樹々と正人

樹々と正人-1

 正人は相変わらず帰ってこず、電話の電源は切れたままだ。


 美葉は諦めてスマートフォンをポケットに仕舞い、今日の仕事を始める。購入者の一覧と、作りかけの家具を照らし合わせるのだ。


 それも、簡単な仕事では無かった。注文の家具の種類と使っている木材、デザインの特徴。それらを、作りかけで放置されている家具の中からより分けて探し出す。図面も残っていないので、メールでのやり取りとスケッチブックの絵と実物の家具をパズルのように合わせていく。


 ダイニングセットなのに椅子の一脚だけ素材が違う物があった。4脚の椅子の内1脚だけが全く別の場所に置かれている事もあった。それは、片付け損なってそうなったのかも知れないし、別の注文と間違えていたのかもしれない。もしかしたら、何軒かの注文を混同しているかも知れない。


 気の遠くなるような作業が一日半も続いた。


 夕方、やっとめどが立ったところで、ふと息をついた。


 「コーヒーでも飲もうかな。」


 呟いて、木製のキッチンへ向かう。食器棚にしまってあるミルを取り出し、輪ゴムで口を縛ってあるコーヒー豆を入れる。ミルを回すこの感触は、本当に久しぶりのものだ。ガリガリという音を聞きながら、豆を挽いていく。ふっと軽くなったところで、丁度湯が沸いた。


 豆をフィルターに入れて平らにならし、そこに湯を少し注いで蒸らす。豆がドーム状に膨らみ、コーヒーの良い香りが広がっていく。


 時間をかけて抽出したコーヒーは、少し酸化した匂いがしたものの、ふくよかで美味しい。


 自分の椅子に座って、ゆっくりとコーヒーを啜る。

 張り詰めていた気持ちが、ほどけていく。


 「……あれ?」

 それは、不思議な感覚だった。


 脱力している。


 仕事中なのに、気持ちをほっと緩めることが出来ている。こんなほっとした気持ちになったのは、何時以来だろう。


 京都にいるときは、朝起きてからずっと仕事に集中し、昼食中も仕事のことを考えている。ともすれば、ゼリーを流し込んで休憩せずに仕事を続けたり、パンを片手に仕事をしていたりする。夜遅くまで会社に残って仕事をするのは日常のことで、家に帰ってからも睡魔に襲われるまで仕事をし続ける。疲れて早く眠ることもあったが、そういう日は夜間に何度も目が覚めた。


 気持ちが張り詰めていた。常に。力を抜くことが出来なかった。


 佳音の分析が、実感を伴ってこれまでの生活と重なって行く。


 月に一度帰郷していたときは、そこでほっと力を抜いていたのだと思う。でも一年以上帰らない間、一度だって気持ちを休めることが出来なかった。


 『私にしか分からない正人さんの良さがあるの!』

 佳音に叫んだ自分の言葉が、すとんと心に収まった。


 「だって、正人さんの側でしか、心を休めることが出来ないんだもの。」

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