第19話 アクアリウム
田舎のショッピングモールというのはそれだけで一つの街である。
ただ、人がその中に住んでいないだけ。でも、なにからなにまで人が生きるのに必要なものはすべて揃う。
家具に家電に食料品と生活に必要な物は何でもござれ。
さらに、ゲームセンターにCDショップに映画館。
アクセサリーショップに洋服屋にヴィレッジヴァンガード。
子供のための託児施設に病院に薬局に美容院。
本当に何から何まで必要な物が揃う。
ネットでの買い物がそんなに必要じゃない人種はすべての物をこのショッピングセンターでそろえているんじゃないかと思うくらい。
もし足りないものがあったしても心配ご無用。実はショッピングモールの周りには郊外型の大型店舗がたくさんならぶ。回転寿司に大型家電量販店にしまむら。本当に揃わないものはない。
まあ、こだわりがなければの話だが。
残念ながら、デパートのように化粧を施してくれるようなコスメカウンターはないし、ハイブランドと呼ばれる洋服は買うことができない。それでもこの場所は車などない学生にとっては唯一と言えるくらいの遊べる場所なのである。
「……かわいい」
アカネがガラスに向かってつぶやく。
子犬だ。
田舎のショッピングセンターはペットショップまである。舐めてはいけない。さらにこのペットショップはペット用のケーキまで扱うというペットが飼える田舎の人のニーズを満たしている。
ガラスの向こうではふわふわの白い子犬がガラスケースの向こうで眠そうにうとうととしていた。
何かに守られていないと生きられないその存在はどんなにいらだった人間の心もあっというまに癒やしてしまう。
そんな不思議な力があった。
子犬はこちらに気づくといキラキラと目を輝かせてこっちを見つめた。
「ねえ、遊ぼう。遊ぼうよ」そんなことを言っているみたいにしっぽをぶんぶんと振っている。
ところでこれは余談なのだが、動物がしっぽを振っているときは必ずしも喜んでいるときとは限らない。猫の場合は喜びではなくいらだちを表していることもあるので注意が必要だ。ガラスの向こう側からこちらに熱烈な視線が向けられる。
可愛い。
その可愛らしさはショッピングモールの騒音を頭の中からかき消すほどのものだった。
その瞬間に僕の頭の中には、僕とアカネとそのふわふわの白い子犬しか存在していなかった。
アカネが嬉しそうに微笑む。
「ねえ、しっぽ振っているよ」
指をさしながらこちらを向く。
「本当だ。きっと嬉しいんだね」
「あんなにぶんぶん振り回してしっぽはとれたりしないの?」
「大丈夫。だって小さい頃、友だちと手を繋いで嬉しいときに手が抜けちゃったことなんてないだろう」
僕がふざけてそんなことをいうと、彼女は目をまるくしてしみじみとこちらを見つめた。そして悲しそうにぼそりと言った。
「私、手を繋いだことないの」
消え入りそうな声だった。
アカネはさっきまで子犬を指さしていた方の手を自分自身でぎゅっと握りしめる。
手を繋いだことがないってどういうことなのだろうか。
アカネがどんな世界で生きていたのか僕はアカネからの話だけでは十分に理解できていなかった。
「ねえ、手を繋いでくれない?」
アカネが小首をかしげる。肩からさらりと綺麗な彼女の髪が流れ落ちた。
「もちろん」
僕はなんとか返事をする。「冗談だよ」っていたずらっぽく笑われたらどうしようかと思った。けれど、彼女は震えた声で「ありがとう」とだけ言った。
細く華奢な指先が僕の掌に触れた。
震えている。
なんでだか分からないけれど震えていた。
いや、本当は分かっている。僕が「もちろん」と返事をするのに苦労した理由と一緒。
拒絶されるのが怖いのだ。
子供の頃はこんな風に考えることは無かったのに。
いつのまにか誰かに拒絶されるかもしれない。そんな風に怯えるようになってしまっていた。
誰かに嫌われるのが怖い。嫌われたり拒絶されるくらいなら最初から無関心を装った方が楽そんな風に考えるようになってしまった。
大人になるというのはやっかいだ。
でも、実際に誰かに自分から近寄っていって拒絶されることなんてあったのだろうか。
拒絶される可能性に気づいただけで、別に誰にも傷つけられたことなどないのに。
触れたあとに少しだけ遠ざかった指先を捕まえて、僕はアカネの手を握った。
少しひんやりしている。
そしてとても小さい。
僕はその簡単に壊れてしまいそうなアカネの手を大切に握った。
僕が怯えてちゃダメなんだ。
今の僕はアカネにとって幼なじみなのだから。
手を繋いだってそんなにおかしいことじゃない。
震えが止まるように、優しく包むようにアカネの手を握る。
ぎゅっと丸まったままだった拳が少しずつほどけていった。
そして、掌と掌がゆっくり溶け合うように手を繋いだ。
さっきまでひんやりしていた手が温かかった。
「手を繋ぐって楽しいだろ」ってアカネの顔をのぞき込もうとしたとき、ブンッと僕とアカネの手が空中を切り裂くのを感じた。
アカネが繋いだ方の手を振り回しているのだ。
しかも、アカネからぎゅっとつかんだままで前後にブンブンと揺らしている。
あまりにも突然のことで一瞬からだを持って行かれて転びそうになる。
「本当だ。楽しいね」
文句を言おうと思ったのに、アカネはあんまり嬉しそうに言う。
その様子に僕はあるはずもない、アカネと僕の幼少の頃の思い出が頭に浮かぶ。
二人で手をつないでいろんなところに遊びにいく。家の近所を冒険する。空き地の雑草を摘み取ってみたり、ツツジの花の蜜を舐めてみたり、犬を飼っている家の門を覗く。
そして、近所の犬に気づかれてキャンキャンと吠えられて逃げていく僕たち。
ドキドキして、日常なのになんだか楽しくてワクワクする。一生懸命力一杯走って全身に血液が巡って頭の中の酸素が少しだけたりなくてぼうっとする。
でも、逃げ切ったところであの家で飼っているのが小型犬だったことを思い出して、二人で顔を見合わせて笑ってしまう。
そんな、あるはずのない記憶が頭に浮かんできた。
僕たちはその日、そのまま手を繋いでショッピングモールで遊んだ。
なんせ、手を繋いでいなければアカネはすぐにどこかに行ってしまう。
すべてが物珍しいようだった。
すぐに「あれはなに?」って指をさす。
「あれはなに?」
「アイスクリーム屋さん。食べてみるかい」
「あれはなに?」
「ゲームセンター。ちょっとやってみようか」
「あれはなに?」
「映画館。いつも物語が巨大なスクリーンで上演されているんだ」
「あれはなに?」
「あれは……」
あれは、今日アカネをここに連れてくる一番の決め手となった場所。
熱帯魚と水草の専門店だ。
店の中は水の中のように静かで穏やかだ。
ぶくぶくこぽこぽとポンプが水の中に空気を送る音に水が循環する音。それだけ。
魚は鳴かないからさっきのペットショップのようになんの声も聞こえない。
魚は犬と違って話しかけてこないのだ。
ただ、自分の水槽に満足してその世界だけをみて進み続ける。
人口のライトに照らされる水草の色は地上の草よりも光の色に近かった。太陽の光を浴びて強く強く生きるのを強制されている真緑色の植物とは違い、人口の光だけを浴びた淡い色の水草たち。ふわふわと水の流れにたゆい、光を受け手もそれをなんとかするのではなく自分の中に透過させてしまうくらい心許ない。
でも、そこはとても静かだ。
水というのは人間にとって無くてはならないものだけど、人間は水の中では生きていけない。
もしかしたら、水の中というのは生と死の間の場所に近いのかもしれない。
色とりどりの熱帯魚たちがこちらのことをちらりと見ることなくすいと進んでいく。
こちらを見ないどころか隣の水槽にでさえ彼らは興味がないかもしれない。
いくつもの区切られた海や湖があって、その中に無数の透明や虹色の泡が浮かんでは消えていく。
アカネが静かにため息をついた。
ため息さえも押し殺さなければいけないくらいこの場所は静寂なのだ。
「嘘みたい。これが水族館?」
アカネは瞳をキラキラさせてこちらに問いかける。
「残念。はずれ」
僕は苦笑いして、ここが水族館ではなく店であることを説明する。
だけれど、アカネはそれでも「すごい、すごい」といって嬉しそうだ。
「こんなに魚がたくさん。ねえ、昨日の子たちもいるかな?」
昨日の子というのは、昨日絵本で読んだ物語のことだ。
綺麗な絵本だった。僕は幼稚園の時に読み聞かせをしてもらった覚えもあるし、小学校にはいってからは教科書にものっている有名な魚の絵本。
もしかしたら、この魚の名前をしらない人間は居ないんじゃないかって暗い有名だ。
昨日、アカネと二人でその魚の本を読んだのだ。
何度見ても美しい。
主人公は小さな魚。
その魚は深い海のそこを旅していろんな物を見て回る。
最後はそのちっぽけな孤独な魚が自分たちを食べようとした大きな魚に知恵を働かせて勝利するという物語。
その絵本を読んでいると、自分が本当に海の底にいるような気分になる。深い深いたぶん今自分がいる世界とは全然光りの当たり具合が違う世界。
そんな静かで深い世界に自分が漂っているような気分になった。
「ねえ、海の底にいってみたい」
昨日のアカネはそんなことを言った。
そんなことは不可能だ。
だけど、アカネの気持ちは分かるような気がした。
別な世界から来たアカネにとってそのちっぽけな魚はヒーローのように映ったのだろう。
そんなヒーローに会ってみたいと思うのはそんなにおかしな話ではない。
本当なら水族館に連れて行ってあげられれば、いろんな魚をもっとたくさん、もっと広い偽物の海を見せてあげることができるんだろうけど、なんせ僕はおととい全財産を失ったばかりだ。
苦肉の策として、アカネを連れてこられたのがこの小さな偽物の海の底だった。
あまりにも嬉しそうにするので、この小ささが申し訳ないと思う。(お店の人ごめんなさい。お店としてはここは十分広くて綺麗でいろんな魚が居ます。)
「ごめん……」
「ん?なにが?」
アカネはきょとんと首をかしげる。
「水族館つれてこれなくて……ごめん」
「気にしないで、ここにだって魚がたくさんいるもの」
アカネの顔には水面と通り抜けたライトの光があたり、波が静かに押してはひいていく。
「ここには群れの魚も孤独な魚もいないのね」
アカネは静かに笑った。
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