逃げやがったな

四つ葉の紫露草

四つ葉の紫露草-1

「谷口さん!」


 駒子の病室に向かう途中で、理学療法士の小松に呼び止められた。


 茶室の建築は順調に進んでおり、もう美葉の手を離れたといっていい。そのため、駒子に確認するべきことはなく、以前に比べ見舞いに行く回数は減った。あしげく通っていた時期にリハビリの時間は大体把握出来た為、その時間を避けて会いに行くようになった。だから、小松に会うのは二ヶ月ぶり位だ。


 「良かった。最近急激に駒子さんが回復してきているので、一度お話ししておいたほうがいいと思っていたんです。前に確認した時とは、身体状況が雲泥の差なので。」


 駆け寄ってきて、息を切らせてそう話す。患者さんの回復を心から喜んでいるようだ。


 「どこまで回復されたんですか?」

 美葉が思わず身を乗り出してそう問うと、小松は嬉しそうに人差し指を立てた。

 「見に行きませんか?今ちょうど、作業療法士と茶道のお点前を練習していますよ。」

 「茶道のお点前を?」

  リハビリだよね。そう思いながら、問い返した。





 「日常動作訓練室」とドアに書かれた部屋にはキッチンや畳の小上りがあった。開き戸の向こうの白い無機質な訓練室とあまりにも世界が違う。撮影のセットに使う場所なのかと錯覚してしまう。


 駒子は、食卓を模したと思われるテーブルで、まさしくお茶をたてていた。


 あ、と声を出しそうになり、慌てて自分の口を押える。

 以前聞き取りをした時には、お茶をたてるような繊細な手首や指の動きが出せるほど回復することはなく、お茶をたてるのであれば利き手交換という左手での練習をしなければならなかったはずだ。しかし、今駒子は利き手である右手で、ぎこちないながらも茶筅を動かしている。


 小松は唇に人差し指を立て、部屋の外へ手招きした。


 「気付かなかったみたいなので、声を掛けないでおきましょう。」

 美葉はうなづき、音をたてないように引き戸を閉じた。


 その手が、興奮で震えている。

 「すごいじゃないですか!」


 思わず大声を出してしまい、平行棒の中で歩いていた人がこちらを振り返った。小松は困った顔でまた人差し指を口に当てた。

 「すいません。」

 小声で頭を下げる。

 「どういたしまして。」

 小松まで小声で答える。そして、自分の手柄のように微笑んだ。



 「すごいですよね。駒子さん、右手首の挙上が出来ればいい方と思っていましたが、回旋の動きが出てきたんです。それを見て作業療法士がお手前の練習を訓練に組み込んでみたんです。そしたら、更に回復が早くなりました。」


 「リハビリって、立ち上がりや歩行訓練だけじゃないんですね。」


 素朴な美葉の問いかけに、小松は得意げに頷いた。


 「僕たち理学療法士は、座位や歩行と言った基本的な動作が出来るための機能訓練をします。作業療法士は回復した機能を日常生活の動作にカスタマイズするんですよ。駒子さんの担当者は若いんですけど日常動作訓練のスペシャリストです。他のセラピストなら茶道の動作は後回しにしたかも知れません。彼女は駒子さんの一番のニーズを察知し、習得可能かどうかを厳密に判断して、小さなステップを上がるように進めて行きました。結果、茶筅を動かせるような関節の動きを獲得出来たんです。」


 「へぇ、リハビリって奥深い物なんですね。駒子さん、良いセラピストさんに出会えて良かった!駒子さんから茶道を取ったら、ただの怖いおばあさまですもん。」


 小松は声を上げて笑った。


 「あ、内緒にして下さいね、今の言葉!駒子さんに絞め殺されちゃいますからね。」

 「分かりました。守秘義務がありますので、僕たちには。……茶道が出来るようになったお陰でモチベーションが高まって、歩行状態も良くなりました。恐らく、杖歩行で退院できますよ。」

 「本当ですか!それはよかった!」

 胸の前で拍手する。


 もしかしたらと小松に呼び止められたときに思いはした。嬉しいのに冷汗が滲んでくる。


 茶室はがっつり車いす仕様だ。それが、杖歩行可能となると、変更点は……?それは今から対応可能……?


 頭の中を、ぐるぐるといろいろな考えが駆け回る。


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