分の声なのに、酷く不自然な響きだったとおもった。


 いいこにするから。大人しくするから。なんでもするから。

 ……だから一緒にいさせて。

 お願いだから、お兄ちゃんの妹にして。


 私はお兄ちゃんに必死ですがりついた――つもりだった。

 だけど、現実に私ができたことはお兄ちゃんの洋服の袖をぎゅっと掴むことだけだった。


 お兄ちゃんは私を家に連れて帰ってくれた。

 私たちの家に。

 まだ少しだけ残ったお祭りの香りと熱気が夜道にも漂う。

 帰り道で見かける子供はみんな笑顔でとても幸せそうだった。

 親に手を引かれ、夜の道にカランコロンと下駄を鳴らしながらあるいていく。

 羨ましい。


 私は、自分の足元を眺める。

 裸足だ。アスファルトの地面はとがっていて、足のうらを刺してくる。

 ああ、やっぱり私は異質だとより強く感じた。

 家路につく子供たちの手には、ふわふわとした雲のようなお菓子や小さな袋に入った金魚なんかが握られている。

 どの子供も自分の幸せを疑わない。

 今日という特別な日が終わるのを惜しみはするけれど、明日も幸せな日々がくることを信じている。子供によっては祭りが終わる空気が寂しくて泣いている。なんて贅沢なのだろう。


 静かでひときわ暗い夜道に差し掛かったとき、お兄ちゃんは私の手を握ってくれた。

 私の手を握る前、手の汗をズボンのポケットで拭ってくれていた。

 あたたかい。大きくてやわらかい手が私の手を包んでくれた。

 ああ、安心できる。

 さっき他の子供たちのことがうらやましかった。その手に握ったお祭りでかったお菓子やおもちゃなどが輝いて見えた。私の手には何もないのに、あの子たちはあんなにたくさんのモノを持っているおと思うと妬ましくて仕方がなかった。


 だけど、今は違う。

 私の手はお兄ちゃんが握ってくれているし、私はお兄ちゃんの手を握っている。

 幸せだ。

 この瞬間、私は誰よりも恵まれていて幸せだった。

 心が満たされるという感覚とでもいうのだろうか。


 お兄ちゃんは何も話さない。

 私も自分から話すのは恥ずかしい。

 夜道が暗いせいで、星がとてもきれいだった。

 さっきまで祭りの提灯のせいで気づけなかった。

 どれくらい無言で歩いただろう、ふとお兄ちゃんが口を開いた。


「その、首からさげてるやつって何?」


 私の方を見下ろしている。

 ああ、私の首からかかっているこれの子とか。

 私だって分からない。

 ただ、あのクジ引き屋の男と約束したときに勝手に首からかけられたのだ。

 まるで呪いの首輪みたいだ。

 忌々しい存在。


「……イットウショウ」


 私はなんとか事実だけを述べた。

 私の声はやっぱり変だった。一生懸命にしゃべるのに、自分の声じゃないみたいな変な響きが残る。


 お兄ちゃんは少し考えたあと、私に特に何かを追求するでもなく歩き続けた。

 ほっとする。

 色んなころを聞かれても、私には分からなことばかりなのだ。

「ワカラナイ」と応えてお兄ちゃんに失望されるのはいやだったから。


 家に帰ると「お母さん」がいた。

 にこにことして私を出迎えてくれた。

 偽物の記憶を植え付けられた結果だから、申し訳なかった。


「二人でお風呂入っちゃいなさい」


 そういって、私とお兄ちゃんをお風呂場に追い立てる。

 お兄ちゃんが、シャツのボタンに手をかける。

 思っていたよりも大きな手、そしてすらりと長い指が器用にボタンをはずしていく。


 そうか、服を脱げばいいのか。

 それなら簡単だ。

 私は腰の紐を引っ張ってリボン結びをほどく。たった一つのその締め付けがなくなると、私にまとわりついていた布の塊が床に落ちる。


 お兄ちゃんやお母さんが着ていた服とは大違いだ。

 粗末で荒い古びた布の塊でしかないかろうじで私の身体を隠せればいいだけの服ともいえない代物。

 恥ずかしくなる。

 でも、もう脱いでしまったから大丈夫だ。

 私は手持無沙汰になったので、お兄ちゃんのことをみる。

 さっきよりも素直に、まっすぐとみることができたきがする。


「そ、そんなにみるなよ」


 ちょっとだけぶっきらぼうなものいいだけど、怒っているわけではないようだった。なんだか、顔もちょっと赤い熱でもあるのだろうか。そりゃあ、無理もない。こんなに色んな変化が起きたのだから普通の人間なら知恵熱をだしても不思議じゃない。可哀想と思うと同時に申し訳なくなる。


 ヒロトさん……じゃなくて、お兄ちゃんは私の髪を洗ってくれた。

 私の銀色の髪を見慣れないお兄ちゃんにとってはきっと気味が悪かっただろうに。私の髪をふわふわに泡立てたシャンプーであらってくれた。

 ときどき、小さなシャボンの泡がお風呂場を飛び回って、その虹色の表面にはお兄ちゃんと私の姿が小さくなって閉じ込められていた。


 お兄ちゃんに髪を洗ってもらうのは驚くほど気持ちがよかった。

 さっぱりしたというのもあるけれど、よい香りがしてお兄ちゃんにたくさん頭を撫でてもらえるみたいで心地がいい。ずっとずっと、張りつめて糸がゆっくりと緩んでいくような幸せな感覚がそこにはあった。

 そして、お兄ちゃんが洗ってくれた髪は以前よりサラサラになった。


 お湯に入れるというだけでも嬉しいのに、お母さんによってお風呂は魔法がかけられたみたいになっていた。

 温かいお湯が、とてもきれいな青色をしていたのだ。

 透き通るような青い色。

 見ているだけで涼しい気分になれる色。

 人込みと食べ物の匂いがまとわりついて、自分の身体の表面にはなにか熱さの膜ができているような気がした。

 見た目は冷たそうなのに、お湯を触ると滑らかで温かい。

 とても不思議だった。

 そして、薬草が入っているのかとても良い香りがする。


「オソラミタイ……綺麗……」


 自分でも気づかないうちにそんな言葉が唇からこぼれた。

『綺麗』という言葉だけは一瞬自分のいつもの声の響きに戻っていた気がする。


 本当に空みたいに美しいと思ったのだ。天国とはこんなところなんじゃないかと思った。

 高い空の上にある天国の水は地上にあるよりもきっと強く青い色がうつるのだろう。

 冷たそうなのに、心地よく温かい液体に体を預けるとするすると今までの疲れが体から抜けていくような気がした。


「ねえ、どこからきたの?」


 湯船にはいってすっかりリラックスしていると、お兄ちゃんが私にきいた。とても落ち着いた声だった。怖くはないのだろうか。私はいうなればお兄ちゃんの世界にいきなり割り込んだ異質な存在なのに。もっと、怒りとか焦りとか普通はもつのではないだろうか。


「トオク」


 しまった、また思うように声がでない。だけどお兄ちゃんはそんなこと気にせずに、私に優しく問いかけなおす。


「ホントは、僕の妹じゃないよね」


 あれ、一瞬だけ私の発音に染ったのだろうか。そんなお兄ちゃんがなんだか愛しくなる。私はできるだけゆっくりときちんと返事をできるように深呼吸した。


「イマハ、オニイチャンノイモウト」


 なんだか少しだけ恥ずかしくなって、私は手持ち無沙汰になって自分の首にかかった銀色のプレートをもてあそぶ。

 冷たくて艶々しているそれが、私の体温でいつもよりすべすべで肌によくなじんでいるような気がした。

 銀色のプレートの真ん中には「1」という数字が彫られていた。

「一等賞」あのハンチング帽の男は私をお兄ちゃんに渡すとき、そんな風に言っていた。


 あれはどういう意味だったのだろう……。


 あの日からお兄ちゃんと私は家族になった。

 どうしてそんなことができたのか不思議で仕方ないけれど、お兄ちゃんは徐々に私を妹として可愛がってくれるようになった。どこに行くのにも一緒に連れて行ってくれるし、いろんな話をしてくれる。


 私はお兄ちゃんのことが大好きだ。


「お兄ちゃんのことが好き」なんていうと、友達からは不思議そうな顔をされる。

 だけど、私にとってお兄ちゃんは私の人生を変えてくれた唯一無二のヒーローだ。

 私にとって、お兄ちゃんと過ごす一日一日は宝石のように貴重なもので、毎日の終わりにそっとそれらを秘密の宝石箱にしまっていく。


 私はお兄ちゃんのことが本当に、本当に、本当に大好きです。


 死ぬまでお兄ちゃんの側にいたい。


 これが私の今の願いである。


 でも、きっと叶わない。

 だって、ユキさんは消えてしまったのだから。

 もともとこの世界に生まれたユキさんだってこの世界から連れ出されてしまったのだ。

 私みたいな異質なものがいつまでもこうやって幸せな日々なんて送れるはずがない。


 だけれど、一秒でも長く。

 ヒロトさん、いや、お兄ちゃんの妹でいたいのだ。

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