樹々と正人-2

 気付いた答えに、呆然とする。


 正人は常に暖かな空気を纏っていて、その空気に包まれていると心底安心できた。正人は常に微笑みをたたえて、優しい眼差しを自分に向けてくれていた。その眼差しを受け止めるだけで、心が温かく満たされていくのだ。


 『お前、キーキーしているぞ。正人に会う前のテンションに戻ってる。』


 健太の言葉を思い出す。

 あまり自覚はしていなかったけれど、確かに自分は、キーキーした人間だった。何にでも全力で向かっていく。それはいいことなのかも知れないが、メリハリを付けることが苦手で、いつも頑張り続けていた。受験勉強と家業と家事の両立という建前が出来てからはなおさら。心の悲鳴を無視し、頑張り続けていたから過呼吸になったのだ。


 でも、正人が現れてからの自分は、緩急を付けることが出来るようになったのだと思う。


 樹々の事を考え、共に仕事をするようになってからも、のめり込みすぎることは無く、夕食の時間を楽しみ、夜になると自然と眠りにつくことが出来ていた。


 あの頃の感覚が、今自分に蘇っている。


 でも、正人はここにいないのに?


 そう思いながら、ショールームの中を見回す。


 放置され、埃を被った作りかけの家具が点在している。

 この荒れた空間は、疲弊して傷んだ自分の身体のようだと思う。でも、もしかしたら正人の心の中も同じかも知れない。


 ――樹々は、正人の分身だと感じることがあった。


 樹々のショールームにはルールが無い。あるとすれば、コーヒーはセルフサービスで、と言うことくらい。


無料のコーヒーを飲んで長時間過ごしていても、別に構わない。


買い物をしなくてもいい。走り回ってもいい。ベッドで眠ってしまってもいい。何をしても許されるような包容力を感じる場所だ。だから、人々は安心して集い、穏やかな時を過ごせたのだろう。


 正人も、誰がどんな事をしても怒ったり咎めたりしない。楽しい事は共に楽しみ、喜ぶべき事は自分の事のように喜び、怒りを共に分かち合い、共に憂う。お説教じみた事や正すような事は決して言わない。ただ時々、疑問に思ったことを口にする。その問いは、「常識」という物に目隠しされて見えなくなった「真理」を付いている。


 正人の包容力に自然と人が集まり、ぽつんと心に積もったものを吐いていく。


 このショールームを設計した時、正人の家具が生きるような空間を創ろうと思った。そしたら、樹々は正人そのものになった。


 「そうか、だから今も私元気なんだわ。」


 樹々にいる限り、正人の存在を肌で感じる。正人が纏う暖かな空気に包まれる。


 いつの間にか日が暮れて、窓の外から外灯の光が差し込んできた。

 ショールームの家具が、長い影を作る。


 この、荒れ果てたショールームは、正人の心であり、自分の身体でもある。意図せずすれ違っていた時間が、こうしてしまった。


 ――二人でいれば、こんな事にならなかった。


 お互いに大切な存在で、その事に気付いていたのに、何故離れていたのだろう。こんなに傷だらけになるまで。


 窓辺に立ち、十字路の向こうを見つめる。雪原が月に照らされて青く光っている。


 雪は、青かったんだな。


 幻影のような青い影を見つめる。冬が来れば雪が降り、全ての物を覆い尽くす。ここに住んでいたときは当たり前の光景だった。それが今、初めて目の当たりにする神秘的な世界のように感じる。


 遠くの雪原に何か動くものがあった。目をこらして見ると、それが北狐だとわかる。顔だけをこちらに向けている。


 『見栄と意地は、張るもんじゃ無いよ。』


 どこかで声が聞こえた気がした。それは、狐が発した人の声なのか頭の中で蘇った声なのかは分からない。


 節子が口癖のように言っていた言葉だ。


 思えば、見栄と意地ばかり張っていたような気がする。


 あんなに一生懸命仕事に打ち込んだのも、少しでも早く正人と肩を並べたかったからだ。一人前になった自分を認め、正人に「樹々に帰ってきて欲しい」と言って欲しかった。


 正人の心と、自分の心。

 それ以外、本当は何もいらないのに。


 北狐は、一度こちらに身体を向けたが、くるりときびすを返して走り去っていった。身体を上下に揺らしながら。


 なんとなく、節子が頷いているような気がした。

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