帰る場所

見栄も意地もはるのをやめる

見栄も意地もはるのをやめる

「昨日は本当に驚いたねぇ。」

 雪を被ったトマトの茂みを見ながら、波子が笑う。


 昨日コートを忘れて帰ってしまい、取りに来た。錬が現れたことや、佳音の妊娠のことで騒然となり、節子のことを偲ぶ会なのか再会を祝う会なのかよくわからない状態になった。錬との再会を喜び、札幌に戻る錬の車を見送ってから、酔い潰れて寝入ってしまった和夫を抱えて帰った。その騒動でコートのことを忘れてしまったのだった。


 「本当に、驚きましたね。でも、錬君が無事で何よりでした。」

 「本当にあの子、錬君を隠してたなんて。ご両親に申し訳ない。」

 「でも、佳音さんが見つけなかったら今も行方知れずのままです。」

 「まあねぇ……。」

 頬に手を当て、ため息をつく。


 「いろいろあった一日だった。あの後、紫苑の重大発表もあったんだよ。」

 「紫苑君の?」

 そう言えば昨日、あの騒動の中に紫苑の姿はなかった。


 「医者になりたいんだってさ。」

 「お医者さん、ですか!?」


 あんなに熱心に農業の勉強をしていたのに、実はそんな夢を持っていたのかと驚く。波子は困ったように眉尻を下げた。


 「ばあちゃんの入院先があんまりにもひどくてさ、町内の医療体制を何とかしないといけないって思ったんだってさ。」

 「はぁ、それは、立派な志だ……。」


 驚いて、思わず紫苑の部屋のほうを見上げる。家業の手伝いも勉強もコツコツと真面目に取り組んでいた少年は、これから医者を志すのかと思いながら。


 「養育費、しっかり払ってもらわないとねー。」

 波子も二階のほうを見上げてつぶやく。え、と正人は声を上げた。


 「離婚、するってことですか?」

 「そう。」

 あっさりと、波子は認めた。


 「佳音も所帯を持つし、紫苑は大学生になって家にいる時間も少なくなるだろうし。あの人と二人でこれからこの家で暮らすのかと思うと、ちょっとぞっとしたんだよね。」

 「そんなもん、ですか?」

 「そんなもん、ですねぇ。」

 波子はフフッと笑った。


 「子供がまだ家にいる間だったら、何とかだましだまし過ごすうちに関係を修復することもできたかもしれない。タイミングの問題なんだよね。浮気が見つかった時に無理やりにでも別れさせたらよかったのかもね。でも、もうどうでもいいわ。」


 確か、聖子も同じことを言っていたな、と思った。かつての愛人聖子は、自分たちの関係を『別れ時を逸した』と表現したのだった。

 「問題はね、あの人今、戸籍課にいるらしいんだわ。あの人に離婚届渡すのかと思うとねー。旦那に行かせようかと思ってんの。」


 そう言って、波子は大きな声で笑った。正人は町役場の窓口で、事務服の聖子に離婚届を手渡す紀夫の姿を思い浮かべ、悪い冗談のようだと思った。波子はひとしきり笑い、ふっと息をついた。


 「正人、私は見栄も意地も張るのをやめたよ。あんたは、どうする?」

 「え?」


 その時、スマートフォンの着信音が鳴った。

 画面に、「美葉さん」と表示されている。慌てて、落としそうになる。そのスマートフォンを波子が奪い、通話ボタンを押した。


 「もしもし、美葉ちゃん?久しぶり。……なぁんもなんも。……あらー、そうなの。それはよかった。今、正人に代わるわ。」

 元気よく会話を交わした後、正人にスマートフォンを差し出す。正人は、躊躇いながらもスマートフォンを耳にあてた。


 「正人さん?」


 美葉の声だ。透き通る、高い声。胸がぎゅうっと締まるように感じる。


 「私、今から飛行機に乗るの。空港まで、迎えに来てね。」

 「え?え?」

 一方的にそう告げた後、電話がぷつりと切れた。


 だらりと腕が力を失う。スマートフォンからツーツーという音がかすかに聞こえる。


 波子が肘で背中を押した。

 「ほら、迎えに行っといで。」


 その小さな力に押されて、正人はよろめいた。

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