節子ばあちゃんのカレーライス-2

 何事かと声を向けられたほうを見ると、父が照れくさそうに立っていた。


 まともに顔を見るのは何年ぶりだろう。


 紀夫はすっかり白髪頭になり、初老という言葉が似あう風貌になっていた。今は、長距離トラックに乗っているはずだ。家を出て行く原因となった愛人の聖子とは、自分が看護学校に通いだした年に別れている。


 紀夫は気まずそうな顔で、節子に歩み寄った。

 「ちょっと、気になったから……。」

 ごにょごにょと口の中で言い訳をつぶやく。昔は姿を見るだけで嫌悪感を抱いたが、今は不思議なほど何も感じない。ただ老けて少し小さくなった体に、時の流れを感じるだけだ。


 「……紀夫。」


 車いすの方から、節子の声が聞こえた。紀夫の目が、驚きで大きく見開かれる。

 「母さん……。俺のこと、忘れたはずじゃ……。」

 波子が大きな声で笑った。


 「バカだねぇ、忘れるわけがないだろう。ばっちゃんは忘れたふりをしただけだよ。それを真に受けて……。」

 「そうなのか……?」

 波子は困った顔で頷いた。


 「あの時は、人の顔を忘れるほど認知症はひどくなかったしょ。」

 紀夫は、困惑の表情を浮かべて波子と節子を交互に見る。


 「……ああ。だから、よっぽど俺は存在価値がないんだと思ったさ。母さんに一番最初に忘れられるとはなって。でも、自分のしたことを思い返せばそれも仕方がないことだと……。」


 紀夫は、車いすに座る自分の母親を見つめた。その肩から力が抜け、頼りなくだらんと両の手が垂れる。


 茶色く色づいた栃の葉が風に揺れてはらりと落ちた。風が冷たい。


 「カレーにするかい?」


 節子の枯れた声が聞こえた。

 「じゃがいも、まだあったかねぇ。」


 父も祖父も、節子のカレーライスが大好きだった。


 佳音の脳裏に、幼い頃の光景が浮かぶ。


 家にある一番大きな鍋で節子がカレーを作る。波子は付け合わせのサラダをテーブルに並べる。瑠璃が皿にご飯を盛り付ける。自分と紫苑はもうスプーンをもって待っていた。でも、子供たちよりも目を輝かせているのは、父と祖父だった。


 小さな体が隠れるくらい大きな鍋を節子がテーブルに置くと、歓声が上がる。香辛料の香りが、家中に満ちていた。


 「母さん……。」


 紀夫はがくりと地面に膝をついた。遥は泣きべそになって瑠璃のもとへ走る。無理もない。遥は祖父にあったことはないのだから。


 「ごめんなさい……。」


 紀夫は節子のその細い膝にしがみ付き、顔をうずめた。小さな嗚咽が漏れる。


 あのことがあるまでは、本当に仲の良い家族だった。夫婦仲の良い両親と、自由奔放だが頼りになる姉、まじめでおとなしい弟。春の日差しのように暖かな眼差しで息子達親子を見つめる祖父母。そのことを、無意識に考えないようにしてきたと佳音は今気付いた。


 「……今日は、カレーだね。」

 佳音は母の方を振り返ってそう言い、ハッと息をのんだ。


 母は、悲しそうな顔で唇を噛んでいた。


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