アリとキリギリス-2
「ということでね、しばらくお父さんが家に帰ってくることになったの。」
錬と遅い夕食を食べながら、昨日のことを話した。
節子は日中デイサービスに行くことになったが、それ以外の時間は介護が必要だ。歩こうとするとふらついてしまうので車いすで生活をし、トイレも着替えも手伝わなければならない。できるだけ手伝うと紫苑が申し出ると、波子は『受験生なのだから気にするな』と言ってきかなかった。
そこで、紀夫が手を上げたというわけだ。意外にも波子は『助かる』とすんなりと受け入れた。紀夫は長距離トラックに乗っているので毎日帰ってくるわけではないが、十年以上ぶりに森山家で暮らす事になった。
「おじさんとおばさん、撚りもどすんじゃねぇの?佳音は平気なのかい?」
錬がカレーライスを掬いながら言った。
「それがね、まったく気にならないの。私も大人になったもんだわ。」
サラダのトマトを口に運びながら答える。
「おっぱいも大きくなったしな。」
「……ばか。」
こつんと足をけった。
父親が家を出て愛人のもとへ行った時のショックと、父親への嫌悪感はずっと忘れないだろうと思っていた。しかし、今は父と母の問題だと客観的に受け止めることができる。だから、母がいいというのであれば、父が家に帰って来るのは構わないと思える。
この気持ちの変化は、錬と大人の男女として幸せに愛を交わすことができているからだと思う。
こうなるまで、時間がかかった。
小野寺からは、性的な虐待も受けていた。暴力の一つの手段としての行為は体の痛みだけではなく、心をずたずたに引き裂いていた。そのことに、錬に触れられて初めて気づいた。
フラッシュバックが起こり、体をこわばらせてしまう。目をぎゅっと閉じ、時間が過ぎるのを待とうとする。
錬はすぐに異変に気付いてくれた。
錬への愛情が心と体をほぐすまで錬はともに寄り添い乗り越える努力を続けてくれた。
心の傷が完全に癒えることは、無いのかもしれない。小野寺から受けた暴力の記憶は時折頭をもたげてくる。その度に体が震えて動悸が起こり冷汗が出る。
それでも、前を向いて生きていける。錬とともになら。
「ばあちゃんのリハビリのためにも、できるだけ家族が集まって、ご飯を食べようってことになったの。私もなるべく実家に帰りたいんだ。……錬との時間が、また減っちゃうけど。」
「佳音が大変じゃなかったら、好きにしたらいいよ。俺は佳音と一緒に暮らしてるってだけで満足だからさ。」
錬はそう言って笑顔を見せた。
――一緒にご飯食べに帰ろう。
本当は、そう言うべきなのだが、言葉を飲み込む。
錬の存在が皆に知られたらどうなるのだろうかと不安になる事がある。その時は、パン職人になることをあきらめて家業を継ぐように迫られるのだろうか。そしたらまた、どこかへ行ってしまうかもしれない。
今ある幸せは、本来あってはならない形なのだろう。いつかは、錬は故郷に戻りけじめをつけることを選択してほしい。いつかは。
もう少しだけ、そのいつかを後回しにしていてもいいだろうか。
小さな部屋の、ままごとのような二人の生活を、もう少しだけ続けていたい。
美味い美味いとカレーライスを食べる錬を見ながら、佳音は祈るような気持ちになった。
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