友と語らう-3

 「美葉に、もう言ったのか?」

 健太の口調が、微かに自分を責めている。正人は小さく首を横に振った。


 「……まさか、黙って去るつもりじゃないだろうな。」


 口調がきつくなる。正人は絨毯の大きな茶色いシミを見つめる。きっと、かつての教員の誰かが、醤油をこぼしたのだろう。おもむろに健太はビールを一気に飲み干し、その缶をぐしゃりと握った。


 「お前の『心に決めた人』は、美葉なんだろ?」


 茶色いシミを凝視したまま、正人は頷いた。


 「それも、俺らが高校生の時から、心に決めているんだろ?」


 ――鮮明に浮ぶのは、美葉の笑顔。学校が終わる夕刻に、いつの間にか勝手口に立っていて、その事に気付いた自分に向かって見せたはじけるような笑顔。初夏の眩しい光の中で、可憐に揺れる芍薬のような人だった。


 健太の声は、怒りを増していった。


 「佳音みたいに壁ドンはしねぇけど、美葉は俺にとって大事な親友だ。その親友の気持ちを踏みにじって、黙って去って行くのは許さねぇ。」


 健太は一度口を真一文字に結んだ。その喉の奥がぐっと空気を飲むような音を立てた。


 涙を、飲み込んだのかも知れない。


 それから、長い息を吐いた。


 「……正人も、俺にとっては親友だ。親友のお前が自分の気持ちを踏みにじって去って行くのも、許さねぇ。」


 はっと、正人は顔を上げた。


 鼻の頭を真っ赤にした健太が、自分を見つめている。


 健太は、自分にとって初めて出来たたった一人の親友だ。


 シェルターのような強固で温かい幼なじみの輪に入れてくれ、呼び捨てにし、同等に付き合ってくれた。いつの間にか心が通い合う友となっていた。


 「すまない……。」

 そう呟くと、塩っぱいものが口に入った。


 自分はいつも泣いてばかりで、情けない。そう思うほどに涙が溢れる。固く瞑った瞼の裏に、明るく笑う少年達の姿が浮ぶ。


 「ボタンを、掛け違ってしまった……。時間を戻して、やり直せたらいいのに……。」


 美葉に出会ったあの瞬間に。


 蝦夷赤松の根元に倒れた自分を、のぞき込む美葉の顔が見える。逆光の中の、天使のように美しい少女との出会い。


 ……いや、そこではない。


 もっと、昔に戻ってやり直さなければ、自分は駄目なのだ。


 学校でいじめられ、泣きながら家に帰り、母の部屋のドアにもたれていた。そこかから聞こえる微かな衣擦れや漏れ感じる気配だけが、安心できる場所だった。あの時に戻って、もっと沢山のことを学ばなければ同じ事を繰り返すだけなのだろう。


 だけどそれは、病に苦しみ抜き、自死した母を恨むことになる。


 それだけは、できない。


 噛みしめた奥歯から、嗚咽が漏れる。


 項垂れた肩に、健太の大きな手が触れた。

 「やり直すことは出来ないけどさ、取り戻すことは、出来るんだぜ。いつでも、何度でも。」


 健太の手から、ぬくもりが伝わってくる。


 取り戻す。


 もしそんな事ができるとして、一体どれ程多くのものを取り戻せばいいのだろう。


 自分が人並みに生きていくためには。

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