好きな人と共に歩き始める
好きな人と共に歩き始める-1
佳音は職員駐車場に停車した。そして、付いて行くと言い張る波子を車の中で待たせて、看護部長室に向かった。
看護部長室に入るのは、以前重大アクシデントを起こして以来だ。緊張で胃が痛くなる。
部屋に入ると看護部長は、窓を背に置かれた席から立ち上がり、白髪を染めず短く切りそろえた頭を佳音に向かって下げた。
「こんなにひどい状態になるまで、気付かずに大変申し訳ありませんでした。」
小柄で凛とした看護部長は、怖くもあり同じ女性としてあこがれの存在でもある。その人に頭を下げられるなんて。佳音は思わず頭を下げかえした。
あの日の翌日、ボイスレコーダーを警察に届けた。もちろん、錬が現れたくだりからを消したものだが。警察から職場に連絡があったのだろう。小野寺が懲戒解雇となったことを伝えられ、一度話をしたいと呼び出されたのだった。
「実は、以前にあった重大アクシデントについて、小野寺氏の策略ではないかと告発があったのです。」
部長は、落ち着いた声でそう伝えた。インスリンの混注を間違えて違う人に投与してしまった重大アクシデント。あの件を機に、小野寺と距離が近くなった。
「あなたを担当していたプリセプターが、自分の目でダブルチェックをしたので間違えたはずがないと言ってきたのです。
取り違えた方は二人とも、認知症の患者さんでしたから、何があったのか明確に伝えることは困難でした。でも、一方の方が、『看護長さんが来た』と教えてくれたそうです。その方は、小野寺氏のファンだったそうで、直後だったこともあり覚えていたのだろうと。
ただ、証拠がなくて追及することができませんでした。あの時、もう少し踏み込んで調査するべきでした。」
部長は、もう一度頭を下げた。
佳音は、全身の力が抜けていくのを感じた。
あの失敗が、看護師として自信を無くした一番の原因だった。それが、仕組まれたことだったとは。改めて、小野寺に怒りがわいてくる。
「小野寺氏のことは、気になったので調べさせていただきました。職場を奇妙なタイミングで何度か変わっていました。前の職場に問い合わせてみると、皆一様に口ごもるのです。それで、友人関係をたどって探ると、今回と同じようなことを繰り返していたことが判明しました。どこの病院も、公になることを恐れてうやむやにしていたようです。」
やはり、と思い奥歯をかみしめる。正人が言ったように、自分以外にも被害者がいたのだ。
看護部長が、身を乗り出して佳音の手を取った。意外な行動に、佳音は体を固くする。
「森山さん、私は、同じ女性としてうやむやにすることは許せませんでした。院長も、あなたに金を払い、刑事告訴を取り下げてもらうつもりだったようです。新聞沙汰になったら、病院の評判が下がりますから。ですから、そんな病院では働けないと言ってやったんです。ふざけるな、女を何だと思っていると言ってやりました。」
看護部長は目を細め、ふっふっふっ、と声を出して笑った。
「刑事告訴でもなんでもなさい。あなたは被害者なんです。あんな男、余罪も追及して、牢屋に入ったらよいのです。あなたは、堂々と働き続けなさい。あんな男のために辞める必要はありません。」
佳音は、看護部長の細められた目を凝視した。
「あなたが辞めたら困ると、同じ病棟の職員がみんな言ってましたよ。あなたは、職場の空気を和ませて、いるだけで患者様に安心感を与えるそうです。元プリセプターも、あなたが成長したことをほめていました。慎重に仕事をするので時間がかかることもあるが、ミスがないので安心して仕事を任せられると言っていましたよ。あなたはどんなに忙しくても決められた手順をしっかりと守って、誠実に仕事をする。それは誰もが口をそろえて言っていました。
あなたに、帰ってきていただきたいのです。もう一度一緒に、仕事をしていただけませんか?」
看護部長が再度頭を下げた。
カーテンが揺れ、昼間の光が差し込んでいる。そのまぶしさに視界がゆがむ。
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