第10話 妹ができた日の話

 

「さあ、兄ちゃん。一発やってくかい?」


 その日はとても蒸し暑かった。

 向こうのほうでは、カサカサと音を立てながら光る羽虫が飛んでいった。

 オレンジと紺色が空の上で混ざり合い。オレンジが負けて静かに闇が落ちていく。

 湿気と汗が混ざり合ってべたべたと服が肌にまとわりついて早く帰りたかったのに、なぜだかその声に立ち止まってしまった。


 最初にこの男に出会ったことによって妹ができた。

 小学生のころだった。

 夏祭りの夜。

 あの夜は楽しかった。

 二度目の夏祭りが行われると聞いたときは驚いたけれど。

 その年、俺は夏祭りの日、風邪をひいてしまっていたので、そうそうに親に連れ帰られてしまっていた。

 楽しみにしていた屋台も見て回ることができなくて、お祭り用の小遣いだけがむなしく机の引き出しにしまわれていた。

 俺は祭りを楽しむことができなくて、ひどくがっかりしていた。


 それがどういう風の吹き回しか、今年は夏祭りが二回行われるという。

 神様からのプレゼントかと思った。

 うれしくて仕方がない。

 二度目の祭りの風景はいつもよりキラキラして見えた。


 紅をさしたみたいなつやつやのリンゴ飴に、真朱の兵児帯を巻いたみたいな金魚が優雅に泳ぎ、花火は空にありえないくらいの火の星を降らせた。熱に浮かされたように人々はそぞろあるき、ただその空気に夢中になっていく。

 あまりにも楽しくて夢中になってしまったから、僕はあの日みんなとはぐれてしまった。


 気がつくと祭りの雰囲気が変わっていた。

 確かに自分は祭りの会場にいるのに、見えている景色が何か違うのだ。


 何度も目をこすり、友達を探すがそこには知っているものはだれもいなかった。

 さっきまであんなにたくさんあった綿菓子の屋台はなくなって、代わりに「雲売り」とか「蜘蛛売り」いう屋台が並んでいる。

僕の知っている綿菓子って言うのは祭りの提灯に照らされてピンク色で割り箸に刺さっているのに、雲売りの売っている雲は紐がつけられて空に浮かんでいるし、蜘蛛売りの売っているやつは屋台の前で蜘蛛がせっせと糸を吐き出して作っていて「壱万円」とかとんでもない値段が書かれている。

 蛸焼きの屋台はいつの間にか、鮮やかな蛸ではなく白く黄ばんだ具を入れていて『蛆焼き』と書かれていた。

 お面の屋台はさっきまでプラスチックのキャラクターものがならんでいた場所には木彫りの能面がずらりと並び、なぜか一様にこちらをにらみつけていた。目の部分はあいていてこちらを見ることなんてできないはずなのに。


 あとは全然知らない屋台がある。フリーマーケットみたいというのが正しいのだろうか。

 一つ一つの店が小規模で茣蓙の上に商品を並べている。

 なにかまずいところに来てしまったと子供ながら思った。

 ざわざわと雑音ばかり聞こえている。

 誰も助けてくれない。

 だけど、みんながこちらの様子を伺っているのがわかった。

 見られている。いくつもの眼球が僕のことを捉えて、ちくちくと指していく。

 ここから出たい。ここから去らなければいけない。

 だけど、どんなに歩き回ってもその場所でしかなかった。


 そんな時だ、あの男と出会ったのは。

 あのときも男はこういった。


「一回やってくかい。兄ちゃん」


 その男の顔は思い出せない。

 でも、目深に被ったハンチング帽に薄汚れているんだか、もとからその色なんだか分からないジャンパーはどう見ても昭和の物だ。僕は昭和に生きていたことはないけれど。

 男はニコニコしているけれど、決してそれはこちらに対する好意じゃないっていうのは分かった。近所の口うるさいおばちゃんがこちらに向かってニコニコ挨拶してくるときは別物だ。

 男の顔はきっと商売をしているときはこういう顔をするようにできているのだ。


 僕は初めて声をかけてもらえたことが嬉しかったのと男が怖くて仕方なかったのとで思わず頷いてしまった。


「じゃあ、全財産」


 男はそういって手を差し出した。

 何を売っているか分からないが全財産というのはいささか強引すぎる気がした。

 それでは一文無しになってしまう。


 僕は文句を言おうと思ったけれど、男の有無言わさない感じが怖くて、男が出す手の上で財布を逆さまにして振った。

 五百円玉が一枚と十円玉が四枚だけだった。祭りも終盤に近付き、はしゃいでいたせいもありすっかり小遣いを使い尽くしていたのだ。

 僕は男が怒り出して殴られるんじゃないかとおもっておずおずと見つめたが、男は僕の財布が空になったことを確認して満足げに頷いた。


「じゃあ、一回」


 男はぶっきらぼうに言った。

 僕は、男の前にある箱から出ている紐の束を見つめる。


 男はゴザの上に直接古びて黒ずんだ木箱をおいていた。そこから幾本もの糸が飛び出している。紐クジというやつだろうか。ただ、景品は見えはするのだが、景品の部分は木や金属でできた奇妙な形のプレートになっている。

 黄ばんだたこ糸みたいなものが無造作に束になっている。どれも古くて触るのがためらわれた。しかし、これを引かずには僕はここから帰してもらえそうにない。なにか一本紐を引かなければとよくよくその紐の束を観察する。


 その中に一本だけ真新しいものがあるのを見つけた。


 本当は、その中というのは正確ではない。一本だけ根元は束の中に入っているくせに紐の先はこちらではなく、男の方を向いているのがあったのだ。

 僕はどうしてもその一本が気になって仕方が無くなった。

 というか他の紐はどうも引くのがためらわれた。


 そもそも、このクジ引きは何を引けば当たりなのだろうか。

 駄菓子屋ならば大きな飴がついているのが当たりらしいが。こちらはどれがあたっても使いみちなんて検討もつかない。

 そもそも、駄菓子屋に自体も行ったことがない。あくまで父親の思い出の中のお話だ。その父親だって駄菓子屋は近所になくて、ねだってねだってやっと連れて行ってもらったというのだからもう遙か彼方の別世界のことのように思われる。


 でも、あの特別白くて新しい紐が当たりと言っていいのだろうか。この間、従兄弟とババ抜きをしたときみたいにわざと相手に引かせたいものを真ん中にして一枚だけ突き出すみたいな心理戦を仕掛けられているんじゃないかとも思う。

 もしかしたら、あの白い紐は大当たりに見せかけた大はずれであの紐を引くことによって人生が変わってしまうのではないだろうか。


 イヤな汗がじわりとわき出す。


 気がつくと手のひらや首筋には緊張したとき特有のチクチクする汗の玉が吹き出し始めていた。

 早くしないと。

 早くしないと、こういう汗は乾いたあとに酷く肌をひりひりさせる。

 祭りのせいでやってきた偽物の夏のせいで、僕の肌はよく太陽の光にあたりうすーく透明な皮がむけるくらいになっていた。


「おじさん。このクジは何が当たるの?」


 僕は思いきって男に聞いてみた。そう、大当たりでも大はずれでも引いたら何があたるのか。それさえも知らずに僕はこのクジを引かされそうになっていた。


「なかなか、利口な兄ちゃんだ」


 男は少し感心したようにつぶやく。こっちの話を聞いているというより独り言のようだった。

 そしてにこりと笑いこちらを向く。


「やあやあ、てっきりよくいる甘ったれのクソガキかと思えばなかなか勘がいいじゃねえか。普通のガキなら、何も考えずにただ紐をひいてはずれを引いていくのに・・・・・・いいだろう。その機転に免じて少しだけこの店のことを教えてやろう。

 この店はな、クジ引き屋だ。それもただのクジ引き屋じゃあない。賞品が特別なんだ。なんと別な世界の品物があたる。どうだ、素晴らしいだろう」


 男は演説めいて説明する。


「はずれはあるの?」


 僕が不安に思っていたことを確認する。

 すると男はますます嬉しそうに笑ってこういった。


「当たりかはずれか決めるのは、僕じゃあない」


 そう言うとパイプ煙草を取り出して吸い始めた。

 古いアニメでみた知識だけだったそれが目の前にあると不思議な気持ちになった。

 男が煙を吐き出すと嗅いだことのない甘い香りが漂った。

 視界に桃色の靄がかかり、頭がくらくらしてきた。

 これ以上質問をしてはいけない。僕の本能がそういった。

 僕は覚悟を決めてというか、唯一意識の向いていた糸を一本、つまみ出して素早く引いた。


「一等賞だ」


 男はたいそう愉快そうに微笑んだ。


「ああ、一等賞か。良かった。きっといい物に違いない。」


 僕はそう思いながら自分の頭がぐちゃぐちゃにかき混ぜられているような感覚に戸惑った。

 まるで生まれてから今までの記憶を全部ほじくり返されてそれを誰かに触られているみたいだった。

 折り目の詰まった布に無理矢理糸を足していくような感覚。もうこれ以上なにも入らないのに無理矢理でも新しい糸を足そうとするから布に歪みが生まれる。

 無理に寄せるから横糸だけじゃなくて縦糸までちぎれそうだ。


 頭が痛い。苦しい。


 僕は吐き気に絶えられなくなってその場にしゃがみ込む。

 気がついたら自分の汗で足下に水溜まりができていた。

 いや、もしかしたら汗だけでなく尿とか唾液とか涙とかよく分からないけれど自分の体液が流れ出たものだと思った。

 下着まで重みを感じるくらいぐっしょりと濡れていたのでなにがなんだか区別がつかなかった。

 ぐわんぐわんと頭をかなづちでなぐられたみたいだ。頭痛と自分の中の音が共鳴する。

 自分の鼓動もだんだん大きくなって耳の中でドキドキと鳴く蝉を飼っているような気分になった。

 もうだめだ。

 僕は、一等の賞品を確認することも諦めて目を閉じる。


「また、どうぞ……というか兄ちゃんはきっとまたここに来るな」


 薄れゆく意識の中で男は確かにそう言っていた。

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