私が帰る居場所

私が帰る場所-1

 夜は更けていくのに睡魔は一向に訪れない。


 机に向かい窓の外を眺める。体育館の窓に明かりは灯っていない。外灯が静かに降る雪を照らしているだけだ。


 夜が明けたら、京都に戻らなければならない。

 

 結局正人とは連絡すら付かなかった。

 このまま 正人に会えずに帰るのは悲しい。胸が締め付けられるように苦しくなり、何とか息を吐き出す。


 夕方、勇ましく決意を口にしてはみたが、頼りない気持ちにすり替わり心が折れてしまいそうになる。


 こんな気持ちで京都に帰ったら、涼真に心の隙を突かれてしまいそうだ。正人の隣にいる安らぎを、身体が忘れてしまいそうだ。


 どうしても、会いたい。一目で良いから。


 祈るような気持ちで、窓の外を眺める。

 窓の外は闇。外灯だけが静かに降り続ける雪を、映し出している。


 しんしんと降り続く雪を、只、只、見詰める。

 正人と紡いだ思い出の数々が、胸に去来しては消えていく。


 伸び放題の髪と髭の下から現われた美貌に驚いたこと。ポリポリと頬を掻く癖。感激して顔中を涙と鼻水で濡らす正人に、ボックスティッシュを差し出したこと。鉋を掛ける真剣な眼差し。いつも向けられていた優しい微笑み。


 全て目の前にあるもののように鮮明に思い出せる。でも、今はどこに手を伸ばしていいのかすら分からない。


 このまま、すれ違って行ってしまうのだろうか。


 そんな不安が、胸を占拠していく。


 国道の方から淡い光が差し込んできた。車のヘッドライトであるようだ。光は大きく強くなりながら近付いてくる。


 チカチカと点滅するオレンジの光が白いヘッドライトに混ざる。


 交差点で一度止まり、左に曲がる。家の外壁に邪魔されて見えなかった車体が姿を現した。


 白い軽トラック。


 美葉は思わず身を乗り出した。

 軽トラックが小学校の門に向かって曲がるのを確認したと同時に駆け出す。


 暗い階段を駆け下り、裸足にスリッポンを引っかけると雪の中に飛び出していく。粉雪を踏みしめて走る。沈む雪に足を取られながら、走る。


 門にたどり着くと、車から降りてくる正人の姿を見付けた。


 ああ。


 やっと、会えた……。


 白い息を弾ませて、正人に向かって走る。


 正人が振り向き、驚いたように息を吐いた。正人の顔が白い息でかすむ。消えてしまいそうに思い、必死で正人の上着の袖を掴んだ。


 目の前に正人がいる。


 肩で息をしながら見つめる。言葉が、出てこない。


 正人も、美葉を呆然と見つめていた。


 はっと正人が息を吐いた。壊れ物を扱うように美葉の手首を持ち自分の上着から外すと、慌てふためくように上着を脱ぎ、美葉の肩に掛けた。


 氷点下に晒されていた肩を、ボアの柔らかい感触と正人の体温が包む。


 「風邪、引きます……。」


 小さな声が聞こえた。正人の声だ。言葉が出ないまま、涙だけが溢れてきた。正人がまた、はっと息を吐いた。


 「……会いたかったんだよっ……。」


 やっと、その言葉だけを唇の向こうに押し出した。


 正人の姿を見たかった。ひたすらに、それだけを願っていた。


 正人はうつむいた。


 「すいません……。」


 小さな声で呟く。美葉は小さく首を横に振った。


 会えた。

 だから今はそれでいい。


 「風邪、引いちゃいますね。中に……。」

 正人は後の言葉を飲み込んだ。気まずそうに視線を雪原に向け、唇を結ぶ。その理由は、分かっている。


 「中に、入ろう。ストーブに当たりたい。」


 パジャマにほぼ裸足の状態。身体が自然に震えてくる。正人は美葉の身体が震えていることに気付いたようで、慌ててポケットから鍵を取り出した。


 樹々の玄関の鍵を開ける。


 「あ。」


 ドアを開けて、正人は小さく声を上げた。看板が無いことに気付いたようだ。顔を外に出し、そこにあるはずの無い看板を見付けて、目を見開く。


 美葉は正人の前に立ち、流木の取っ手を引いた。

 壁際のスイッチを手探りで探し、明かりを付ける。


 「ショールームが……。」


 正人は磨かれて蘇ったその場所を、呆然と眺めている。美葉はその手を取って工房へ向かった。


 中に入り、ストーブに火を付ける。


 「やりかけになっている仕事を整理して、お客さんに連絡を取ったの。六人のお客さんが、納品を待ってくれている。工程表も、作り直した。後は、正人さんが家具を作る。それだけでいい。」


 美葉はストーブの前に蹲り、手を翳しながら言った。身体が温まり、内側に力が戻ってくる。


 「美葉さん……。すいません。……僕は……。」

 正人は項垂れていた。その姿を見上げる。正人の言いたいことも、情けない思いも痛いほどに分かる。


 美葉は立ち上がり、正人の手を取った。その手を引いて、歩き出す。


 そこへ連れて行くために。


 工房の隅に、二人掛けのソファーが置かれている。


 「あ、これ!」


 悲鳴のような声が正人の口から溢れる。美葉の唇がふっと綻んだ。


 体育館倉庫で見付けたときは、本当に驚いた。もしかしたら納品を忘れた家具では無いかと思ったからだ。しかし、明るい場所に引っ張り出すとそうでは無いことに気が付いた。


 桜で作った二人がけのソファーは、肘掛けが柔らかいアーチになっていた。サーモンピンクのレザーが座面と背面を覆っている。


 美葉は、ソファーの左側に座った。


 「正人さんも、座って。」


 美葉は正人を見上げた。正人は、狼狽えて立ちすくんでいる。


 「正人さんが座らないと、このソファーは完成しないでしょう?」

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