過呼吸の理由-3

 健太の声が聞こえるが、水中で水面の向こうの声を聞くように遠い。

 視界に、黒い斑点が混ざる。その斑点が、ぐるぐると回転する。


 「美葉、美葉。大丈夫よ。」

 耳元で、佳音の声がした。この声も、遠い。


 「大丈夫。大丈夫だから、息を吐いて。」

 波打つように揺れる声が言う。


 息を吐く……?こんなに苦しいのに……?


 「息を吐いて。そしたら、勝手に肺が息を吸うから。」

 『息、吐きましょう。』

 耳の内側から、声がする。


 瞼の裏が一瞬光る。


 雨音が耳に蘇る。石畳に出来た水たまりに生まれては消える波紋。木の葉が揺れるたびに微かに揺れる淡い光。


 『息、吐きましょう、美葉さん。勝手に、肺は息を吸いますから。』

 「息を吐いて、美葉。肺が勝手に息を吸ってくれるから、息を吐くことに集中して。」

 耳元に佳音の呼吸が聞こえる。そのずっと内側で、大きく息を吐く音が聞こえる。


 正人の呼吸だ。


 『息を吐いて。』

 「息を吐いて。」

 『息を吐いて。』

 重なり合う、佳音と正人の声と呼吸。


 「……は、ぁ……。」

 無理矢理、息を外に出す。


 「そう、その調子。」

 『そうです、その調子。』

 「大丈夫だよ。」

 『大丈夫ですよ。』


 息を吐き出す。息を吐き出す。


 少しずつ、喉元の塊が薄くなり、消えていく。

 収まらない鼓動に手を当てながら、美葉は身体を起こした。


 「ごめん、大丈夫。大丈夫。」

 安心させようと笑おうとする。口角を上げる方法を忘れたような頬に苦戦を強いられるが。


 「無理しなくていい。」

 佳音が肩を抱きしめた。


 「座ろう。」

 いつの間にか健太が椅子を持ってきていた。細長い背板の桜で作られた椅子。自分のため正人が作った椅子。


 佳音に肩を支えられて立ち上がり、崩れるように座る。背もたれに背を預けようとする前に、背もたれが抱き留めてくれたように感じる。


 背中が、ほっと息をついた。


 この椅子に座るのは、何時以来なのだろう。

 この椅子はこんなにも、自分の労を受け止め、癒やしてくれるものだっただろうか。


 佳音が、美葉の膝の前に跪いた。


 両手で美葉の手を取り、包み込むように触れる。その後で、手の甲の皮膚を摘まんだ。次に親指の爪を触る。佳音はその爪をじっと観察し、指先で爪を押さえた。それから、顔をのぞき込む。おもむろに両目に両手が伸び、美葉の下瞼を押し開く。


 「過呼吸は、いつからあるの?」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る