甘じょっぱいは幸せの味

FUKUSUKE

油揚げは幸せの味

 キッチンへと移動した僕は、電気ケトルに水を入れ、スイッチを入れる。お湯が沸くまでの間に赤い容器の包装を剥がし、蓋シールをなるべく小さく開けて粉末スープを取り出した。

「何つくってんの?」と寝室から出て来た妻が言った。

 僕は三時間も前から起きているが、休みの日となると妻は昼過ぎまで寝ていることが多い。そして、間違いなく腹を空かせている。

「これ」と僕は返事をし、赤いきつねを手に持ってみせた。

「あ、緑のたぬきもあるやん? あるんやったら私も食べたい」と妻は言うと、洗面所に向かうべく歩き出した。妻はキッチンに置いてある緑の容器を見つけたのだ。

 妻はいつも僕が何かを食べようと準備を始めると起きてくる。エスパーかなんかなのだろうか。そして部屋の匂いを嗅ぎ、僕の手元や鍋を覗き込んだら、最後は直接何を作っているかたずねる。そして、自分も食べたいと言うとそのまま顔を洗いに行く。ここまでが土日になると繰り返される我が家の風景だ。

「はいはい、お湯は沸かしてるし、自分で作ってな」と僕が答えた。でも、返事はこない。いつもそうだ。自分の言いたいことだけは言うが、僕の話すことなんて半分も聞いていない。結婚し、一緒に暮らし始めて十五年。毎日僕が独り言を繰り返していることになっている。

「しょうがないな……」と、ため息まじりに僕は呟き、先ずは、容器の中にある乾燥したうどんに粉末スープを振りかけた。出汁と醤油、砂糖の混ざった甘い匂いがふわりと鼻をくすぐり、お湯を注ぐ前にまず僕の口の中が唾液で満たされてしまった。それをごくりと飲み込んで、妻が食べる緑のたぬきも、同じように用意した。

 ずいぶん昔のことだが、妻がカップのカレーうどんとカップ焼きそばを同時に作ろうとして、何をとち狂ったのかカレーうどんの方に焼きそばのソースを入れたことがある。今となっては笑い話でしかないが、同じような間違いを起こさないようにするには別々に作るというのが最適だと僕は思っている。だから順番に、丁寧に準備した。

 そうしている間にも電気ケトルからボコボコと沸騰する音が聴こえてくる。カチッという音がして電源が切れると同時、待ち構えていた僕は把手とってを持って赤いきつね、緑のたぬきの順に湯を注ぎ、換気扇に張り付けたタイマーをセットした。

 少し経って洗面所から戻ってきた妻がテーブルの上に置いた緑のたぬきを見つけた。

「あ、作ってくれたん?」と無表情で妻が言った。

「まあ、一個作るのも、二個作るのも変らんからな」と僕も無表情で返した。

「お腹空いてんねん。食べてもええかな?」と妻が言った。

 まだ湯を注いで二分も経っていない。東京育ちなのに大阪弁を駆使する妻は非常にせっかちだ。対する僕は非常に貧乏な時期を過ごしたせいか、少し麺が伸びたくらいの方が、なんとなく腹が膨れるような気がして好きだ。

「もう少し待ったら?」と僕が言うと、妻は首を横に振った。

「少し早いくらいの方が、天ぷらがサクサクしててええねん」と言って妻は蓋を取った。

 途端につゆの香りが辺りに広がる。うどんつゆの香りもいいが、そばつゆの香りもいい。うちは関西なので昆布の効いた味になっているだろうが、東京育ちの妻は意外にもこだわりがない。

「あ、お箸……」と妻が言って立ち上がろうとしたが、僕は妻の箸を差し出した。

「ほら」と僕は言った。

「あ、ありがとう」と、箸を受け取った妻が言った。

「ああ」と言って、僕は自分の箸を赤いきつねの蓋に載せ、キッチンへと戻った。タイマーをセットした時間は緑のたぬきに合わせて三分。赤いきつねは熱湯五分で出来上がる。追加で二分セットしないといけない。だが、その間にもズルズルと妻が麺を啜る音が聴こえる。その音がまた僕の食欲を刺激する。

(あと三〇秒……)と僕の中でカウントダウンが始まった。実際には更に二分もの間、妻が食べる緑のたぬきから漂う香りと、妻が麺を啜り、かき揚げを齧る音を聞きながら堪えねばならない。

 一緒に暮らし始めた頃はいつも二人一緒にテーブルで食べていた。いや、最近までそうだった。でも、コロナウィルスが蔓延してテレワークを始めてからは別々に食べることが増えた。仕事をしながら食事をするようになり、そのまま別々の部屋で過ごす時間が増えたせいだ。

(このままでいいんだろうか……)と、僕は少し心配になっていた。「いただきます」や「ごちそうさま」、「ありがとう」……共に長い年月を過ごし、少なくなってきていた言葉だ。だが最近は特に妻の口からそれが聞けなくなった。でも、僕は別にその言葉が欲しいと思って料理をしていない。結婚にしろ、同棲にしろ、ひとことで表せば「共同生活」だ。料理にせよ、掃除、洗濯にせよ、得意な方がやればいい。もしくは時間があるときにすればいいし、食べたいものがあるときにやればいい。その日、その時、その場に応じて役割も臨機応変にしていけばいい……究極はそれだと僕は思っている。でも何か心がモヤモヤとしていた。

「タイマー鳴ってるで」と妻が大きな声で言った。

「ああ、うん」と僕は言った。テーブルで緑のたぬきを食べるのを見ながら、考えにふけり過ぎたようだ。僕はタイマーをリセットしてテーブルへと移動すると、ほぼ食べ終わった妻の前に座って蓋シールを丁寧に剥がした。

 少し濃い目の飴色をした関西風のつゆが現れ。そばとは違う甘い香りが広がる。お湯とつゆを吸った甘じょっぱい汁を湛えてふっくらと膨らんだ油揚げが横たわり、かまぼこ、青ネギ、玉子――他の具材も塩梅あんばいよく戻っていて美味しそうだ。

「いただきます」と箸を持って言って、折り重なるようになったままの麺を手繰たぐりつつ、うどんつゆを混ぜる。そして、麺を持ち上げて息を吹きかけたら口の中へ……

――ズルッズルッズルルルルッ

 豪快に音を立てて啜りあげた。麺に絡んだつゆの香りが口から鼻の奥に流れ込むと、醤油や出汁の旨味を吸った麺を噛みしめる。麺の食感、あふれだすつゆの旨味と香りを口いっぱいに感じながら、ごくりごくりと胃袋へと流し込む。

「美味しい?」と、妻が言った。妻の緑のたぬきは殆ど残っていない。でも妻がこんな発言をするときはいつも……

「ひとくちちょうだい」と、妻は僕の予想通りに続けた。

 僕は黙って赤い容器を妻へと差し出す。その代わりなのか、妻は僕に緑の容器を差し出してくる。

「食べていいよ」と妻は言った。いつもそうだ。妻は俺が食べているものを食べたくなるという習性を持っている。不思議な習性だ。三人兄弟の末っ子で育った僕にとって食事は戦争だ。七歳と五歳年上の兄に僕が勝てるわけがないし、「兄弟は長男が一番偉い。次男は二番目に偉い」という親父の方針もあって、僕はいつも残りカスばかり食べていた。そして僕が何か食べていると、母もよく「ひとくちちょうだい」と言って半分くらい食べてしまった。子どもにとって、大人の「ひとくち」はとても大きく感じたものだ。だから妻の「ひとくちちょうだい」という言葉が僕は苦手だ。いい顔はできない。だが、妻の「ひとくち」はカップうどんだと二本くらいだ。ズルルッと音を立てて啜ると、つゆをひと口だけ飲んで突き返してきた。

「いらんの?」と、彼女は言った。僕が緑のたぬきに手をつけないからだ。

「うん」と僕は言った。生まれ育った環境のせいか、例え妻であっても他の人のモノに手をつけるのは苦手だ。それよりも、油揚げだ。そこに手をつけなかった妻を褒めてやりたい。僕は受け取った赤い容器に入った油揚げに箸を入れる。油揚げは浮いているだけだから箸に押されて少し沈み込み、やっと箸先が食い込んでいく。そうして開いた穴に箸を刺して広げるようにして裂くと、食べやすい大きさに千切ちぎって、手繰たぐったうどんと共に箸で摘まんで口に運ぶ。再び口いっぱいにつゆの香りが広がり、麺の食感が歯から伝わってくる。舌に触れるつるりとした麺の表面から染み込んだつゆの味が出て来たと思ったら、油揚げからジュワッと甘じょっぱい汁が飛び出してきた。

(ああっ……)と僕は心の中で歓喜した。このきつねうどんという料理を食べるたびに、もし前世というのが本当に存在するのなら、前世の僕もきつねうどんが好きだったに違いない――そう強く思う。それほど僕はきつねうどんが大好きだ。つゆだけを吸いこんだ玉子も美味しいし、ペラペラのかまぼこも麺と一緒に食べるときちんと食感が生きてくる。が、やはり油揚げは別格だ。

――ズッズズルッズルルルルッ

 最後の一本まで食べ終えて、僕はふと目を前に向ける。そこには呆れたような表情をした妻がいた。

「ほんま、美味しそうに食べるねえ」妻が言った。

「そうか?」と僕は言った。普段から意識して食べていないからわからない。

「ふふっ、ごちそうさまでした」と妻が笑って言った。妻の表情は、面白い漫画を読んで笑ってる顔とも違うし、テレビ番組を見て笑っている顔とも違う。どこか幸せそうな笑顔だった。そして、「ごちそうさま」という言葉にも字面とは異なる意味が含まれているかのように僕は感じた。

「油揚げは幸せがいっぱいしゅんでるんや」と僕は言った。

「何をアホなこと言うてんの」と言って、妻は再び呆れたような顔をした。

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甘じょっぱいは幸せの味 FUKUSUKE @Kazuna_Novelist

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