アリとキリギリス
アリとキリギリス-1
カレーの鍋は瞬く間に空になった。残ったら錬に持って帰ろうと思っていたが、それがかなわず残念に思っていたところ、帰り際に母がこっそりタッパーを渡してくれた。佳音だけにとっておいたと聞いたら瑠璃が怒るので内緒にしなさいと言って。
「姉ちゃん。」
運転席のドアを開けようとしたところで呼び止められる。振り返ると、紫苑が難しい顔をして立っていた。この弟は、大抵いつもこんな顔をしている。
紫苑は佳音に向かって一歩歩み寄った。
「ちょっと、聞きたいんだけどさ。」
その顔は、いつもに増して険しい。
「なに?どうした?」
首を傾けて言葉を促す。紫苑がぎゅっとこぶしを握ったのが見えた。
「ばあちゃんは、なんで歩けなくなったんだ?」
紫苑の発した言葉があまりにも意外で、佳音はとっさに言葉が出なかった。紫苑の顔に怒りが浮かんでいる。
「折れた骨を治すために入院したのに、なんで歩けなくなって帰ってきたんだ?病院は、何のためにあるんだ?」
紫苑の怒りの矛先は、医療に対する不満であるようだ。それを、医療従事者である自分にひとまず向けているのだろう。
紫苑の怒りは、よくわかる。自分も腹が立って仕方がないのだ。
「紫苑。ばっちゃんは運ばれた病院が悪かった。救急車が江別の市立病院あたりに運んでくれたら、筋力が落ちないようにリハビリもしてもらえただろうし、認知症が進まないように言葉を掛けるとかそれなりの対応をしてもらえたはず。ずっと身体拘束されて退院まで寝かせたっきりってことは、無かった。」
「……なんだよ、それ。」
紫苑は悔しそうにゆがめた顔を地面に向けた。
「運かよ。救急車はくじ引きかよ。同じ金払って、なんで運が悪けりゃ寝たきりにされるなんてことが起こるんだ。札幌じゃないからか?田舎の人間は、いい病院に当たるくじは少なくて当然なのか?」
「紫苑……。」
家族としての悔しさと、医療に携わる者として申し訳ないという気持ちが複雑に混ざる。医療は公平ではない。当別は札幌に隣接しているからまだ条件はいい。主要都市から離れた地域は、医療も福祉も資源が圧倒的に少なく「病院を選ぶ」ということ自体不可能だ。
重い沈黙が流れる。
冷たい風が吹き、上着の前をきつく握りしめた。栃の木の向こうに星が見える。空気が澄んでいればいるほど、この時期の風は冷たい。
「俺さ、医者になりたい。」
おもむろに紫苑が言った。佳音は驚いて弟の顔を見る。紫苑は決意をたたえた眼差しを姉に向けていた。
「一人の力でなんとかできるとは思わないけど、何もしないであきらめるのは悔しい。医者になって、当別の医療を少しでも支えたい。」
そう言った後、困ったように眉を寄せた。
「こんなこと言ったら、健ちゃんとか悠兄が残念がるかな。」
健太と悠人は、ともに有機農業を担う仲間として紫苑を迎えたいと願っている。小学生のころから家業を手伝い、悠人に農業の何たるかを習ってきた。女を作って出て行った父に代わって、家業を背負う覚悟をしていたのだ。
いつも仏頂面で言葉を交わすことの少ない弟が、頼もしい男に見えてくる。
佳音は首を横に振った。
「あんたの人生はあんたのものよ。なりたいものになればいい。」
まじまじと、紫苑の顔を見る。紫苑について、ずっと疑問に思うことが一つあった。
「でも、なんであんただけ医者を目指せるくらい頭がよくなったのかね。」
自分は勉強ができなくて、やっと探し出した偏差値の低い看護学校に何とか補欠で合格したというのに。紫苑は、ふっと笑って肩をすくめて見せた。
「そりゃ、反面教師がいたからさ。姉ちゃん、あんだけ看護師になるって豪語しておいて何一つ勉強してなくてさ。いざ受験って時期になって慌てて勉強始めてさ。ああはならないでおこうって、コツコツ勉強する習慣を身につけただけのことさ。」
紫苑の言葉が、グサグサと胸に刺さる。
アリとキリギリスだ。
もともと真面目で勤勉な紫苑がコツコツと勉強を続ければ、成績が上がるのは当然のことだ。自分と錬は、切羽詰まるまで勉強に手を付けなかった。結果、泣きながら受験勉強をする羽目になった。
そのキリギリス同士が今一緒にいるとわかったら、きっと紫苑は笑うだろう。
「反面教師に感謝しなさいね。」
佳音は笑いをこらえながらそう言った。
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