有給休暇って何ですか

有給休暇って何ですか

 泣きはらした顔を公園の手洗い場で洗い、ハンカチを濡らして瞼に当てた。平常の顔に戻ったことを確認してから会社に戻ると、机の上にA4サイズの紙が置いてあった。コピー用紙ではなく、分厚い上質紙で日にちなどを書き込む表になっている。


 「お前、有給休暇って知ってるか。」

 しげしげと眺めていると、片倉が顔を上げずに問いかけて来た。


 「何言ってんですか、知らないわけないでしょ。去年、インフルエンザに罹った時に使いましたよ。」

 「あほか。それは病気休暇や。」


 片倉ははぁとため息をつき立ち上がった。書類に目を落とす佐緒里の後ろを通り、美葉の横に立つ。美葉が首をかしげていると、机の上の紙を取り上げ、目の前にかざした。

 「有給休暇はこれや、あほ。」

 はぁ、とその紙を眺める。片倉がばん、と有給休暇届を机に叩きつけた。


 「……すまん。」

 机に手をついたまま、片倉が言う。


 すまん……?って言った?


 美葉はきょとんとした。片倉の口から謝罪の言葉など聞いたことがない。

 「お前が五年以上働いてきて有給休暇の取り方も知らんというのは、俺の教育が悪かった。」

 片倉は体を起こし、人差し指で銀縁眼鏡を押し上げた。

 「……と、今佐緒里さんから説教された。」


 佐緒里は、書類から目を上げず口元をほころばせた。


 「なんや故郷で大事な人が亡くなったんか?」

 片倉に問われ、瞬間湯沸かし器になったようにボッと顔がほてる。


 「み……見てました?」

 「そら、鴨川沿いで女が泣きながら大声でソーラン節を歌いだしたら誰かてガン見するやろ。」

 「あちゃー……。」


 両手で顔を覆う。相手を記憶喪失にさせる機械とか薬とかがあったら一億円出してでも今すぐほしい。片倉は腰に手を当ててため息をついた。


 「葬式に出たいんと違うんか。」

 「あ、今日だったんで。もう終わってますね。」


 時計を見る。十五時を過ぎたところだった。もう、荼毘に付されているはずだ。今頃みんな集まって、節子を偲んでいるだろう。


 「ほな、線香でもあげて来い。」

 「いいんですか……?」


 片倉は顎をくいっとあげて早く書けと促す。美葉は、明日の日付を有給休暇届けに書き込んだ。


 「一日?お前北海道と京都を日帰りする気か?」

 「いや、実はこの前やってみたんですけど、意外と楽勝でしたよ。」


 「お前なぁ……。」


 片倉は額に手をついてさっきよりも深いため息をついた。それから、届け出の用紙を自分の方に引き寄せ、金曜日までの日付を書き込んだ。美葉は驚いてのけぞった。椅子の背もたれがなかったら後ろにひっくり返っていたかもしれない。


 「ええか、休みを取るのも仕事やぞ。リフレッシュをして気持ちを整えてこそ仕事に集中できるんや。そやからいつ自分が休んでもええように普段からこまめに自分の仕事を周りに報告しておくんや。不足の事態が起こって急に休みが必要になった時にどうしたら周りの人間や顧客に迷惑が掛からへんか考えながら仕事をする。そして的確にどう対処したらええのか代わってもらう相手に伝える。これも仕事の技術やねん。だからお前は休み方を知らんというのは大事なスキルが一つ抜けているということや。大体五年も働いていて有給取らんておかしいねん。どんだけ仕事人間なんや。」


 片倉のくどい説教が始まった。無意識に片方の耳をふさぐ。佐緒里がにやにやと笑ってこちらを見ている。


 「美葉さん、私美葉さんのいない間片倉さんについてお仕事代わりにさせてもらってもええですか?」

 見奈美横から顔を突き出した。


 「じゃあ、お願いします。今から申し送り内容まとめまーす。」


 まだ説教をしている片倉を無視してパソコンを開く。片倉は肩をすくめた。

 「休んでいる間、困らんようにしておけよ。」

 話を切り上げ、自分もパソコンに向かった。


 「片倉さん。」

 パソコンから目を上げず、声を掛ける。

 「ありがとうございます。」


 ふん、と鼻を鳴らす音が聞こえる。

 

 「美葉、私六花亭のバターサンドが食べたいわぁ。」

 佐緒里が言う。その後ろに、ちょうど接客を終えた一恵が現れる。


 「えー、美葉さん帰郷するんですかー?そうですよねー。仕事も時々休まんとね。私は白い恋人派ですからー。」

 「あ、私もー。」

 一恵に見奈美が応じる。


 いい職場だな。

 美葉の胸がジンと熱くなった。


「まかせといてください!六花亭のマルセイバターサンドと白い恋人に、北菓楼のバームクーヘンとロイズの生チョコも付けちゃいます!」


思わず泣きそうになり、捲し立ててからガッツポーズを作った。

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