看板を仕舞ったら-3

 ああ、と波子は顔を上げた。


 「ちょっと、家に来てくれるかい?前になおしてもらったロッキングチェア。ばあちゃんがあれに乗りたがって困ってるんだよ。揺れるからさ、落ちちゃいそうでね。何とかならないだろうか。」


 節子が大切にしているロッキングチェアは、何度か修理したことがあった。足ががたつきやすくなっており、時折微調整が必要なのだ。


 確かに、今の節子にロッキングチェアは危ない。ロッキングチェアの揺れに体を固定するためには体幹の力が必要になる。節子の体にはもうその筋力は残っていないだろう。


 すっかり構造を覚えているロッキングチェアを頭に思い浮かべる。


体幹が不安定な節子が安全に乗れるロッキングチェア。すぐに思い浮かんだのはベビーカーだった。ベビーカーは赤ちゃんの股にベルトを通して体をしっかりと固定する。しかし、節子の体を椅子に固定するのはなんだか忍びない。


 「あ。」

 正人はピンとひらめいた。急いで工房に戻り、道具を一式抱える。


 「いいこと思いつきました。行きましょう、波子さん」

 「本当。よかった。」

 波子は笑顔を見せた。


 「私、帰る。」

 桃花が波子の体から自分の体を引き離した。もう涙が乾き、感情を顔から隠している。


 波子は困ったような顔をしたが、頷いて自分の腕をほどいた。桃花はたっと駆け出して校門の向こうへ姿を消した。


 「桃ちゃんも、寂しいんだよ。」

 波子がつぶやく。


 白樺は葉をすっかり落とし、頼りなく細い枝を空に伸ばしている。冷たい風が、骨にしみこんでくるようだ。


 「今年は、雪が遅いですね。」

 白樺の葉を踏みしめながら正人が言うと、波子は頷いた。

 「こういう年はね、いきなりドカ雪が降るよ。覚悟しときな。」

 前が見えなくなるほどの吹雪が脳裏に浮かび、正人は首を竦めた。そしてはっとする。


 その雪は、恐らくここでは見ないだろう。


 だがその事には触れず、荷台に道具をのせ、軽トラックの助手席に乗り込む。


 掘り起こされた田の土と、秋撒き小麦の新緑が広がる車窓を眺めながら、最初にロッキングチェアを修理して節子の家に届けた日の事を思い出す。


 刈り取られたばかりの、まだ黄金色の小麦畑に転がる麦稈ロール。縁取るように広がる稲の緑。広く青い空に浮かぶ綿雲。節子のソーラン節。


 あの時に、戻れないのだろうか。


 戻れたら、やり直したいことが山ほどある。今の自分にたどり着かないように。

 そして、堂々と、美葉に思いを告げられるように。


 でも、時は戻らない。


 悲しくなったところで、波子の家に着いた。

 車椅子に乗った節子は居間にいて、そばで紫苑が参考書を広げていた。紫苑は正人と波子の姿を見つけ、慌てて参考書を閉じた。


 「紫苑君こんにちは。お勉強ですね。受験生ですもんね。大学、どこに行くのか決めたのですか?」

 紫苑は顔を赤くして首を横に振り、参考書を抱えて居間から出て行った。


 「なんだかね、思うところがあるみたいなんだけど、教えてくれないんだよね。


紫苑には、農家を継がなくていいって言ってあるんだけどね。農地を健太に貸してから楽になったし。


ただ、健太が紫苑がいずれ有機農業の仲間になってくれるって期待してるんだよね。紫苑はそう言うの、真に受けちゃうでしょ。


あの子は小さい頃から、いろんなことを背負いすぎてるんだよね。」


 小学生の頃から、健太や悠人と供に家業を手伝っていた姿を思い出す。真面目でひたむきに家族を支えようとしていたけなげな少年も、もうすぐ人生の岐路に立つ。

 階段を駆け上がる足音を聞きながら、天井を見上げた。


 波子が、居間にロッキングチェアを運んできた。節子はそれを見つけ、身を乗り出した。

 「節子ばあちゃん、ちょっと待ってくださいね。安全に乗れるように、今、点検しますから。」

 正人は節子の肩に手を置いた。節子は正人の顔を見上げ、しばらくして頷いた。


 「あんたには、世話になったねぇ。」

 小さな声でそう言い、微笑みを浮かべる。


 「お世話になっているのは僕の方ですよ、節子ばあちゃん。」

 小さな肩をさする。


 節子は、そこにいるだけで人の心を温かくしてくれる。そのぬくもりから離れたくないと切に願い、目頭が熱くなる。


 「では、仕事に取り掛かりますね。」

 涙を振り切るように、正人はロッキングチェアに向かった。

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