沈香の香り

沈香の香りー1

 「お点前を頂戴いたします。」

 保志が恭しく頭を下げる。茶碗を右手にとり、左手に乗せた。


 「いただきます。」


 茶碗に向かって頭を下げる。ゆっくり時計回りに2回、茶碗を回す。ごくり、ごくりと喉仏が動く。茶碗を正面に置き、再び頭を下げた。


 この間中ずっと、美葉は俯いて肩を震わせていた。


 「美葉。お前、笑いすぎや。」

 地を這うような保志の言葉に、こらえきれず笑いが口から噴き出していく。


 「なんですの、はしたない!」

 案の定、駒子からぴしゃたしなめられた。


 「だって、めちゃめちゃ似合わないんですもん。」

 「分かっとるわ、そんなん。俺は嫌いやねん、この苦い茶!固っ苦しく正座してただの茶ありがたそうに飲んで何が嬉しいねん。俺は麦茶でええわ!」

 「保志!なんという言葉遣い。ここはお茶席ですよ。」

 雷のような駒子の声が飛ぶ。


 「まぁまぁ、師匠。もう身内だけしかおらへんのですから、ちょっと寛いでおしゃべりさせて下さいませんか?」

 涼真の言葉に駒子は不服そうな顔をしたが、反対はしなかった。


 ふう、と息をつき、涼真は美葉のほうを見た。


 「美葉さん、紹介しますよ。この方、ゼンノーの田中さん。」

 掌の向こうで、保志が歯並びの悪い口をニッと開けている。


 「はぁ?」


 間抜けな声しか出ない。


 しかし、思い返すとやり取りの中で感じたムカつきには覚えがある。


 「そして、駒子さんの息子さん。」

 「ええええええ!」

 もろ手を挙げてのけぞった。駒子がはしたないとこちらをにらむ。


 「どうも。ゼンノー北海道支店店長の田中保志です。」

 にやにやと笑っている。驚きすぎて、もう声も出ず保志の顔をぽかんと眺める。


なんと。


 保志は木寿屋と共に歩んできた工務店ゼンノーの跡取り息子。


であれば、保志と涼真が知り合いであったことも納得がいく。それにしても。


 「なんで、こんな遠回しなことしたの?最初からやっさんと正人さんペアとの仕事だと分かってたらもっといろいろ気軽に相談できたのに。」

 一番わからないところが、そこだ。そしてなぜ、正人が逃げてこの場にいないのか。


 保志は、口をへの字に曲げた。

 「実は今回、身分を伏せて仕事のやり取りをしたんは美葉だけやないねん。正人とも、『ゼンノーの田中』としてやり取りをしとったんや。」

 「え、なんで?」 

 美葉は眉をしかめ、首をかしげる。


 「ちょっといざこざがあってな、直接仕事を頼みにくい状態やねん、今。俺からの仕事やと分かってたら受けてくれへんかったかもわからんし。」

 「いざこざ?」

 保志は肩をすくめて見せた。


 「最近正人がだらしなぁてな。眠そうな顔で仕事して、案の定チョンボしたからお灸をすえたんや。ほな、タイミング悪う髭親父が絡んでもうて、話が変な方向に行ってしもたんや。どうしようかと思ってたら、おかんが倒れてな、京都に戻らんとあかんようになった。


 おかんのしょぼくれ方が半端のうて、どうしたもんかと克子と思案したんや。立礼卓りゅうれいじょくなら車いすでもお点前はできるけど、茶道は正座が基本というおかんが気に入るような立礼卓はなかなか無い。このお人を納得させるだけの立礼卓を作れるのは、この世にただ一人、正人しかおらん。


で、克子にメールしてもろたら、すぐに餌に食いつきよった。美葉の会社の近くやっていうのが、ミソやったと思うねん。


 幸い正人の立礼卓をおかんが気に入ってくれたんで、ついでに茶室の建て替えもしとこうやとそそのかしたんや。」


 「敢えて、僕が海外出張をしている時期に合わせてね。」

 涼真が、苦虫を噛むような表情で保志を睨んだ。


 「僕を、蚊帳の外に置いて美葉ちゃんとその家具職人さんとの仲を取り持つようなことをして。……保志さんは奇妙なほどその人に肩入れしてはるね。もしかして、誰かさんの代わりやと……。」

 「そんなんと違う。」

 

 涼真の言葉を、保志が遮る。保志の眉が般若のように吊り上がっている。そして、盗み見た涼真の顔も、怒りに満ちていた。


 二人の間に、冷たく張り詰めた空気が流れる。


 だがそれはつかの間のことで、急に発せられた保志の笑い声によって無かったことのようにかき消された。


 「お前の悔しがる顔を見るのも、おもろい。そう思っただけやがな。そない怒るな。」


 美葉はなんとなく安堵の息を吐いた。


 しかし、話の筋は納得できたが、美葉とて気に入らないことはたくさんある。


 「でも私をだます必要はないんじゃない?」

 じろり、と睨むと保志はにやりと笑い返した。

 「知らんかったほうが、感動が大きかったやろ?」

 「……確かに。」


 頻繁に駒子の所に来ていたから、てっきり京都の人だと思っていた。その繊細な仕事ぶりに感動したが、正体が正人だと分かれば納得がいく。


立礼卓を見た時の鳥肌が立つような感動と、樹々の焼き印を見た時のはじけるような喜びは、知らなかったから感じることができた。


 そして何より、正人と作り上げる仕事が、これほど自分にとってエネルギーになり、達成感をもたらすとは。これも確かに知らなかったからこそ鮮明に感じることができた。


 「多分、正人も同じ気持ちや。ここで種明かしをしたときは、また鼻水垂らして泣いとった。」

 茶室を見渡して涙する正人の姿は容易に想像がついた。


 だったら、なぜ?

 「……なんで、正人さんは逃げたの?」

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