過呼吸の理由

過呼吸の理由-1

 節子の体が小さな箱に収められていることを飲み込むことがなかなかできない。


 合わせた手をほどいてからも、遺影の前から動くことができないでいた。


遺影の節子は自分がよく知る節子よりもひとまわり小さな顔で、皺だらけの顔に仏様のような笑みを浮かべていた。家族が集まって食事をした日に撮った写真だそうだ。


この笑顔の節子を、美葉は知らない。


美葉の中の節子は、福福とした笑みを浮かべ、迷いに対して道を記してくれた頼もしい姿をしている。


認知症が進み赤子のようになり、皆の愛に身を委ねていた姿を、美葉は見ていないのだ。


 大事なことを見失ってしまったように思う。知らなければならなかったことなのに、知る機会を逃してしまったのだと痛烈に思う。


 けれど、どんな節子でもいいから目の前に現れて、悲しんでいる自分に声を掛けてほしい。


 「節子ばあちゃんに、もう一度会いたい……。」

 つぶやいたら、涙がこぼれてきた。


 「ありがとうね、美葉ちゃん。わざわざ京都からお線香あげに来てくれるなんてね。」

 波子に声を掛けられ、美葉はハンカチで涙をぬぐって振り返った。


 「職場の仲間が親切で、休暇を取るように勧めてくれたの。」

 「へぇ、お前ずっとディスってたじゃん。」

 後ろで胡坐をかいている健太が言う。


 そう言えば、帰ってくると必ず片倉について、罵詈雑言を並べていた。


……すいません、言いすぎました。


心の中で片倉に謝る。


 「先輩も、厳しいけど実は意外といい人だった。それよか、社長が曲者。私がなかなか帰ってこれないのは、社長の策略だったみたい。」


 涼やかな笑顔を浮かべ、もう帰郷を邪魔しないと言いながら次々と大型の案件を持って来た涼真の顔を苦々しく思い出す。


 「なんで、社長さんが美葉を帰れないようにするの?」

 佳音が首をかしげる。思わず天井を見上げると、佳音が指をさしてきた。


 「あのかっこいい社長さん、美葉のこと狙ってるんでしょ。」

 「まぁ……。」


 ごまかすように波子が入れてくれた茶をすすろうと湯飲みを持ち、熱くて手を引っ込める。


 「そうなの!相変わらず美葉はモテるねぇ。正人もうかうかしてられないねぇ。」

 「ねぇ。」

 波子と佳音は頷きあった。


 正人は、空港に来なかった。


陽汰と分かれた後も二時間待って、諦めて健太に電話をした。健太は工房に様子を見に行ってくれたが、軽トラックはなく工房には誰もいなかった。でも、相変わらず正人はスマートフォンの電源を切っているか電波の届かない場所にいる。


 「正人さん、どこ行っちゃったんだろう。」


 わざと茶化すようにつぶやく。本当は、不安で不安で仕方がない。この前は、明らかに自分から逃走した。LINEの返信がないことも、自分を避けていることも、理由がわからない。もしかしたら、何か正人にとって気に障るようなことをしたのだろうか。それとも、もう。


 もう、自分に会いたくないだけなのかもしれない。


 「樹々に行ってみるか?」

 健太が立ち上がった。

 「え、でも、健太。」

 佳音が引き留めようとする。その佳音に向かって健太が首を横に振る。


 「隠してたって仕方ない。正人はどうせ逃げたんだ。いつ帰ってくるかわからないやつのことを待ってる美葉の身にもなってみろよ。」

 健太は怒った顔でそう言い、佳音も眉を寄せて頷いた。深刻な二人の顔に嫌な予感が走る。


 「……樹々が、どうかした?」


 健太の表情がさらに曇る。大きなため息をついた後、僅かに唇の端を持ち上げた。


 「行ってみたら、わかるよ。」

 そう言って玄関の方に身体を向けた。

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