逃亡先で-2

 無視することは、出来なかった。

 震える指で通話ボタンを押す。


 「もしもし……。」

 声をしぼり出すと、電話の向こうで息をのんだのが分かった。


 「……逃げんなよ!!」


 数秒の沈黙の後、突然怒鳴り声が聞こえた。耳が痛くなるほどの大きな声だ。陽汰の声は、こんな声だったのかと思う。


 「俺に逃げるなといった癖に!自分は逃げっぱなしじゃないか!俺は、逃げるのやめたからな!お前もさっさと出てこい!逃げるな!」


 ぶつりと電話が切れた。


 呆然と画面を見ていると、一枚の画像が送られてきた。開いてみて、正人は息を飲んだ。


 こちらを睨み付ける男女。野生動物のように鋭い眼差し。美しい女性を、守るように背中から抱く男。


その顔に、微かに見覚えがあった。


 「陽汰……君?」


 見知っているのは鼻から下。その上には、悠人とよく似た二重の瞳。


 陽汰は、自分の世界を守る前髪を上げて、社会と繋がって生きる道を選んだということなのだろうか?


だとしたら、その決意の重さは計り知れない。


 『逃げたら、後ろめたさが残りますよ。ずっと後ろめたい気持ちを抱えて生きていくことになりますよ。』


 かつて、退学という道に進みかけた陽汰に自分がかけた言葉が、頭に浮んだ。


 『俺に逃げるなといった癖に!自分は逃げっぱなしじゃないか!俺は、逃げるのやめたからな!お前もさっさと出てこい!逃げるな!』


 初めて聞いた陽汰の怒鳴り声が、何度も耳に蘇る。この言葉は、陽汰の決意でもあると思った。陽汰は六年前に自分がかけた言葉を覚えていてくれて、『逃げない』という道を選んだのだ。『逃げるな』と最初に言ったのは自分なのに、今の自分は何なのだと情けなくなった。


 正人は運転席のドアを開け、外に出た。冷たい空気が頬に刺さる。風を切り裂くようなカモメの鳴き声に混じり、陽汰の声が頭の中で繰り返されている。


 「逃げたら、だめだ。」

 風に向かって顔を上げた。


 夕日が海に消えてゆき、夜の闇が迫っている。


 「帰ろう。」

 そう言い聞かせ、両の手に力を込める。


 一陣の風が吹き、その強さに思わず目を閉じた。しかしその風は、どこか熱を持ち、ふわりと温かく頬を撫でていく。


 『帰っておいで』


 節子の声が聞こえたような気がして、驚いて目を開けた。空に目をこらしてみたが、そこには闇があるばかりだった。


 しかし、確かな節子の気配を感じた。節子の笑顔が鮮明に胸に浮ぶ。丸い顔に、歯の無い口を思い切り開けて笑う、常に自分たちを導いてくれていた笑顔が。


 不思議と、悲しくはならなかった。悲しみの代わりに、胸に熱が灯る。


 「節子ばあちゃん、僕に力を貸して下さい。僕、ちゃんと帰りますから。今度こそまっすぐ帰るように見張っていて下さい。」


 空に向かって呟き、運転席のドアを開けた。

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